8. 緩やかな昔話
新幹線の窓から見える雪景色を尻目に、あたしと郁弥さんは二人昔話に花を咲かせていた。
「あの頃はよく喧嘩を――ううん、喧嘩じゃないか。すれ違いかな」
「ん、そうね。すれ違いね。あの頃っていうか、ちょうど去年の今頃までかしら。本当、最初から最後までずれっぱなしだったわよね」
「あはは、そうだね。それこそ僕らが友達になったときなんかどうだった?僕が何考えてたかわかる?」
「そんな昔のことを持ち出されても困るのだけど……。そのときってあれよね。連絡先、NEMUの交換をしたときでしょ?」
「うん。当時はネミリって名前だったやつね。会社が統合とか合併とか吸収とかで、スタイリッシュで横文字なやつになったんだよ」
「ふふ、郁弥さんNEMUの宣伝でもしたいの?」
「いや別に。なんとなくした方がいいような雰囲気だったから?」
「ふふ、なにそれー」
良いことばかりじゃなかったこの数年間の話をすると、自然に空気も重たくなってしまう。
そこにあたしがひと手間加えることで、柔らかく優しい香り漂う空間を演出した。合間合間に"好き"と言ってもらえる素敵ルールはそうそうないと思われる。完璧だわ。
「あなたが考えていたことと言えば、たぶん畏れ多いとかそんなのかしら」
「うん」
「……本当?」
思わず真面目に聞き返してしまった。わざと大袈裟な言葉を使っただけに、まさか肯定が返ってくるとは思ってもみなかった。
「誇張表現とかなしにほんとのほんとに?」
「うん」
「ねえなに?郁弥さんってあたしのこと信仰でもしてたの?」
「おお、当たらずと
「かっこよく言っても全然嬉しくないから」
「まあ、日結花ちゃんがどう思おうと僕が君を神様みたいなものだと考えていることには変わりないから」
からからと笑いながらずいぶんなことを言ってくれた。
「あたしがあなたにとっての神様なら、その神様と恋人、むしろ結婚まで秒読みなことにはどう説明をつけるの?」
「古来、人と神は交わり土地を守護してきたと――」
「つまり?」
「神様っていうのは比喩表現だし、それくらい大事な人ってこと」
「んふふ、よろしーい」
羞恥のかけらも見せずに真面目な顔で言ってのける恋人にご褒美をあげた。彼の頭をさわさわと撫でてあげる。
いつもされる側なので、してあげる側に回るのも悪くないものがある。幸福感というよりも満足感が強い。
「んーと、それで。あたしと友達になったときの話だったわね」
「うん。あのとき、僕って日結花ちゃんからの相談を受けてそれが解決したよーって話をされたんだよね?」
「ええ。知宵の実家まで行って、そこでも色々お話して、家に帰ってママと話してってところよ。結局ママが"かっこいい母親"をしていて、あたしが"素直な娘"になれていなかっただけって話なんだけど」
「仲直りできてよかったね。結局、僕って何かしたんだっけ?」
「あのねぇ……はぁ」
すぐさま訂正しようとして、呆れてため息がこぼれる。とぼけたような顔が一層こちらの気持ちを削いでいく。
「……はぁぁ、ねえ郁弥さん」
「うん」
「別にあなたがいなくてもなんとかなったって話はあったわよね?」
「だね。僕からした覚えがあるよ」
「ん、じゃあそのときあたしが伝えたことも覚えてるでしょ?」
「"あたしがあなたと一緒にいたいの"」
「んな!?そ、そうね!ええそうよ!文句あるっ!?」
「ううん。ただ今思えば告白みたいだなって」
さらりとした笑顔で言われてすぅーっと顔の熱が引いていく。
事実だった。あのときのあたしはまだ自覚がなかったけれど、たぶんもう好きになっていた。だからこそ逆に冷静になれた。
「ふふっ、我ながら恥ずかしいこと言ってたわね」
「僕も人のこと言えないけどねぇ、あはは」
お互いに、まだ距離感すら掴めていなかった頃のことを思い出して笑い合う。
「あたしは郁弥さんが本格的な初めての男友達だったし、しかも年上の頼れる人だったもの。パパは頼るとかそういうのとは縁がない感じだから、意識して好きになっちゃったのも仕方ないわよ」
「嬉しいけど、
「もう遅いわ」
「ええ……」
つんと言い返したら引き気味に顔を引きつらせた。
どんな反応されようと、もう伝えちゃったものは伝えちゃったのよ。諦めなさい。
そんな前向きな気持ちが彼に通じたのか、苦笑しながらも話を変えてくれる。
「まあ、うん。そう、僕にとっては日結花ちゃんが人生の救い手、恩人、依存先だったから。色々表に出せない気持ちはいっぱいあったよ」
「今も隠してる?」
「いやまったく。依存であることを受け入れられちゃったからもうなんにもないよ。日結花ちゃんの心の器の広さに感謝だね」
なんて、肩を竦めながら笑った。
"女神に感謝だよ"とか続けるのはかっこつけなのか照れ隠しなのか。どちらにせよ、彼の頬が赤くなっているのを見れば一目瞭然だった。
「ふふ、それでこそあたしの恋人よ」
「でも、よく僕のこと受け入れられたよね」
「ん?」
「ほら、正直重たいでしょ。僕って」
「んー……」
郁弥さんが重たいか、ね。
「うん、すっごく重いわね」
「だよねー」
ぱっと事実を伝えさせてもらった。こんなやり取りすら軽くできるのは、あたしたちのこれまでがあるから。
似たような会話ならしてきたし、彼の気持ちが重たいなんてそれこそ今さらって話よ。
「重いのは事実なんだけど、郁弥さんって直接あたしに依存してるとか言ってくるじゃない?それって普通なの?」
「え、どうなんだろう。僕も他の人は知らないからわからないよ」
「そ。なんとなくそう思ってたわ」
あたし的には普通じゃないと思う。それを口に出さないから、束縛が強いとかなんとかでこじれるって見聞きしたような気もする。曖昧な記憶だし、人伝で聞いたと考えれば信じるのもどうかと思うけど。
「ね、郁弥さん」
「うん?なに?」
改めて恋人の顔を見つめる。ぽやぽやあたたかな雰囲気のひだまり郁弥さん。のんびりとした顔が目の前にある。なんとも気の抜ける、でもそれが心地良く感じるあたしの好きな顔。
「あたしは郁弥さんが郁弥さんでよかったわ」
「あはは、なんだそれ」
「知りたい?」
「うん」
「適度に束縛してくれて、ちゃんと全部言葉にして伝えてくれる人ってこと」
「あー、そういう」
「ん、わかるでしょ?」
「うん、なんとなくね」
困ったように眉尻を下げながらも、うんうんと頷く。
表情豊かなところもあたしの好きな部分の一つだったわね。顔見てると本当によくわかるわ。
「僕が束縛するって言うのもなんだけど、日結花ちゃんが文句一つ言わないからあんまり実感ないんだよね」
「……それ、あなたが言う?」
さすがにこれには抗議したい。呆れを混ぜたじと目で恋人を見つめる。
「い、いやハハ。僕はほら、咲澄日結花至上主義者だからさ。それにこれでもマシになった方なんだよ?日結花ちゃんが一番知ってると思うけど」
「う……」
ぐさりと刺さる。身に覚えがありすぎて恋人として一年経った今でも胸にくるものがある。
「昔は束縛以前に僕から何も求めなかったもんねぇ」
「あなたは、ずっとそうだったわね」
友達だった頃はもちろん、友達以上恋人未満になった頃も、恋人になってからも。ずっとずっとそうだった。一緒にいるだけで十分だって、幸せだって、そう言って我儘一つ言わなかった。
結局のところは彼がまだあたしを信じ切れていなくて、あたしも彼のことをわかった気になっていただけな話なんだけど。
「必要がなかったからね。あの頃は本当にそれで十分だったんだ。特に恋人になる前までは」
「……恋人になった後は?」
「君も知っている通り、離れるのが怖くて怖くて仕方のない子供になって怯えていたわけだ」
「あれは全面的にあたしが悪かったわ。ごめんな――」
「あはは、いいのいいの」
つい謝罪の言葉が口に出そうになって、それは途中で止められた。恋人の人差し指があたしの唇に当てられて言葉が途切れる。
「日結花ちゃんと僕が喧嘩、ううん。あれもすれ違いかな?」
「……ん」
首を傾げる郁弥さんに返事はできないので、こくりと頷く。
絶対に今考えることではないと思うのだけど、唇に当てられている指にあたしの唾液がつかないか心配だわ。あともう一つ、彼の指を口に含みたい気持ちもちょっぴりある。
「あのすれ違いがあったから僕は日結花ちゃんと向き合えたし、"今"に繋がっているんだ。人と人が一緒になって想いを積み上げていくんだから、問題や失敗にすれ違いなんてたくさんあっていいんだよ。今僕が日結花ちゃんを心の底から好きだと思えて、日結花ちゃんが心の底から僕を好きだと思ってくれている、それでいいんじゃないかな」
「……はむ」
「うわぁ!?」
"ちゅぽん"とかの擬音はまったくなく、ぬるりと素早く指が引き抜かれた。
つい、唇に当てられていた指を咥えてしまった。郁弥さんがすっごく良い話してくれていたのはわかっているのよ。ちゃんと話も聞いてたし、言いたいこともきちんと伝わっているわ。でも、それとあたしが彼の指を咥えたのは別の話。不可抗力ってやつよね。
「悲鳴を上げることはないんじゃないかしら?傷つくわよ」
「声を抑えた僕を褒めてほしいんだけど!?」
「指を一本口に含んだだけじゃない」
「僕、物凄い良い話してたと思うんだけど?」
「知ってるわ。聞いていたもの」
「それならいいけど……」
「あ、いいのね」
あたしの方がびっくりよ。何の脈絡もなく指を口に入れられて、それで適当言ってたら普通引くわよ。あたしがやられたら絶対引く。相手が郁弥さんでも引……うーん微妙なラインね。我ながら絶妙なラインを責めてる。
「相手が日結花ちゃんだし」
「それで納得するのってあなただけだと思うわよ?」
「はは、むしろ誇らしいね」
「郁弥さんって、ときどき変態的よね」
「そのセリフは僕が一番言いたい」
「一理あるわ」
あたしの唾液がついた人差し指をひらひらと振って苦笑した。
「しかしこの指どうしようか?」
「タオルなら持っているでしょ?」
「うん」
「あたしの唾液が嫌なら、タオル貸してあげるけど」
「唾液って言葉は生々しいからやめてほしいな」
「でも事実じゃない」
「それはそうなんだけど」
会話をしながらミニカバンを開いてタオルを取り出そうとすると、郁弥さんが首を振って"いらないよ"とジェスチャーをしてきた。次いで言葉でも伝えてくる。
「自分ので拭くからいいよ」
「ふんふん、わかったわ――」
ふんふん頷いていたところで、ピーンと一つ閃いた。
ぱっと顔を明るくしたあたしを見て何か勘づいたのか、怪訝そうな顔で問いかけてくる。表情だけで言いたいことがわかるのは、恋人故といったところ。
「どうせならその指舐めたらどう?」
「……その発想はなかったなぁ」
「嫌なの?」
「ううん」
首を振って、さっと指を舐めたあと自前のタオルで拭った。特に躊躇いはなく、恥じらいもない。至って普通な様子になんとも言えない気分になった。
複雑な心境のあたしを置いたまま、郁弥さんはやることを終えてこちらをじっと見つめて口を開いた。
「嫌じゃないけど、日結花ちゃんって定期的に発想が変態だよね」
マイナスな雰囲気はなく、純粋な目で頷きながら変なことを言う。
あたしの恋人ながら、結構ひどいことを言ってくれる。自分でもさっきのはすっごく乙女心に欠けた発言だと思ったから否定はできない。でも。
「実行に移したあなたも相当よ?」
「それは知ってる」
「そ。恋人同士お揃いでいいじゃない」
今までで一番気持ちが平坦になるお揃いだわ。ここ、公共の場なのよ?わかってる?ちゃんと節度と品位は保ってほしいものね、まったく。
「声に出てる、声に出てるよ」
「わざとよ!ちゃんと小声にしてるじゃない!」
「あ、そう?気づかなかった」
「しらじらしいわね。ちゅーするわよ」
「ここは公共の場です。節度を守ってイチャイチャしましょう」
「え、ちゅーもだめなの?」
「うーん、半分アウトかな」
それはほんとに知らなかったかも。ちゅーぐらい許してくれてもいいじゃない。と、思ったけど、街中で昼間からキスしてる人なんて見ないわね。アウトだわアウト。こっそりやらなきゃだめよ。公共の場ならちゅーはこっそりね。あたしと郁弥さんの約束。
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