第175話 本物の構え
人形の間合いに入った俺は、半身になり腰のナイフを右手で抜き取った。飛び込んだ勢いそのままに、ナイフを握った右手で人形の顎を打つ。
ナイフを抜くモーションから、まっすぐ手を伸ばす。ナイフを抜き出す動作と攻撃のため手を伸ばす動作を同時に行うことで、無駄なく素早い攻撃を打ち出した。
ガッと音を立て、縦拳が人形の顎に突き刺さる。
脳を揺らす撃ち方ではなく、突き刺す撃ち方だ。硬いパンチと表現される、ナックルの部分に力が集約された打撃。
この打撃の特徴のひとつは『痛い』ことだ。痛みは生体反応を誘発させ、動きを止める。
硬い打撃で動きを止めた人形の頸動脈に、打撃のために伸ばした腕をずらしてナイフを当てた。頸動脈を切断する分、ほんの少しだけナイフを走らせる。
それと同時に、左の掌で人形の胸を叩く。
内部に衝撃を通す掌底ではなく、相撲の突っ張りのような突き押しだ。バチンと表面を叩く音と、ドンと重い物体が胸を押し出すような音が同時に響く。
これは心臓にダメージを与えるためではなく、相手にある程度ダメージを与えつつ距離を取るのが目的の攻撃だ。
頸動脈を切断しても即死にはならない。そのため、反撃を受けないように距離を取って安全圏へ避難する必要がある。
突き押すような打撃は、相手を殴った反動で後ろ方向への力が発生する。その力に乗っかるように、タイミングを合わせてバックステップ。
安全圏へ到達しても、決して気は抜かない。失血死するまで残心を続ける。
相手は木の人形だ。頸動脈なんて存在しない。当然、反撃など飛んでくるはずもない。
しかし、この防具は実戦を想定して作られた防具だ。実際の戦いを想定して動きをチェックしなければならない。
たかがイメージトレーニングとは言え、実際の戦いと遜色のない緊張感を保つべきだ。
残心を取り続け、十秒以上経ってから少しだけ人形から意識をはずした。頸動脈から失血した場合、うまく止血できなければ十秒ほどで体がまともに動かなくなる。まだ生きてはいるだろうが、反撃ができる状態ではない確率が高い。
その後、イメージの中で人形の死亡を確認。俺はターゲットを藁人形に移す。
木製の人形に攻撃を仕掛けているときも、残心を続けているときも藁人形にも意識を飛ばし警戒していた。
当然、ベンやエマさんも警戒している。
この世界では、いつ誰が襲ってくるか分からない。今は命懸けの戦い、殺し合いを想定している。警戒は怠れない。
中庭の緊張感が高まり、空気がピリついている。
緊張したエマさんが、ごくりとツバを飲んだ。俺の強化された聴覚がその音を拾う。その瞬間、俺は藁人形に飛び込んだ。
相手の斬撃をイメージ。イメージの斬撃を右手のナイフで受け流す。
斬撃を受け流され体勢が崩れた藁人形。俺から見て左側ががら空きになっている。がら空きの側頭部に振り抜く左ハイキックを一閃。
藁人形の頭部がバラバラに砕け散る。バラバラになった藁が人間の頭部だと仮定すれば、目的は十分に達している。
周囲を警戒しつつ残心。イメージ上の相手が死んだことを確認した俺は、ふぅと息を吐き警戒レベルを下げた。
ベンとエマさんの方に目をやると、二人は正反対の反応を示していた。
ベンは嬉しそうに目をキラキラさせていて、エマさんは明らかに引いていた。完全にドン引きである。
殺気全開で藁人形に回し蹴りを叩き込む中年男性とか、現代日本でもアウトなヤツだわ。女性であるエマさんはもちろん、誰が見ても引くかもしれん……。
俺は何事もなかったかのように、澄まし顔でベンとエマさんの方へと歩いていく。
「ヤジン、すごいじゃないか。
ベンは興奮した様子で、ドンドン俺との距離を詰めてくる。
「確かに不思議な動きだった。初見であの動きをされたら、ほとんどの人は対処できないだろうね。いや、すごい技量だよ」
ベンは俺の技量を褒めてくれたが、俺から言わせればこの世界の技術が未発達なだけだ。
レベルとスキルでゴリ押しできるため、戦う技術が育ちにくい土壌がある。
地球で長い年月研鑽されてきた技術に比べれば、稚拙であるのは当然のことだ。だから、日本では中途半端な技量だった俺の技術が通用している。
そのことをベンに言う訳にもいかないので、当たり障りない返事を返しておく。
「ありがとう、ベン」
興奮したベンは、その後も色々なことを聞いてきた。さすがに技術的なことは話せないので、暴走状態のベンにそのことを告げる。
それでも食い下がるベンにエマさんの雷が落ち、落ち着きを取り戻したベンが俺に謝罪してくれた。
気を取り直して、改めて装備の性能チェックを続けることにする。
俺の肩ぐらいの高さまで水の入った巨大な桶に装備を着たまま入る。
水の中を歩いたり、軽く泳いだりして驚いた。
まるで水の中をスルリとすり抜けるように動いている感覚。水の抵抗が少なくなっているのだろうか? 海のモンスターの革を使っているだけのことはある。
地上のように自由自在とはいかないが、それでもかなり動きやすい。
ただ、独特の浮遊感がある。浮力が上がっているのか、ふわふわと地に足がつかない。踏ん張ったり、地面を蹴って飛び込む動作には少し工夫が必要だ。
水中で地面に足がつく状態。そんな、特殊な状況で戦闘になる確率は少ないと思うが……。
それでも、最低限の動きの確認はしておくべきだろう。
水中で色々な動きを試した後、沼地の方へと移動する。
沼の深さはそこそこ。水位は腰ぐらいで、堆積した泥は膝下くらいの高さだった。
膝下くらいの高さでも、泥によって十分に動きが阻害される。
一歩踏み込むと、ズブズブと足が飲み込まれ泥がまとわりついてくる。
かなり深くまで足が泥に飲まれたが、新装備とレベルで強化されたフィジカルが合わさればゴリ押しで普通に進める。
これは素晴らしい。
ただ、この方法だと体力を多く使う。少し移動速度は下がるが、もう少し省エネで動ける移動法も試してみよう。
まず歩幅を小さくする。泥に飲まれた足を引き抜くとき、細かく足を動かすことで泥を流動化させる。
そうすると、スムーズに足が抜ける。歩幅を小さくするのは、引き抜く足を動かしやすくするためだ。
小さく踏み込んで、引き抜く足をプルプルして引き抜く。引き抜いた足を小さく踏み込む。それの繰り返し。
少しずつしか進めないので非常にもどかしいが、力ずくで泥の中を進むよりは体力を温存できる。
次は田植えの手伝いをしたときに、農家のおじいさんに習った歩き方を試してみる。
つま先からスルリと入り、スルリと抜け出す。多分、つま先から踏み込むことで抵抗を減らしているのだろう。
空手でいろんな歩法を学んだが、これは勝手が違って結構苦戦した記憶がある。
ものすごく久しぶりにやってみたが、不思議と体が覚えているものだ。ほんの少し試しただけで、すぐできるようになった。
沼の深い部分を様々な歩き方で往復。ある程度性能が把握できてから、浅い方へと向かった。
沼地が浅くなると、俺は匍匐前進で沼地を移動する。
顔面を泥につけながら、沼に沈まないように接地面積を広くして体重を分散。その状態でなるべく早く移動する。
もちろん、移動中は気配察知を使い周囲を警戒。
沼から上がった後、首周りを確認した。内部に浸水した様子はなく、感覚的に内側もびしょ濡れになったりはしていない。
結構激しく動いたけど、首からの浸水はなし。これは地味にすごいのではなかろうか? ぴっちりしている割に窮屈さもそこまで感じない。
多少汗は掻いているが、サウナスーツやレザースーツのように内部が汗びっしょりになることもなく非常に快適だ。
外部からの浸水は防ぎつつ、内部の水分は透過させる。現代のゴア◯ックス並みの性能だな。
いや、強度を考えればもっとすごい。
ファンタジー素材と一流職人のコラボはやべぇ。ものすごく地味な部分だが、俺は非常に感動している。
泥水に塗れながらそんなことを考えていると、ベンが近付いてきた。
「ヤジン、テストは合格かい?」
「あぁ、最高だよ。流石エマさん、いい仕事してますねぇ」
俺は
エマさんはドン引きしていた。さっきより引いている。何故だ? このモノマネがキモかったのか……。
いや、匍匐前進だ! 突然、泥水に顔面を突っ込みながら地面を這いずり回る中年男性。現代日本でも通報モノである。
終わったー、俺の心証終わった―。
身分差がありすぎて、エマさんとどうこうなれるなんて考えちゃいない。それでも、憧れている女性にあんな顔されるとなかなか心に刺さるものがある。
俺がひとり黄昏れていると、ベンが声を掛けてきた。
「ヤジン、泥を落としてきなよ」
「悪いな、そうさせてもらう」
俺は中庭に流れている川でバシャバシャと頭を洗い、装備ごと川に飛び込み泥を流す。
汚れを落とし終わり、ベンの元へと帰ってくると、ベンが鉄の剣を構えてこちらを見ていた。
「次は強度テストだよ。安心してね『本気』は出さないから」
ベンは一流の鍛冶職人だ。当然、剣術にも精通していると予想していた。それにしても、この構えは『本格的にやっているヤツ』の構えだ。
モンスター相手の冒険者剣術ではなく、対人を想定した騎士や護衛依頼を中心としている護衛冒険者が使う対人剣術。
以前、村娘の村に居た偽騎士なんかとは比べ物にならない。寸分の隙も見いだせない『本物の構え』だった。
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