第113話 過去の恐怖

 危険地帯を慎重に進む。


 森と草原の境界線。そこから少しだけ進んだ場所に、花々が咲き乱れた一角がある。そこにファモル草を発見した。


 発見自体は容易だと聞いていた。なるほど、たしかに目立っている。


 俺は慎重にファモル草へと近付く。近くに咲いた花々から甘い香りが漂っている。いい匂いだ、気持ちが落ち着く。


 日本にいた頃は、いい香りのする芳香剤なんてありふれていた。


 しかし、こちらの世界に来てからは、汗と埃と体臭の混ざった匂いばかり嗅いでいる。俺はフローラル系の香りが好きで、外見に似合わず甘い香りの柔軟剤を使っていた。顔に似合わないと、よく友人にからかわれていたっけ。


 香りは記憶との結びつきが強い。


 久しぶりに嗅いだ甘い香りに、日本にいた頃の記憶が蘇る。危険地帯にいるにもかかわらず、センチメンタルな気持ちになってしまった。


 それにしても、落ち着くいい匂いだ。気持ちがふわふわと……。


「うぉ!」


 回路パスを通して、強い警戒の感情が伝わる。


 完全にリラックスモードだった俺は、リラックスとは正反対の強烈な感情に驚き、声を上げてしまった。


 リラックスモード? こんな危険地帯で? おかしい、明らかにおかしい。なぜ俺は警戒を解いた。


 まさか……。


 俺は背中に冷水を垂らされたように、ゾクリと背筋を震わせる。


 この甘い香りは……毒か。俺は慌てて息を止め、改めて周囲を警戒する。幸い深森狼フォレスト・ウルフの気配は感じられなかった。


 危険地帯でいい香りとリラックス効果かよ。地味で効果的な罠を仕掛けてきやがる。


ここで間抜け面晒してボーッとしていると、深森狼フォレスト・ウルフがやって来て俺を食い殺す。食べ残しが養分になり、また花が咲く。


 そんな、恐ろしいサイクルが頭に浮かんだ。ここは危険過ぎる、とっとと採取を済ませよう。



 あの香りを、また嗅ぎたい。そう思っている自分がいる。


 好きな匂いだからなのか? 中毒性があるのか? どちらにしろ、やばいことに変わりはない。


 足元でせっせと花の蜜を回収する蟻に気を付けながら、ファモル草を採取する。


 作業中、ずっと息を止めるのは不可能なので、水で湿らせた布を口元に当てて呼吸をした。


 どれほど効果があるのか分からないが、やらないよりはマシだろう。


 根っこごと丁寧に掘り起こし、水で湿らせた布で丁寧に包む。こちらも10株。依頼の倍の数を採取した。


 周囲にはまだまだ生えているが、こちらも大量に持ち込めば値崩れするかもしれない。それに、必要な数が揃ってしまうと、この依頼がなくなるかもしれない。


 そうなると、ギルド側との交渉が難航する。できれば、採取依頼だけでギルドの貢献度やらを貯めてランクアップしたい。



 仕事を終えたときが一番危険だ。俺は気を抜かず、改めて周囲を警戒する。


 生えている草に隠れて、遠くからでは見えなかった。この位置で改めて周囲を見渡すと、この周辺には革鎧の残骸とおもわれる革の欠片が落ちていた。


 ここで死んだ冒険者の装備だろう。


 この場所に採集に来る冒険者は5級相当。黒鋼の武器を装備していたはずだ。回収すれば、金になるんじゃないか? そんな欲がむくむくと鎌首をもたげる。


 だめだ、一刻も早くこの場所から離れなければ。それに無駄な荷物は所持できない。


 帰りにまた蟻塚ゾーンを通ることになる。木の上を移動するには、なるべく身軽でいないと。


 採取は完了した。早くこの場から離れよう。


 俺は様々な欲望を振り切り、再び森へと移動しようとした、そのとき。


 気配察知に反応があった。かなりの速度でこちらに近付いてくる。気配は5体分。おそらく、深森狼フォレスト・ウルフだ。


 その瞬間、パピーは俺の肩に飛び乗ると、フードにぽふりと収まった。


「パピー、グッガール」

「わん」


 いい反応だ。パピーが走るより、俺が走るほうが速い。俺は深森狼フォレスト・ウルフから逃げ出すために、全力で走り出す。


 クソ、速えぇ。


 深森狼フォレスト・ウルフがすごい勢いで迫ってくる。深森狼フォレスト・ウルフの格は単体で3。レベル15の壁を越えた俺の方が、生物としての格は上だ。


 それでも、スピード差がある。


 どんどん距離が縮まっていく。草原で深森狼フォレスト・ウルフと戦うなんて自殺行為だ、なんとか逃げないと。


 深森狼フォレスト・ウルフって名前なのに、なんで草原にいやがるんだよ。そんなアホなことを考えながら全力で走る。


 追い詰められるとアホなことを考えてしまうのは、強烈なストレスから体を守る一種の逃避なのかもしれない。



 警戒は続けている。体もしっかり動いている。その状態で余計なことを考えられる、というのはいいことだ。リソースの余裕があるってことだからな。


 益体やくたいもない自己問答を続けながら走っていると、森の入口が近付いてくる。距離は縮まっているが、深森狼フォレスト・ウルフはまだ後ろだ。


 よし、森に入った。俺はすばやく木の上に登る。


 平地での移動速度は四足歩行には勝てないが、木の上なら手が自由に使える俺が圧倒的に有利だ。というか、深森狼フォレスト・ウルフじゃ木の上に登れないだろう。


 パピーのように、回路パスで繋がった人間に特殊な訓練でも受けていない限り、四足歩行の動物が木に登れるはずがない。


 深森狼フォレスト・ウルフが諦めるまで、木の上を移動してもいい。なんなら棒手裏剣で一方的に遠距離攻撃をかますのもありだ。


 油断する訳じゃないが、木の上に登った時点で俺の勝利は確定している。


 俺が木の上で体勢を整えていると、薄緑色の狼が高速で飛び出してくるのが見えた。


 以前出会ったとき、俺はレベル15だった。ボロボロの状態で深森狼深森狼フォレスト・ウルフリーダーを含む群を見たとき、俺は恐怖に震えた。


 最悪のコンディションで出会った最悪の敵。


 そのときのことを思い出して、少しだけ恐怖が顔を出した。だが、すぐに平常心を取り戻す。もう、あのときの俺とは違う。格下は貴様らの方だ。


 冒険者の死体みつぎものを差し出して見逃してもらった、あの頃の弱い俺じゃねぇ。過去の恐怖トラウマを振り払うように、俺は木の上から深森狼フォレスト・ウルフを睨みつけた。

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