17. カレーパンの話
携帯電話の画面には十三と五十五の数字が表示されている。顔をあげて隣に座る恋人を見ると、ぽやぽやした横顔が目に映った。あたしに気づいて顔を向けてきて、ふわりと微笑む。恋人の笑顔にあたし自身も自然と笑顔になっていた。
「えへへ。ね、郁弥さん」
「なに?」
「もうすぐ十四時みたいよ」
「十四時って、予定だと到着時刻だったような?」
「ふふ、あなたが作ったしおりでしょ?」
「そうなんだけど。日結花ちゃんに渡したのしか持ってきてないし」
「え、そうだったの?」
「うん」
衝撃の事実だった。
郁弥さんが作ってきてくれた"旅行のしおり"。大雑把な電車の時間や移動時間が書かれていて、なかなかに便利な代物。だというのに、作った本人が持ってきていないと言う。
まあ、こういう旅行の準備とかがすっごく楽しかったし、一緒にしおり見てあーだこーだ言っているのが一番の目的だったかもだからなんとも言えないけど。
なんにしても、旅行のしおりはあたしが持っているものだけらしい。なので、彼に見せるためにも鞄から取り出した。折りたたんでこちらの鞄に入れておいてよかった。スーツケースだとバスの中じゃ取り出せないところだったわ。
「はいこれ」
「お、ありがとう」
そんなわけで、取り出したしおりを肩を並べてさらっと眺める。じーっと見ていると酔うのでさっくり素早く見させてもらった。
「合ってたね」
「でしょ?」
「うん。十四時に到着ってことは、遅れを込みにすると五分過ぎくらいには着くかな?」
「どうかしら」
時間と照らし合わせてどうこう言いながら、しおりを見て思ったことについて話を切り出した。
「ところでダーリン」
「へい」
「ご飯のことだけど」
「おっと、お昼のこと?」
「そ」
察しの早い恋人さんで助かるわ。
「お昼かぁ。今十四時だもんね。お腹空いた?」
「うーん、まあまあ?そういう郁弥さんは?」
「たぶん日結花ちゃんと同じくらい」
「そうよねー」
今日のお食事を考えれば今のお腹具合がだいたいわかると思う。朝早かったから五時前に朝ご飯食べたし、それ以降はさっきカフェでワッフル食べただけだし、結構お腹空いてきた。
事前に決めていたのは、銀山温泉に着いたらカレーパン屋さんに行ってカレーパンを食べることだけ。
「まあ、うん。夕飯のためだから」
「わかってるわよ。今からちゃんとお昼食べたら夕食入らなくなっちゃうものね」
「そうは言っても、お腹は空いたから?ってところかな」
「ん」
こくりと頷いた。
ほとんど予定通りに来ているので、現状はお夕食を楽しみにするしかない。それもまだまだ先なので、結局はカレーパンの話をするしかない。そう、カレーパンのお話。
「ねえ郁弥さん」
「うん」
「カレーパンにまつわるお話をしてもらえるかしら」
「ええ……。カレーパンか。そうだなぁ、本当の話と嘘の話どっちがいい?」
「え、ん?んん?もう一回言って?」
ちょっと意味がわからなかった。あたしの理解力のなさが問題なのか、彼の伝え方の問題なのか。どっちでもいいからもう一度聞きたい。
「つまり、僕の実体験と作り話とどっちが聞きたいかってこと」
「ふむふむなるほど。ちなみに面白いのはどっち?」
「どうかな。僕的には即興作り話の方が面白いと思うけど」
「そうなの?じゃあそっちでお願いできる?」
「おーけー」
いつも通りの緩い流れで郁弥さんは話し始めた。そのやけに長いお話を。
――――――。
あれはいつの日か、まだ僕が学生だった頃。当時、僕はカレー屋で働いていたんだ。アルバイトだね。
どんなカレー屋かって?ふふ、そうだね。インドカレーとか、ネパールカレーとか、カレー屋さんって海外の人がやっているお店が多いとは思うけど、そこは違ったんだ。僕が働いていたところは、日本人の店主が一人で切り盛りしているカレー屋さん。四十過ぎのおじさんでね。背は高くないのに、いつも背筋が伸びていてとても大きく見える人だった。
お店の名前は『THEカレー』。今、カリーじゃないのか、って思ったでしょ?あはは、日結花ちゃんならそう聞いてくるかなぁと思って。なかなか僕の勘も馬鹿にならないものだね。
ええと、店舗名の話だったね。カリーじゃない理由は店長が教えてくれたよ。僕も今の日結花ちゃんと同じで、気になって聞いてみたんだ。そうしたら"日本人向けの店なんだから、カレーの方がいいだろ?"って、かっこよく笑って言ってたよ。店長らしいなぁとは思ったね。うん。あの人は、まあそんな感じのかっこつけたがり、キザなところがある人だったんだ。
そんなカレー屋さんだけど、僕が働くようになった経緯も少し話しておこうか。そう複雑なものでもないんだけど、一応ね。
最初はお客さんとして入ったんだ。通学途中の駅にあるお店で、別に有名ってわけじゃなかったんだけど、神社からちょっと歩いたところにぽつんとあるから珍しくてさ。入ってみたら寡黙そうな男の店主一人で、他に店員はいなくて。寂れているのかなと思ったら、逆に知る人ぞ知る"うまいカレー屋"らしくて結構忙しいみたいだったんだよ。僕が入った時がちょうど誰もいなくて、勘違いしちゃったわけだ。
と、まあそれは置いといて。さっき僕が"寡黙そう"って言ったでしょ?ふふ、実は見た目そうなだけで、本当はかなりおしゃべりな人だったんだよね。茶目っ気のある面白い人だったんだよ。
カレーそのものは種類も多くてかなり美味しくて、何回か通っているうちに店主とも仲良くなってね。実は人手不足なんだよとか愚痴られるようになってさ。じゃあ手伝いましょうか?って言ったらあれよあれよと働くことになったわけだ。割と単純でしょ?ふふ、そう経験することでもないと思うけどね。
そして。ここからがやっと本題だ。カレーパンのお話。
『THEカレー』で働くようになってしばらく。僕も仕事に慣れて、たまに新メニューの開発を手伝わされたりしていたんだ。新メニューはほとんどお店に出さないから、実際は店長の趣味みたいなものだったかな。常連の人にはお試しで食べてもらったりしていたけどね。
そのメニュー開発の中で、カレーパンもあったんだ。店長が"よし、カレーパンでも作ってみるか"っていきなり言い出して、当たり前のように僕も手伝わされたのさ。ん?あぁ、嫌じゃなかったよ。あれはあれで楽しかったからね。店長と話すのもカレー作りするのも、全部面白くて楽しくて。今思えば、僕の人生の中でもずいぶんハチャメチャな時間だったなぁ。
あーっと、それでそう。カレーパン作りだね。
カレーパン作りはこれも当然のようにパンから作ることになって、パンの味は素人でもカレーはプロだからそれなりの出来にはなったんだ。カレーの種類が多いから中身を変えて何度も試していって、その度に二人で食べるからお腹もいっぱいでもう大変だったよ。
そのときかな。僕はね、店長に聞いたんだ。"どうしてカレー屋を目指したんですか?"って。そうしたら、"俺はカレーが好きだからな。俺の愛してるカレーをいろんな人に食ってもらえば、そりゃ最高だろ?"なんて言われちゃってさ。正直、かっこいいなぁって思ったね。男のかっこよさにグッときたのはあのときくらいだと思う。
まあ、そのあとに"人生っていうのは一回切りだから面白れぇんだ。このカレーパンみてぇにな"とか付け加えたから微妙な気分になったけど。
うん?あぁ、うん。そうそう。手に持ったカレーパン見ながら言われても、そのカレーパン何度も何度も作り直したからね。一回切りどころか人生何十週もしてるよね。僕、実際そのこと店長に言っちゃったし。"カレーパン作り直しまくりですから、一回切りじゃないですよね"って。そのあとは、うん。なんというか、"うるせえ!カレーパンまた食わすぞ"ってことで、お腹いっぱいのところを追加で食べさせられたよ。
いや、本当に食べ過ぎた記憶しかないや。もうカレーパンはいいや、って思ったのがそのときの一番の思い出かもしれない。店長の言葉は、ついでみたいな感じで。
――――――。
「――と、そんな感じでカレーパン作りは終わったんだよ」
「……ん」
予想以上に長い話を聞いて、小さく頷いた。
どうにも、ここまで聞いてみて一つ彼に尋ねなくちゃいけないことができた。
「ねえ、郁弥さん」
まったく途切れることなく、つらつらと思い出すかのように話していたあたしの恋人さん。ぱちぱちと瞳を瞬かせている。とっても可愛い。
「今の話、全部作り話なのよね?」
好きな人の好きな表情、仕草に負けず言い切った。
そう、カレーパンの話は全部作り話だったはず。そのはずなのに、聞いていると嘘か本当かわからなくなった。
さすがあたしの恋人と言うべきか。恋は人を盲目にすると言うけれど、本当かもしれないわね。あたし、郁弥さんのことしか目に入らないもの。
「うん。全部作り話だよ。面白かった?」
「え、ええ。面白かったけど……ほんとの話みたいだった」
「あはは、それはなにより。さ、そろそろ着くんじゃないかな」
「んぅ……もう、撫でないでよぉ」
「嫌だった?」
「ううん、好き」
柔らかく微笑んで髪を撫でてくる恋人と見つめ合っていると、ちょっとだけ顔が熱くなる。
面白い話を聞いて、わかったことは彼が結構な話し上手だっていうこと。さっきの話が本当か嘘かなんて気にするほどのことじゃない。どちらにしても、ずっと一緒にいればいつかわかることだから。今はただ、恋人の好きなところをまた一つ見つけられたからそれでいいと思う。
頭を撫でられてちょっぴり恥ずかしい中、気持ちを誤魔化すように窓の外へと視線を移す。バスは雪の中を進んでいき、彼の言葉通り道の少し先には木造の建物が見えていた。
ちらりと携帯を見れば、時刻は十四時を過ぎていた。もうすぐ到着。長いようで短かった旅も、これでひとまずの休憩となる。
嬉しさと恥ずかしさが混ざって、変にふわふわとした気持ちになる。そっと隣に肩を預け、身体の力を抜く。少しだけ目線を上げると優しい微笑みが降ってきた。ついでとばかりにくしゃくしゃと髪をかき混ぜられる。
二人っきりの旅行が、ようやく始まるような気がする。
期待に胸を高鳴らせ、それとは別に髪の毛をわしゃわしゃされた抗議として彼の頭もくしゃくしゃかき混ぜておいた。目が合って揃って笑って、もう少しだけ話を続ける。
あたしたちの"恋人同士な会話"は、バスが止まるまで終わりそうになかった。
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