第108話 打撃の質

 気合を入れて鍛錬を開始しようとして気付いた、体を洗っていない。


 森で活動している生物は、ダニなどに寄生されていることが多いのだ。このままでいるとダニに寄生されてしまうリスクがある。


 ダニの中でも、マダニは特に厄介だ。


 マダニは様々な病気を媒介する。その中には、死につながる重篤な症状を引き起こす病気も存在するのだ。


 マダニの媒介したライム病に罹患した海外の有名アーティストが『数か月寝たきりになり、死を覚悟した』と語っていた。


 この世界で数か月も寝たきりになれば、確実に死ぬ。たかがダニとはいえ、非常に危険な存在なのだ。


 野人生活をしていたときは、泥+レベルの上昇による皮膚の硬化によって、そこまで深刻な被害は受けなかった。


 ただ、こっちの世界に転生してまもなく、股間を虫に刺されまくった苦い経験もある。ダニに喰われるリスクは、できれば避けたい。



 剣鹿ソード・ディアーは格3のモンスターだから、皮膚もそれなりに頑丈だ。


 ダニが噛み付こうにも苦戦するので、びっしりダニが寄生しているといった事態は起きないはず。


 それでも、用心する必要がある。


 俺は服を脱ぐと、鹿を沈めてある場所の反対側。水の綺麗な場所を選び体を洗う。地下水が湧き出ている泉なので、水がとても冷たい。


 ワイのビッグボーイが、寒さで縮んでリトルキッドになってもうとるがな! 元からスモールサイズだって? そうだよ、ぐすん。


 冷たい泉で体を洗い、ついでに服も洗う。洗った服を木の枝にかけて干す。


 自分を洗い終わると、回路パスでパピーを呼んだ。パピーも洗ってしまおう。


 パピーは泉の冷たい水に小さくプルプルしている。パピーの小さい身体が冷え切る前に素早く洗わなくては。


 洗い終わりパピーを解放すると、ブルブルと体を震わせ水を飛ばした後、ててーっと走り出し冷えた体を温め始めた。


 さっき、自分の何倍も大きい剣鹿ソード・ディアーを仕留めたとは思えないほどの可愛さだ。パピーのああいった姿を見ると、賢くてもまだまだ子供だと思えてほっこりする。


「ぶえっくしょい」


 心は温まったが体は寒い。リュックの中の着替えを取り出そうか迷ったが、どうせ枝肉を処理にするときにまた汚れる。


 寒いなら体を動かして温めるとしよう。


 ストレッチをすると、冷えた体が少しずつ温まりだした。寒さで固まった関節や筋肉を解す。


 思ったより狩りが早く終わったので、時間はたっぷりある。焦らず時間を掛けてしっかりと体を解すとしよう。



 ストレッチを終えると、基礎練習で空手の動きを一通り鍛錬する。フォームチェックも兼ねているが、自分の今を知るための大切な行動だ。


 人生の半分を空手と過ごしてきた。正拳突きを放てば、自分の体の調子からメンタルヘルスまでなんとなく理解できる。


 同じ動作を毎日繰り返すことで、その動作が自分の基準になるわけだ。基準となる動作をすることで、その日の調子がわかる。


 正拳突きを放つと、体の調子はいつも通り。


 疲労が溜まっていたり、違和感があったりはしなかった。これなら怪我のリスクは低いだろう。


 まずは素手の技術を磨く。


 今日のテーマは肩を入れた突きだ。打撃系の肩を入れるという言葉は、大まかに分けてふたつの意味がある。


 ひとつは、体の位置をそのままに肩関節だけクイッと入れる行為。これは良くないこととされている。肩を痛めやすいし、関節の固定が出来ない。

 

 慣れていない初心者などは、拳を前に突き出すという動作に気を取られ、ついつい肩を入れてしまいがちになる。


 こっちは良くない肩の入れ方だ。


 もっとも、例外的に肩の関節が柔らかい人間が、相手の距離感を惑わすためにあえて肩を入れることもある。


 これらは特殊事例なので、普通の人は参考にならない。


 もうひとつの肩を入れると言われている動作は、腰を強く回転させ、肩ごと突き出す撃ち方だ。肩を入れるとか内側にひねるなんて言い方をする。


 俺のイメージだと、肩を入れるというより、肩甲骨から腕を突き出すイメージだ。腰を回転させ、肩甲骨と腕が一体化するイメージで突き出す。


 加速させて叩きつけるというより、撃ち抜くイメージで拳を振り切る。なぜこの殴り方を鍛錬しようと思ったか? それは突きの質の違いのせいだ。


 伝統派空手の突きは加速させて叩きつける突き方だ。もちろん体の使い方次第で変えられるし、個人差はあるが基本は加速をエネルギーにして叩きつける。


 撃ち抜いて脳を揺らすといった質の突きではない。加速させた拳を叩き付けて表面を破壊する突きだ。


 音で表すとバチンだろうか。実際に殴られると、拳と骨がぶつかる『ゴッ』という鈍い音がするが、客観的に見るとバチンといった感じだろう。


 鼻骨、顎、眼窩底などの顔の骨や前歯を破壊するため打たれる事が多い。


 脳震盪を起こさせるなどの、人体の機能をシャットダウンさせるのが目的ではなく、痛みで戦闘不能にすることを目的としている。


 どれだけアドレナリンが出ていようと、顔面の骨を砕かれれば戦闘の継続は不能だ。最初の一撃に耐えたとしても、砕かれた骨を殴られ続ける。その痛みを想像すれば、戦闘の継続など不可能だと容易に想像できるはずだ。


 しかし、この世界にはスキルがある。ほんの一瞬、スキルを発動するという強い意思さえあれば体が動く。


 なので、顎を打ち抜き脳震盪を起こさせるといった、機能を停止させる打撃が重要になってくる。


 どちらが優れているとかではなく、状況によって適切な技術を使う。それが大事だ。最強の人間は存在するかもしれないが、最強の武術、格闘技は存在しない。


 『使えない技術はない、使えない人間がいるだけだ』と言っていた人がいる。これは真理だと思う。よっぽどひどい技術以外は、使えない技術などない。


 後は、適切なタイミングでその技術を使えるかどうかの問題だ。


 俺は空手が好きだ。だけど、盲信することはない。今は人生をともに過ごす『武道』ではなく、命を守るすべ『武術』が必要なんだ。



 意識を集中させ、空想の敵をイメージする。冒険者は大抵三人、四人でパーティーを組んでいる事が多い。


 想定する相手も当然複数だ。


 足元の小石混じりの土を強く蹴り上げ、目潰しをする。それと同時に素早く相手に飛び込むと、反応した相手が上段から斬撃を放ってきた。


 サウスポーにスイッチしながら、半身になり斬撃をかわす。前進しながらスイッチした分、相手との距離が大きく縮まる。


 踏み込んだ右足で相手の向こう脛べんけいのなきどころを上足底で蹴る。


 踏み込んだ足でそのまま相手を攻撃する、格闘技の試合などでは中々見られない動きだ。


 意表を突かれた相手は痛みで動きが止まる。蹴った足をそのまま着地させ、肩を入れた左ストレートで顎を撃ち抜いた。


 顎を撃ち抜かれた冒険者が崩れ落ちると同時に、残りの冒険者が斬りかかってくる。俺は前に飛び、飛び足刀で一番近くの冒険者の喉を潰した。


 しかし、攻撃を仕掛けた角度がまずかった。別の冒険者に横から斬りつけられる。とっさに受け流そうとするが、間に合わず腕をバッサリ斬られてしまう。


 ここで一旦イメージを終了させる。


 さすがに素手で同レベル四人の設定はきつかった。普通なら逃走するシチュエーションだ。戦うとしても、不意打ちを仕掛けるか、もっと狭い場所を戦いの舞台に選ぶはずだ。


 だけど、普段やらない戦いだからこそ、イメージトレーニングを行って不測の事態に備える必要がある。


 一撃で仕留めるだけじゃなく、関節を破壊して行動に制限を掛けるイメージで行くか。俺は意識を集中させると、新たに敵を想像した。

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