第112話 危険地帯

 森の深部に、はっきりと境目があるわけじゃない。


 ただ、なんとなく深層に入ったと感覚でわかった。


 植生や気配察知に感じる反応に違いはない。肌感覚というか、なんとなく空気が違う気がしたのだ。


 もしかしたら、魔素の濃度を感覚で察知したのかもしれない。


 俺の勘違いという可能性もある。


 だが、こういった原始的な感覚は馬鹿にできない。


 肌がピリつき、ゾワリと恐怖心が背筋を撫でる感覚。呼吸が乱れ、心臓がドクンドクンとうるさいぐらい音を立てる。


 危険地帯だと、最初からわかっていたはずだ……。


 今更引き返すことなどできない。本能が鳴らす警告を無視して、いつも通り周囲を警戒する。


 移動しようとして、何時いつもと体の感覚が違うことに気付く。知らず知らずのうちに、体に力が入っていたようだ。


 俺は深呼吸をして体をほぐす。手や足の指をワキワキと動かし、末端を刺激することで体の感覚をなじませる。


 ビビるな、平常心だ。


 パピーに目線をやると、真っ直ぐ俺を見つめ返してくれる。見かけはちっこいが、頼りになる相棒だ。


 自然と笑みがこぼれ、こわばっていた体がほぐれていく。圧迫感を感じていた森の様相も、何時いつも通りに見えるようになった。


 空を覆うように伸びた木々の葉が光を遮り、森を薄暗くしている。木々の隙間から溢れる木漏れ日は、幻想的な美しさを感じさせた。


 人の手がまったく入っていない原生林。


 長い年月を掛けて形成された森は、樹齢を重ねた太い木が多い。巨大な木々は、自分のちっぽけさを思い知らされるほど、圧倒的な存在感を示している。


 その巨大な木に向かい、ジャンプをしてしがみつく。


 そして、小さな突起を足がかりに上へと登っていく。


 パピーも爪をうまく使い、木の上へと移動している。ある程度の高さまで登ると、俺はパピーをフードに入れた。


 そして、猿のように木から木へと飛び移る。


 逃亡先の山で、木から木へと飛び移る練習は重ねていた。我が家マイホームへ続く痕跡を残さないため、木から木へと飛び移る移動を行っていたからだ。


 その経験を生かして、木の上を移動することにした。


 森での採取依頼を成功させる自信はあった。その根拠のひとつが、木の上を移動することだ。


 蟻塚は大抵地面に作られる。


 もちろん、例外はあるかもしれない。何らかの理由で木の上に蟻が大量に生息している可能性もある。


 ただ、地上を歩くよりは安全なはずだ。


 情報屋から入手した情報にも、蟻が木の上に巣を作ったという話は聞かなかった。


 木の上を移動する。


 レベル補正で身体能力が向上した冒険者なら、誰でも出来そうな移動方法だと思うかもしれない。


 しかし、実際やるとなると、俺以外の冒険者は難しいはずだ。


 俺のような軽装で森に入る人間は珍しい。大抵の冒険者はそれなりに重量のある装備をしている。


 斥候は軽装かもしれないが、深森狼フォレスト・ウルフが徘徊する危険な森に、戦闘能力が低いと言われている斥候がソロで入るなど自殺行為だ。


 パーティで移動する限り、斥候だけが木の上を移動しても効果が薄い。


 パーティ全員で木の上を移動しようとしても、メイン戦力である冒険者たちは重装を身にまとっている事が多い。


 流石に板金鎧プレートアーマーで森に入る馬鹿はいないだろうが、金属製の胸当てやグリーブなどを装備している奴らもいる。


 それらの重い装備を着たまま、不安定な木の上を移動するのは困難だ。足を踏み外したり、枝を踏み折ってしまえば、それなりの高さから落下してしまう。


 落下すれば、当然怪我のリスクは高い。落下音も周囲に響く。


 もちろん、爆音というわけじゃないが、普段の森では聞かない音だ。音量は大したことがなくても、普段聞き慣れない音というのは耳によく残る。


 重い装備、不安定な足場。怪我のリスクにモンスターの注意を引いてしまうリスク。それらの理由から、普通のパーティーにこの移動方法は厳しいはずだ。


 俺は軽装の上に、木から木へと飛び移るのに慣れている。通常の冒険者なら、こうはいかないだろう。


 俺だけが通行可能な、特別なルートという訳だ。



 木々を移動しながら、気配察知を使ってモンスターを避ける。多少遠回りになっても構わない。


 正確なマップがある訳じゃないが、ファモル草とギーオの群生地は聞いている。


 ギーオは特定の木の根元に生える習性があるため、発見は容易だ。


 ファモル草は、ギーオの群生地を少し進んだ場所にあるそうだ。


 ギーオが生える木が立ち並んでいる場所は、他の場所と明らかに植生が違うため、遠くからでも発見しやすいと情報屋は言っていた。


 ただ、その地域は毒蟻の蟻塚が多い場所でもある。


 希少で見つけにくいのではなく、採取自体のリスクが高いため塩漬けになっている依頼だ。


 ファモル草はギーオの群生地ほど蟻塚地帯にはなっていないが、蟻塚地帯を抜けた先にある。


 それに、ファモル草の群生地にも蟻塚がない訳じゃない。移動距離がギーオよりあるため、こちらはこちらでリスクが高い。


 慎重に木の上を移動していると、森の一区画だけ地面の色が変わっていた。


 あそこがギーオの群生地か……。


 赤茶色の土に針葉樹が密集して生えている。


 その地帯だけ、赤いペンキを土の上にぶちまけたような色をしていた。茶色、赤茶色、赤色が混じった薄気味悪い色をしている。


 その土に、蟻塚と思われる小山が点在していた。


 地面の色が変わる境界線には木が生えていない。俺は慎重に着地をして、周囲を確認する。


 地面には蟻が列をなして移動していた。俺は蟻を刺激しないように、慎重に移動。


 針葉樹の前まで行くと、木をしっかりと観察する。


 木の上に生息する昆虫などを求めて、蟻が木の上にいることは珍しくない。この毒蟻が樹木に多く群がる生態があれば、ここからは地面を移動することになる。


 しっかり観察したが、蟻たちは集団で木に群がってはいなかった。蟻塚らしきものも、木の上には見えない。


 稀に蟻の小さい列が枝に張り付いていることがあるが、慎重に避ければ移動に支障はないだろう。


 油断せず、慎重に確認してから次の木へと飛び移る。


 この針葉樹は松だろうか? 針葉樹は基本寒い場所に生えているはず。温暖な少国家群に針葉樹が生えていることに違和感を覚えるが、ここは異世界だ。


 地球の環境に比較的に似ているとは言え、完全に当てはめることはできないということだろうか。


 まぁ、魔素なんてものがある時点で、地球とはだいぶ違う。


 この場所みたいに、局地的に植生がガラリと変わることもこの世界では当たり前なのかもしれない。


 そういうものだと、あるがままを受け入れる。違和感を捨ててしまえば、興味深い景色なのは確かだ。


 不気味な色の地面と針葉樹。乱立する蟻塚。


 美しいファンタジー風景ではないが、これも異世界情緒あふれた景色といえるかもしれない。




 それにしても、松のような木の根本に生えるギーオはマツタケっぽいと感じてしまう。


 どうやら、こちらの世界でもマツタケは高級品なようだ。食べると美味いだろうか? いや、マツタケって味自体はそうでもなかった気がする。


 あるがままを受け入れたことで、異様な景色に対する緊張がほぐれてきたようだ。油断はしていないが、アホなことを考える余裕がでてきた。


 異世界情緒あふれる景色とはいえ、冷静に考えれば毒蟻た大量生息している危険地帯。不気味な地面の色も相まって、恐怖心やプレッシャーが押し寄せてくる。


 負の感情に飲まれないように、冷静にありのままを受け入れることが大切だ。


 地面の色が不気味だろうが、毒蟻がうじゃうじゃ地面を歩いていようが、俺のやることは変わらない。




 木々を移動しながら、根本を確認する。


 ギーオらしきキノコがモリモリ生えている。人間が誰も取りに来ない上に、蟻に守られているからだろうか? とにかく、依頼にあった5本は余裕で揃えられそうだ。


 思ったよりも大量にある、大金を稼ぐチャンスだな。


 そう思ったが、踏みとどまった。


 大量に持ち帰ったら、値崩れしてしまう可能性がある。特殊な処理が必要な素材だし、数がさばけるかもわからない。


 幸いマツタケと違い、旬や生えている時期などは決まっていない。聞いた情報によると、一年中生えているようだ。


 焦ることはない。


 自然の恵みを分けて貰う。そんな謙虚な気持ちで、生態系に影響がでない量だけ採取することにしよう。



 俺は蟻がいないことを慎重に確認してから、下に降りた。周囲を警戒しながら、なるべく綺麗なギーオを慎重に採取する。


 木々を移動しながら、依頼の倍。10本を採取して、この場を離れる。慎重に移動を続け、赤土地帯から安全に離れることができた。


 俺はふぅと息を吐く。


 情報通り、蟻のサイズは普通だった。


 それに、刺激さえしなければおとなしいものだ。


 油断する訳じゃないが、意外と楽勝じゃないだろうか? これは大儲けするチャンスかもしれない。


 俺は明るい未来にニンマリすると、気持ちを切り替えて先へと進んだ。



 慎重に木々を移動していると、草原地帯に出た。


 ここがファモル草の群生地だ。


 森にポッカリと穴が空いたように、草原地帯が広がっている。


 ここで昼寝をしたら最高だろうな。目の前には、そう思ってしまう風景が広がっていた。


 草原には様々な花が咲き乱れ、緑の絨毯じゅうたんに彩りを添えている。


 爽やかな風が吹き抜け、サワサワと草を揺らす。鼓膜をくすぐる優しい音色。真上からは陽の光が降り注ぎ、花々を美しく照らしていた。


 草の爽やかな香りに交じる、花々の甘い香りが俺を優しい気持ちにさせる。思わず気を抜きそうになる自分に喝を入れ、俺は警戒を続けた。


 これは恐ろしい罠だ。


 見るからに危険そうな赤土地帯を越えると、そこには素敵な草原が広がっている。誰でも思わず気を抜いてしまうだろう。


 だが、ここは危険地帯だ。それもとびきりの……。


 何の遮蔽物もないこの草原で、深森狼フォレスト・ウルフに発見されれば襲撃は免れない。


 草原の緑は深森狼フォレスト・ウルフの体を覆い隠してしまう。深森狼フォレスト・ウルフに気付いたときには、すでに包囲されている。そんな事態に陥るかもしれない。


 甘い香りを放つ美しい花に引き寄せられれば、花の蜜を集めに来た蟻に毒針を刺されてしまう。


 この見事な配置は、自然界が作り出した天然の罠なのか? あの性格が悪い神の悪質ないたずらなのか? 俺には判断出来ない。


 ただ、この場所がとびきりの危険地帯だってことは分かった。明らかに人間を殺しに来てやがる。


 最悪の事態になる前に、早く採取を済ませてここから去ろう。俺は逸る気持ちを抑え、慎重に動き出した。

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