18. 銀山温泉入口
寒風が吹く中、一人空を見上げる。
バスから人が降りる物音と話し声だけが耳に届き、あとは何もない。ただただ、しんしんと曇天の空から雪が降ってくるだけ。
一面の青空を見て綺麗だと言うことはあっても、どんよりとした灰色に包まれた空を見て綺麗だと言う人は少ないと思う。けれど、あたしは思った。灰の空から真っ白な雪がふわふわと落ちてくる光景はとっても綺麗だって。
「日結花ちゃん、傘だって」
「ん、傘?」
冬の透明な空気感に酔っていたら、あたしを現実に引き戻す愛しい人の声が聞こえた。傘、と言いながらそっと差し出してくる。それは言葉通り傘で、珍しく赤色をしていた。赤色というよりも臙脂色の方が近いような色合いをしている。
「貸してくれるのね」
「うん。
「あら、そうなの。ありがたいわね」
運転手さんの話をまったく聞かずに空を眺めていた。どうやら、大きな荷物は運んでくれるらしい。恋人と二人で軽く挨拶をしてスーツケースをお願いした。その後、先導して宿まで案内してくれるのに従ってゆっくりと歩きだす。
彼氏さんから差し出された傘は丁重にお断りして、しっかりと相合傘をさせてもらった。あたしたち以外もほぼ全員二人一組で傘をさしているので、特に目立つこともない。
まあ、ぎゅっと相手の腕に抱きついている人はあたし以外にいないけどね。
「やっぱりここまで来ると雪も多いわね」
「そうだね。屋根の上もすごいことになってるよ」
バスが止めてあった屋根付きの駐車場を出ると、空からはふわふわとした雪が落ちてくる。傘の外までほんの少し手を伸ばし、手のひらに乗った雪の粒が溶けきる前にお隣のぽやぽやした恋人さんにくっつけた。
「ひぅ」
「うふふ、郁弥さんかーわいい」
「ぐっ、傘を持っている僕になんて卑怯な」
「冷たかった?」
「冷たかった」
「驚いた?」
「うん」
「ふふ、ならよかった」
恋人をからかいながら、
改めて景色を見回しながら歩くと、色々なことに気づく。
山奥まで進んできただけあって、大石田駅よりもずいぶんと雪の量が多い。道路の脇には雪が山になっていて、一番高いところは腰の高さまで伸びている。道路そのものにも薄っすら雪が積もって、コンクリートの地面がぎりぎり見えるかどうかといったところ。このまま降り続ければ、明日の朝には完全に雪で埋まってしまいそう。彼がさっき言ったように、通りの家の屋根にはずっしりと雪が積もっている。まるでお餅みたいに屋根からはみ出していて、
そして、建物を越えた先にある山もまた色を変えている。葉っぱの緑色より雪の白色の方が多いくらいで、まさに森が雪化粧していると言える。とっても綺麗でつい何枚も写真を撮ってしまった。
「日結花ちゃんこっち向いて」
「え、なに――」
――ぱしゃ
「ばっちり。ありがとう」
携帯でぱしゃぱしゃ写真を撮っていたら、いきなりカメラで撮られた。ちょうど駐車場を出て目の前の場所で、後ろに木造の建物と山の木がある。雪化粧した背景が映える良い写真だと思う。
「むぅ」
「……何かご不満が?」
振り向いて驚いた顔の自分が写った写真を見て、頬を膨らませる。子供っぽいとか、そんなことはどうでもいい。
あたしはとってもご不満。
「一緒に撮らないとやだ」
「それは……あ、あはは。うん。そうだよね。撮ろうか」
羞恥を織り交ぜて頷く恋人と密着して、携帯でぱしゃりと何回か。満面の笑みのあたしに、ちょっぴり恥ずかしそうな郁弥さんが写ったカップル写真ができあがった。大満足!
一通りはしゃいで写真も撮ったので、ようやくと雪道を歩き始めた。それなりに時間がかかったと思ったけれど、前の人たちも写真を撮ったりでゆっくり歩いていたのでそうでもなかった。それに、ちょっと歩いてすぐに温泉街らしき建物が見えてきたので、そもそも
「あ、日結花ちゃん」
「郁弥さん郁弥さん」
「先にいいよ」
「先でいいわよ」
そっちが先に話してというニュアンスで言ったのに、相手も同じことを言ってくる。これ、カップルあるあるね。最近なかったから久しぶり。たまにあるのよ、こういうの。
二人して譲り合い精神を発揮していても時間の無駄なので、軽く笑い合ってあたしから話させてもらうことにした。たぶん、郁弥さんが言いたいことも同じだから。
「ほら見て。氷柱がいっぱいよ」
「いっぱいあるね」
「今言おうと思ってた?」
「うん。同じこと考えてたみたい」
「うふふ、そうだと思ったわ」
「あはは、そりゃ目が行くよね」
ぽやぽやと笑う恋人の手を引いて、木造シャッターのような縞状の壁に近づく。ここがどんな建物なのかは知らないけれど、もしかしたら夏場に開いているお店か何かなのかもしれない。横長の長屋っぽい建物だから、そんな風に思う。
それはそれとして。今大事なのは氷柱のこと。低い屋根から端に沿うように氷柱ができているので、手を伸ばせば届く距離にある透明な氷。間近で見る氷柱は、なんともまた綺麗だった。
「綺麗」
「君の方が綺麗だよ」
「ふふ、定番過ぎ」
「お約束かと思って。嬉しくない?」
「嬉しいに決まってるでしょ。恋人に褒められて嬉しくない人はいないわよ。男女問わずね。でしょ?」
「そうだね」
さらりと告げられた言葉は、使い古されたような定番なもの。藍崎郁弥さんというあたしの恋人は、定期的にこんなセリフを言ったりする。なかなかお茶目な可愛いところも、あたし的好意ポイントの一つなのよね。
外気とは裏腹にぽかぽかと温かい胸の奥を感じながら、ゆっくりと氷柱に手を伸ばした。傘からはみ出た腕に雪が舞い降りて、コートの上にふわりと留まる。軽く腕を揺するとすぐに滑り落ちて地面の雪と重なった。
降りしきる雪から意識を戻し、いくつもある氷柱から触れても折れなさそうなものを選んで軽く握ってみた。
「つめたっ」
「はは、氷なんだし冷たいに決まってるよ」
「えい」
「ふぉ!」
「えへへ、冷たいでしょ?」
「すごく驚くからやめてください」
「やだ」
「ええ……。じゃあ……うお、本当に冷たい」
「んふふ、氷だもん」
「はいお返し」
「ひゃっ!ちょ、ちょっと!冷たいじゃない!」
「ちょうど氷柱触ってたからね」
「もう!冷たくなったからあっためて!」
お互いに氷柱に触れて冷えた手を頬に当て合って、やり返されたお返しのお願いをする。
自分から始めておいてなんだけど、郁弥さんだからこそ今のをお願いできた。問題は、彼がどうやってあたしの手を温めてくれるかという点。
「喜んで温めさせてもらおうかな」
自然に話しながら、あたしの手を取って自分の頬に添え、彼自身の手を上に重ねる。彼の頬と手にあたしの冷えた手がサンドイッチされた。ふわりとした柔らかい笑みが温かくて、手の冷たさがどうこうより恥ずかしさで全身が熱くなる。
「な、なな、なんてことをしてくれちゃっているのかしらっ」
声に出しといてなんだけど、久しぶりにほんとに口が回らない。ひどい。自分のことなのに動揺しすぎ。あたしのばか。
「だめだった?」
「だめじゃ……ないけど」
「なら少しだけこれで」
「んぅ……少しだけだからね」
傍から見て相当に甘々な時間が過ぎる。少しだけと言ったから、実際の時間はほんの十秒かそこら。だというのに、体感だと数十秒から一分はかかっていた気がする。心臓がドキドキして困る。
「よーし、あったまったね。行こうか?」
「そ、そうね。行きましょ」
恥ずかしさ満点で顔が赤くなっていそうなので、彼の腕に隠れる形で歩くことにした。
恋人の頬と手に挟まれていた手は歩き始めて離れてしまったので、傘を持つ腕に抱きつくように手を回した。だいたい最初の体勢と同じになった。
照れ度の高いやり取りをしてしまいはしたものの、空気は雪にあふれた冬のもの。歩きながら数回深呼吸すれば、肺に冷気が巡って身体の熱も冷めていく。頭の熱を冷ましたところで、ようやくと周囲に目を配る。
「わ、もう目の前じゃない」
「うん。ここからもう銀山温泉だね」
広がる景色は木造の建物を左右に並べて真ん中に川を通したというもの。ある程度の間隔で橋がかかっていて、建物も道も橋も全部雪に満ちている。
空が白色に近いグレーなため、暗すぎることもなく不思議な世界に踏み入れたような感覚になった。
ふわふわとした気分で話しながら、銀泉花さんの人に付いて橋を渡っていく。橋も除雪はされていたようで、道の左右にこんもりと雪が載っている。車道はまだ薄っすらコンクリートが見えるのに、歩道はもう完全に雪で埋まってしまっていて見えない。むしろ、雪の厚みで段差ができているほど。
一応、適当に郁弥さんの写真をぱぱっと数枚撮っておいた。これはあたしの個人的フォルダ保存用。好きな人の写真を持っておきたいのは普通だものね。
「あー、これが銀山川だったんだ」
「ん?あ、ほんと。書いてあるのね」
「うん。ネットで見たやつだね。完全に忘れてた」
「ふふ、"ようこそ銀山温泉へ"ですって。なんかいいわね」
「あはは、だね――そう、僕らカップルはついに踏み入れたのだ」
「そういうのいいから」
「そっかぁ……」
「あ、でもカップルっていうのはいいわね。好きよ。ちゃんとそう言ってくれて嬉しいわ」
「そっかー。はは、恋人冥利に尽きます」
にこりと笑って、止まっていた足を動かす。
旅館に着くまでの時間はほんの少し、それこそあと二、三分だというのに。その短い時間がまたどうしてか楽しくて仕方がない。
インターネットで見た銀山温泉の景色が現実に目の前に広がっていて、灰色の空から降り積もる雪も本物で。郁弥さんと、恋人とここに来ている事実を思うだけで胸がいっぱいになる。
まだまだ先は長く、観光はこれから。雪降る銀山温泉を視界全部に収めながら、二人してからから笑いながら雪を踏みしめた。
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