14. お家のこと
雪の降る町、
大石田にある温泉を目当てにして、あたしたちはこの街にやってきていた。大石田の温泉は名前を
「どうなのかしらね、実物は」
「どうなんだろうねぇ。僕は楽しみだよ」
「あたしも楽しみよ?」
「ふふ、知ってる。でも、僕には
「にゃぅ」
我が事ながらすっごく変な声が出た。顔が赤くなっている気がする。
目の前でにこやかに微笑む人が、あたしの恋人兼婚約者の
あたしも何度この人の発言に心臓を跳ねさせられたことか…。発言だけじゃないわね。行動もよ。抱きしめてきたりキスしてきたり。全部してほしいタイミングでしてくるのがずるい。まあ、いつでもしてほしいあたし側にも問題があるかもしれないけど。
「可愛いなー。よしよし」
「ちょ、ちょっと撫でないでよ」
「ははは」
「笑ってごまかさないでっ」
適度なじゃれ合いを終えたところで、郁弥さんがホットティーを飲みながら携帯を見る。何をするのかと思ったら、ぱっと見ただけですぐにあたしに視線を戻した。
「もうすぐ十三時だね」
「そ。バスは十三時半でしょ?」
「うん」
「十五分前くらいには出ておく?」
「そうしようか」
「ん」
どうやら時間を確認しただけだったらしい。
旅館までの送迎バスが十三時半に来てくれるので、それを考えてさくっと時間を決めた。このカフェでまったりできるのもあと二十分くらい。ぬるくなったストレートティーが時間の経過を感じさせる。
「ここでする話でもないとは思うんだけどさ」
「ん?うん」
ほんのり香る寂しさに紅茶の水面を眺めていたら、珍しく彼が前振りを入れて話しかけてきた。顔を上げると目が合う。特に緊張している様子も見られず、何を言い出すのかと首を傾げる。
「少し前に僕の両親のお墓を撤去して海に散骨したでしょ?」
「本当にここでする話でもないわね」
「うん」
「別にいいけど。それで?」
まったく何の脈絡もなかった。たしかにそんな話を前に聞いた覚えがある。聞いたときは結構真剣だったような気もする。あたしもお墓参りに行ったことがあったし、さすがに真面目な雰囲気だった。
話の流れはなくとも、ひとまずと続きを促す。
「いやまあ、それでさ。僕の母さんと父さんの家がまだ残っているのは日結花ちゃんも知ってるでしょ?」
「うん、知ってる。神奈川にあるんでしょ?」
「そうそう。岐阜のはもっと前だからね」
どんな話をするのかと思えば、お
ちょっぴり難しい顔をして郁弥さんが話を続ける。
「神奈川の家をね、どうしようかって話をしようと思って」
「どうす、る?」
何を言いたいのかわからなくて聞き返す形になってしまった。
なんとなく言いたいことはわかるのよ。たぶん、家を残すか取り壊すかって話よね。
「取り壊そうかと思って。もう、僕だけが止まっているわけにはいかないから」
「……ん」
じっと彼の瞳を見つめる。深い色を湛えた瞳からは迷いを感じた。
「あなたはそれでいいの?」
「わからない」
「だからあたしに聞くのね」
「うん。僕と一緒に歩いてくれる君にね」
「そう」
あたしは彼の、郁弥さんの実家に行ったことはない。子供の頃から暮らしてきて、両親との思い出が詰まった家。亡くなってからも残したままだった家を取り壊すのは、彼自身の足を一歩進めるため。一つの節目として、過去を呑み込んで"これから"を歩くために必要なことなんだと思う。
「ね、郁弥さん」
す、っと呼びかける。
「なに?」
目を合わせて、手を差し出して繋いだ。
あたしに言えることは限られているから、こんな簡単なことしか言えないけれど。でも、それは恋人として、あなたの隣にいる人としてしか言えないことでもあるから。
「あたしは、あなたが好きよ」
どうしてずっと家を残したままだったのかなんて、聞かなくたってわかる。それをなくそうとする理由も、全部わかる。
そうしないと前に進めない気がするから。ずっと引きずったままになっちゃうから。だからきっと、郁弥さんは変えようとしている。でも、でもね。
「少しくらい、わがまま言ってもいいじゃない」
「ーーーー」
言葉を失って、何かを言おうとして口を開けても声になっていない。
それだけあたしの言ったことが響いたんでしょうね。本当、彼らしいわ。
「引きずったままで、変わらないままで、そのままでいいじゃない」
「……いいのかな」
「家族のことだもん。全部なくして、思い出さないようにして、呑み込んで抱え込んでいかなくてもいいのよ。思い出して泣いて、引きずって泣いて、いっぱい泣きながらあたしの隣にいればいいじゃないの」
おそるおそる口に出す郁弥さんに、重ねるように言葉を連ねる。繋いだ手をもう片方の手で包み込んだ。
「それで、いいのかな」
「忘れたくなかったんでしょ?」
「……うん」
「壊したくなかったんでしょ?」
「……うん」
「残しておきたかったんでしょ?」
「…………うん」
静かに頷く恋人と、目を合わせて微笑む。
「前向きじゃなくても、後ろ向きでもいいのよ。変わりたくないところは、変わらなくたっていいの。今も昔も郁弥さんは、あたしの大好きな郁弥さんのままだもの」
「――あぁ」
柔らかく微笑みかけると、そっと息をこぼすかのように声が聞こえてきた。
「あのままで、いいんだ」
「ん」
「もう何年も経つのに、忘れられないままなんだ」
「でしょうね」
「忘れられないままでも、いいんだ」
「いいのよ」
「そっか。……そっか」
呟いて、指先で目元を拭う。彼の瞳からあふれた雫は見なかった振りをして、あたしはただ静かに手を包み込んであげたままでいた。
「日結花ちゃん」
「なに?」
「君を好きになってよかった」
「あたしもよ」
「そっか」
「そうよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
自然に告げられたお礼には、あたしも当たり前のように返事をした。
郁弥さんがどれだけあたしのために変わってくれたのか、どれだけ悩んでくれてきたのか、その全部を知っているわけじゃない。それでも、彼が懸命にあたしと一緒に歩こうとしてくれているのはちゃんとわかっているから。
彼があたしにしてくれるのと同じように、あたしも彼にできることをしてあげたいと思う。
変わることと、変わらないことと。
みんながみんな前向きに歩けるわけじゃない。あたしが前を向いて歩けているのは、そんな人生を歩んできたから。郁弥さんの人生はあたしとは違う。いっぱい迷っていっぱい悩んで、前なんて到底向けていないかもしれない。でも、それでいいの。後ろ向きでも、俯きながらでも、彼が一生懸命なことはあたしがよく知っているから。
昔のことを引きずって、時々立ち止まって思い出して泣いたりする。そんな生き方があってもいいと思う。
あたしが好きになった人は、それ以上に面倒くさくて複雑だけどね。
「うん。あたし、やっぱり郁弥さんのこと好きよ」
なかなか涙が止まらずタオルで拭き取っている恋人に、満開に笑いながら伝えた。
繋いだ手がきゅっと動いて、目の前で驚きから照れへと顔の色が変わっていく。薄く桜に色づく頬がはっきりと目に映り込んだ。
恥ずかしそうにタオルを持った手を揺らす郁弥さんがまた愛おしくなって、あたしはゆっくりと想いを込め、もう一度"好き"の言葉を重ねた。
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