第138話 失敗すればあの世行き

 色々と衝撃的な体験だった。


 精神的にめちゃくちゃ疲れたし、体中冷や汗でビシャビシャだ。


 このまま何も考えず宿に帰って、風呂でさっぱりしてパピーを心行くまでモフりたい。


 しかし、俺の残念な脳が記憶を曖昧にする前に考えておくべきことがある。


 エムデンとの短いやり取り。そのやり取りの中で、膨大な情報が伝えられた。


 エムデンのような頭の回転が速い人間は処理できるだろうが、低スペックな俺の脳は情報を処理しきれない。


 周囲を警戒しつつ宿に向かいながら、情報を整理する必要がある。



 俺はエムデンに収入源を抑えられた。エムデンの言う『美味しい仕事』とやらを回してもらわないと今の生活は維持できなくなる。


 ギルドでの仕事を増やせば別だろうが、薬師ギルドが新たに買い取りを約束してくれた薬草の採取もある。それらに加え、交渉で納品のペースを早くすることになったファモル草とギーオの回収で手一杯だ。これ以上スケジュールを詰めると、肉体的にも精神的にも負荷が掛かる。


 ひとつのミスが死に繋がる危険な仕事だ。できれば、スケジュールは余裕を持ってこなしたい。


 エムデンの言う『美味しい仕事』とやらが、どのぐらい『美味しい』のかは分からないが、無理なく今の生活を維持できるような仕事内容なのだろう。


 その程度の配慮というか、俺の状況をコントロールできないほど、エムデンは無能ではないはず。


 生かさず殺さず、エムデンにとって最大利益になるよう俺をコントロールするに違いない。


 まぁ、エムデンにとってそこまで気にかける必要がない場合、適当な状態で放置される可能性もあるのだが……。


 しかし、多忙であろうエムデンがわざわざ俺と対面したことを考えれば、俺に一定の価値を見出したということになる。


 おそらく、そのヒントはエムデンとの会話に隠されていはずだ。


 エムデンは冒険者ギルドに影響力を持っている。


 これは確実だ。


 なんせ、俺の報酬から上納金を自動徴収すると言っていたのだから。


 つまり、冒険者ギルド内の依頼や会計に直接アクセスできる人間がグリューンの影響下にあると言っているようなものだ。


 内部の情報に触れるだけではなく会計にもタッチできるとなると、冒険者ギルドの中でもかなりの権限を持った人間が関わっていることになる。


 グリューンの影響力を低く見積もっているつもりは無かったが、俺の想像以上にその手は広い。


 そこまで影響力のある組織の幹部が、わざわざ俺に接触してきた理由はなんだ? 


 当然だが、金が目当てではない。俺のちっぽけな稼ぎなんかを当てにするほど、エムデンは金に困っていはいないだろう。


 おそらく、冒険者ギルド絡みでもない。


 グリューンはすでに、冒険者ギルドに対して十分な影響力を持っている。


 ベンやエマさん関係か? 確かに、二人の作る作品は素晴らしい。


 しかし、裏ギルドの大物がわざわざ手を出すような存在だろうか?


 武器や防具が欲しいなら、間にクリーンな商人を挟むなどやり方はいくらでもある。


 二人を直接傘下にするのは、工房地区のギルドや領主たちを敵に回すリスクを考えると釣り合わない。


 俺と衛兵との繋がりは薄い。エムデンの方がよっぽど衛兵との繋がりは深いはず。


 となると、薬師ギルド関係ということになる。


 あのとき、エムデンは薬師ギルドの小遣い稼ぎは見逃してやるといった。


 慈悲深い行為に見せているが、その実『薬師ギルドへの影響力』をグリューンが持っていないからではないだろうか。


 おそらく、言外にそれを伝えるための発言でもあるはずだ。


 薬師ギルドと言っても、俺は単なる取引先のひとつ。薬師ギルドへの影響力などあってないようなものだ。


 それでも、おそらくエムデンのような怪物なら俺という僅かな引っ掛かりから時期が来れば薬師ギルドに食い込むことができるのだろう。


 超一流のロッククライマーが、指先がほんの僅かに引っかかるような突起を利用して上に登るように。


 交渉ごとの達人ともなれば、僅かな引っ掛かりから影響を及ぼすことができる。


 おそらく、俺のような微かな突起とも言える人物を複数懐に入れて『そのとき』が来るのをじっと待っているのだ。


 茂みに身を隠し、いつでも飛びかかれるよう準備しているネコ科の猛獣のように……。


 攻略ルートは多い方がいい。


 俺が重要な攻略のピースになるというより、微かな可能性でも俺を起点に行動を起こせるようエムデンの抱えた起点のひとつ。


 つまり、エムデンが俺に感じている価値は未だ影響力を及ぼせていない薬師ギルドへアプローチする起点。それも、ほんの微かな指がかろうじて引っかかる程度の小さな突起。


 それは、エムデンにとっての俺の価値も数ある起点のひとつにすぎないことと同義だ。


 多少の価値はあるが、いくらでも替えが利く存在。


 それが、グリューンやエムデンにとっての俺の価値だ。わざわざ大物が直々にスカウトしてくれた! なんて調子にのっていれば、あっという間に処分される程度の価値。


 価値を感じてはいる。わざわざ俺に会うくらいだ。


 ただ、エムデンの時間をほんの数分使ってもらえるだけの価値でしかないのだ。


 人によってはものすごく価値のあることかもしれないが、俺の安全といった意味ではまったく安心できない。


 裏ギルドの人間が、替えが利く程度の存在を始末するのに躊躇するわけがないからだ。


 殺されないためには、裏ギルドに逆らってはいけない。そして、自分の価値をエムデンに示し続けなければいけない。


 エムデンの言う『美味しい仕事』とやらを真摯にこなし、薬師ギルドとの関係性を深めていくことでエムデンにとって『殺すと都合が悪い』存在にならなければ枕を高くして眠れないのだ。


 転生前にもきつい仕事や理不尽な出来事はたくさんあった。


 しかし、失敗すればスラムで肉料理になる。なんていう、鬼のような内容の仕事はこなしたことがない。


 現状に比べれば、前世で問題になっていたブラック企業が天国に見えるだろう。




 正直、逃げ出そうかとも思った。


 今なら、組織の内情にも詳しくない。そこまで必死に追いかけられることもないはずだ。


 国境を越えれば、追っ手はこないはず。そう思いたいが、リスクがでかすぎる。


 ああいった犯罪組織は組織から抜けたり逃げる人間を許さない。文明の進んでいた転生前でさえ、マフィアやギャング。麻薬カルテルといったやばい組織は特別な理由がない限り組織を抜けるときは死んだときだけだった。


 戦国時代の抜け忍も、死ぬまで追跡されたと聞く。


 入ったばっかりで内部情報を知らない俺なら追跡の手が緩いのではないか? それも希望的な観測に過ぎない。


 なぜなら、グリューン下手へたするとボス以上に重要な人物とされる『金貸しエムデン』と対面して短い時間でも会話を交わしたからだ。


 エムデンの情報を少しでも隠したいグリューンだけではなく、エムデンの命を狙うグリューンの敵対組織が俺の持つエムデンの情報を狙って来る可能性がある。


 それに、今まで築いた人脈を捨て別の町で一からやるのはあまりにも労力が掛かりリスクも大きい。


 特に装備面に関しては、別の町でベンやエマさんのように性格が良くて革新的な技術に目がない職人が居るとは思えないからだ。


 もしいたとしても、そういった人物と良い人間関係を築ける確率はどれぐらいだろう? おそらく、天文学的な数字が当てはまるほどの低確率だ。


 損切が必要なこともある。


 それは理解しているが、このまま別の国に逃げても同じことの繰り返しになる可能性は無視できない。


 それならば、ここは踏ん張りどころと考え逃げずに頑張った方がいいのではないかと思う。


 それに、悪いことばかりじゃない。


 エムデン直々にスカウトされた。そのことは、俺を守る強烈なお守りとして機能するはず。


 そのことを笠に着る行いをすれば処されるだろうが、うまく立ち回れば後ろ盾として機能する。


 リスクも強烈だが、リターンもまた強烈だ。


 俺が手足を広げて暮らそうとすれば、どうしても誰かにぶつかる。エムデンの後ろ盾があれば、意図せずグリューンの構成員に手足がぶつかっても穏便にすませることができるはず。


 理屈の通用しない暴力集団ほど恐ろしいものはなく、その集団に対してのお守りを手に入れただけでトゥロンの裏社会と関わってしまったときの安全がぐっと増す。


 元々、この町で安全に暮らすために色々な勢力と友好関係を築こうと頑張っていたのだ。


 現状は、ある意味想定通りとも言える。


 まぁ、想定よりリスクとリターンが強烈ではあるものの、この出会いが奇貨になるかもしれない。


 裏ギルドに入ったとしても、俺のやることは変わらない。


 今まで通り依頼をこなして金を稼ぎ、薬師ギルドを筆頭に各勢力との友好を深める。それに加え、新たにエムデンが言う美味しい仕事を頑張ればいいのだ。


 今までと変わらない。ちょっと仕事が増えただけ。そう思えば、意外と大したことがないように思える。


 いや、思えねぇわ。


 やること多すぎだろ。


 転生前はタダの一般人だぞ。一般人にやらせる仕事量じゃねぇ。


 しかも、失敗すればあの世行きと来たもんだ。


 まったく気が抜けない。


 転生前は社会の歯車として、時給分しっかり働けばいいなんてドライな考え方で仕事をしていたのだが……。


 こっちに転生してこんなに真剣に仕事をするハメになるとは。


 文字通り命掛けである。


 胃がぶっ壊れていないのが奇跡だと思えるほどの重圧。


 鉛のように重たい息を『ふぅ』と吐くと、宿に帰ったら死ぬほどパピーをモフろうと心に決めた。

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