ビューティー

ビューティー 1/3

 最初にあったのは夢と根拠のない自信だった。そこからすべてが始まった。

 これは孫正義の言葉だが、これが希望に満ち溢れた言葉に聞こえる人はそもそもある程度充足した生活をしているのだ。

 ぼくにしてみれば夢も自信もないわけで、つまりは何も始まりそうもないわけで、長い夏休みが終わって、相も変わらず大学に来ては上の空で講義を聞き流してバイトに向かうというルーティンの毎日である。ときどき漠然とした不安が胸を支配しそうになることがあるけれど、預金の残高を見て少し心を落ち着かせる。そもそも生活費のためにバイトを始めたわけだが、親からの仕送りもあるし、使い道の不明な貯金がだんだんと増えていく。

 もちろん金はないよりあったほうがいい。が、欲しいものも特になく、行きたい場所も特にない。夢と自信以外にも、いろいろと欠落しているらしい。果たしてぼくがおかしいのか、それとも昨今の大学生なんてみんなこんな感じなのか、訊ねてみようにも大学に友達なんてひとりもいないのだった。




 講義が終わると、声をかけられた。


「あの、すいません。今日遅刻をしちゃって、もしよかったらなんですが、ノートをコピーさせていただけないでしょうか」


 大学で人から話しかけられるなんて、レアケースが過ぎる。ぼくに向けられた言葉だとは瞬間的に認識できなかった。声の方から落ちる影がいつまでも去らないので、そこでようやくぼくは筆箱をしまいかけた手を止める。顔を上げると、声の主と目が合う。

「え、ぼくですか?」

 声の主はこくんと頷く。肩までの長さのストレートな髪はとてもつややか。はっとするほど目鼻立ちは整っていて、思わず面食らう。どう考えてもぼくの人生と縁がない美人だった。

「遅れて来たので後ろに座っていたんですけど、ノートを取るのが間に合わなくて。みんな寝ていたし、一番近くでちゃんと板書していたのが、あなただったので。もしよかったら、なんですけど。だめですか?」

 澱みなくはきはきと話す人だった。今日は確かにたまたまノートを取っていたが、いつもであればぼくも寝ているみんなのひとりだ。


「全然、かまわないですよ」

「よかった! じゃあコンビニに行きましょう」


 断る理由も特にない。何より、困っている人を助けないのは、道徳的観点から言って絶対によろしくない。相手が美人だったから、などという理由では決してない。決して。




 ちょっと並んで歩いているだけなのに、なんだか恥ずかしくなる。彼女は服装も洒落ていた。いや、お洒落のルールがよくわからないので、少なくともぼくの目にはそう見えたという話だけれど。白い無地の長袖Tシャツに、色あせた細身のブルージーンズ、紺色のナイキのスニーカー。シンプルだが、とても似合っていた。

 彼女とコンビニへ向かうぼくはと言えば、毛玉のついたノーブランドの紫色のジャージに、部屋着との境目があやふやなよれよれのグレーのスウェットパンツ。いまだに足元はビーチサンダルだ。もともと白かったのに、今じゃ決してそうは見えないくらいに汚れている。


 講義があった建物から最寄りのコンビニは三、四分といったところだ。キャンパスの東門へ向かって、ぼくたちは歩いていく。


「あの」なにか話さなくては、と思い言葉を探す。「さっきの授業、眠くなりますよね」

 我ながらつまらないことを言うものである。

「そうですか? わたしは結構好きなんだけど……でも寝てる人いつも多いですよね」

 ぼくだったら適当に合わせて「そうですね」と言いそうなところ、彼女はしっかり自分の考えを述べた。容姿と相まって、凛、という形容はこういう人に言うのだろうと思った。

「ぼくも、いつもは、結構寝ちゃってます」

 我ながら余計なことを言うものである。

「ああ、そうですね」

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