7. 重く甘く
ゆったりとした時間が流れゆき、電車はまた一つ駅を越えた。
過ぎ去る景色は色を変え、真白に染められた大地が顔を見せる。雪があった。街も山も。遠く果てまで地面が白雪に覆われている。
あたしと郁弥さんの二人は、ようやく冬の世界に足を踏み入れた。
「あれ、日結花ちゃんもっとはしゃぐかと思ったんだけど……いいの?」
「いいのって、あたしべつにそんな子供じゃないし」
雪くらいで大はしゃぎするように思われていたなら心外だわ。
からかい気味に笑いかけてくる恋人からぷいっと顔をそむけて、窓の外を眺める。ロールカーテンはすべて上げているため窓の外はよく見える。広がる銀世界が胸を弾ませた。
新幹線は福島駅を通り過ぎ、今は東北地方を進んでいる。目指す先は山形県。もしかしたら既に入っているかもしれない。時刻は十一時を過ぎ、予定ではあと一時間半ほどで目的地に到着する。
福島駅を過ぎてから、外の世界は真っ白な雪に包まれた。あたしも郁弥さんも、なんとなく見つめ合って微笑んだのは雪に"旅らしさ"を感じさせられたからだと思う。少なくとも、あたしはそうだった。
「それよりあなたはどうなの?やっと雪が見えたじゃない。しかもちゃんと降ってるわよ」
そう、雪は現在進行形で降り続けていた。量は多くないけれど、それでもひらひらと空から雪の粒が舞い降りてきている。東京駅にいたときから期待していた彼が喜んでいてもおかしくない。
「そう、だね。……うん。ようやく雪国に来たって気がしてきたよ。ぐっと旅行に来た感がある」
「雰囲気あるわよね。地味に寒くなった気もするし。あ、郁弥さんもっとこっち寄って」
「え、うん。いいよ」
近づいたり離れたり。
新幹線に乗ってから、気分や話題によってあたしたちの距離は変わっていた。今は一般的な座り具合、つまり普通に椅子に座っているのと同じくらいの距離だった。そこを変えてもらい、あたしの一声でスーっと距離が縮まる。触れ合った肩にトクトクと心臓が高鳴るのは毎回のことなので慣れてしまった。
雪による寒さという名のプラシーボ効果は、恋人の体温のおかげで消えてなくなった。
「はー、あったかい」
「ねえ、日結花ちゃん」
「ん、なに」
なにげなくかけられた声に返事をする。
「ありがとう」
「ん?ふふ、なに?どうしたの?」
謎のお礼に戸惑いつつも、恋人の顔を見て微笑む。
こういうとき、今みたいにいきなりお礼を言ってきたりするときの郁弥さんには注意しないといけない。あたしの恋人は、郁弥さんはずるい人だから。
「今さらだけど、ようやくって言えばいいのかな。日結花ちゃんとここまで来たんだなぁって、そんなことを思ったんだ」
「そ、っか。ん……そうね」
"ここまで"。
言われて思う。ここまでの道のりは大変だったなぁなんて。
「色々あったわね」
ただ単純に時間だけでも、知り合って三年。恋人になって二年。本当の恋人になって一年。あたしも二十歳を過ぎて、あと二か月もすれば二十一歳になる。
本当に、自分が二十一歳になるだなんて実感が湧かないわ。
「色々あったね。僕が泣いて、日結花ちゃんが泣いて、僕が泣いて、僕が泣いて、日結花ちゃんが泣いて、僕が泣いて……僕が泣いてばかりだけど」
「ふふ、おばかさん。それだけ成長したってことじゃない。誇りなさいよ」
「そうなのかな。……そうなのかもね。僕が日結花ちゃんを好きになる前より、人間らしくなった気はするし」
「人間らしくって。あなたロボットか何かだったの?あといきなり好きとか言わないでよ。照れるわ」
真面目に話せばいいのか緩く話せばいいのかわからなくなる。
でも人間らしく、ね。……ん。郁弥さんのことを知ってる分、何を思って言ったのか予想がついちゃう。
少しだけ、泣きたくなった。
「好きだよ。日結花ちゃんが好きだ。好きになれたから、好きになったから今があるんだ」
あまりにも真剣で、なのに自然で一切の気負いがない姿に言葉を失った。
言葉を返せずにいるあたしを見て苦笑した彼は頭を撫でてくる。壊れ物を扱うような手つきに、いつも以上の優しさを感じる。
「昔の僕にはなんにもなかったからね。文字通り空っぽさ。そんな僕が見つけたのが君だった」
緩やかにあたしの髪を撫でながら話を続ける。
当時を思い出すように視線を宙にさまよわせ、目が合うと儚げに笑いかけてきた。
「なんにもない僕がやりたい、ううん、やらなくちゃいけないこと。それが日結花ちゃんへの恩返しだったから。懐かしいな、あの頃はそれだけに縋って生きていたよ。今思えば余裕がなさ過ぎてひどかったかも」
「……あのね、郁弥さん」
「うん、なに?」
どう伝えればいいかな。懐かしんで昔話をするのはいいけど、できれば明るい雰囲気でお話したいのよ。重たい雰囲気は嫌。もっとこう、ぽやぽやとした感じで話してほしい。軽すぎるのも嫌だけど。
「うーん、えっとね。今から昔話をするときはあたしの好きなところを一個ずつ言っていってね」
「え、いやどうして?」
「空気が重たくなるから」
「……うん、了解」
気まずそうな顔をしながらもわかってくれた。ついでに、あたしの頭を撫でてくれていた手が止まったので"ちゃんと撫で続けて"とお願いもしておいた。
我ながら気恥ずかしいお喋りになってしまいそうだとは思うけれど、好きと言われると嬉しいのでやっぱり悪くない提案だったと思う。あたしの勝ち。
「さ、続きをどうぞ?」
「ええ……。うん、えっとじゃあ話すけど……」
雰囲気ぶち壊しと言うなかれ。むしろこれは壊したのが正しい。郁弥さんが話しづらそうなのは気にしたら負けよ。彼もすぐ慣れるわ。
「僕と初めてまともに会話したときのこと覚えてる?」
「ん?うん、覚えてるわよ。郁弥さんが
懐かしいわね。ピンって張った糸みたいに緊張して、それなのに静謐な空気感に満ちていて。そう、あの頃の郁弥さんこそまさに聖人。
「菩薩って。ただ緊張してただけだよ?」
「知ってるけど、なんとなくそう思ったのよ。だいたいその緊張を解してあげたのは誰だと思ってるの?」
「僕です」
「でしょ?ふふ、わかって――今なんて?」
「僕自身が日結花ちゃんと相対することに慣れたためである」
「変な喋り方すると怒るわよ」
「ごめんね。好きだよ。君の声が」
「え?……ふ、ふふ。う、うん。ありがと。でも、ふふ、唐突過ぎてすっごくシュールなんだけど」
たしかに一回お話するごとに"あたしの好きなところ言って"とは言ったけど、こんなよくわかんないところで言われても困る。嬉しいのは嬉しいのよ?ただ変な感じじゃない。雑談が急に愛の言葉になっても追いつけないわ。
「自分でもわかっているので触れないでもらえませんかね……」
「うふふ、りょーかい」
羞恥心で薄っすら頬を赤くする郁弥さんが可愛い。
「ありがとう。うん。それでそう、あの頃は不思議だったよね。自分でも意味がわからないけど、日結花ちゃんの歌劇にばんばん当選してたし、どれもこれも眠らなかったし」
「あの頃っていうか、それは今もでしょ」
「日結花ちゃん限定の強運とかあるのかなぁ」
「さすがのあたしでもそれは怖いからやめ――いえ、待って。むしろそれがあったからあたしとの縁ができたんじゃない?なら感謝しなきゃいけないわ」
一瞬呪いか何かかと思ったけど、逆ね。祝福とか天運とか、そういった類のもの。運命の神様、あたしの郁弥さんにとっても素敵な運を授けてくれてありがとうございます。
「ま、まあいくら考えても
「ん?ええ、そうね」
恋人がちょっぴり引き気味になっているのは見なかったことにした。
「僕が抽選を通ったことは必然だったとして、あとは歌劇だよね。ここも不思議なんだけど、僕ってなんで日結花ちゃんの声効かないの?今まで効いたことなかったよね」
「そんなのあたしが知りたいわよ。なんであなた眠らないの?"はい眠ってー"」
「?」
「ううう!腹立つ!効果ゼロじゃないの!」
「あ、今何かしたの?」
「ばかにしてる?」
「あはは、ごめんごめん。うん、"力"込めたんだよね。僕には効かなかったけど」
「やっぱりばかにしてる!」
出会った頃から変わらないあたしの彼氏の特徴。
もやもや感をぶつけるように、自分の肩を彼の肩にぶつける。ゆらりゆらりと揺れて、楽しそうに笑う郁弥さんを見てあたしもにっこりしそうになった。急いで口元を引き結んで表情を引き締める。
あやうくほだされるところだったわ。あぶないあぶない。
「あ、日結花ちゃん頭撫でていい?」
「む」
自然な流れで聞いてきた。このまま流されていいのかどうか、戸惑って言葉に詰まる。
今あたしは怒っている。郁弥さんに怒っている。そんなところに"頭撫でていい"とは、当然撫でてほしいに決まっている。
小さな怒りと自分の率直な欲望を天秤にかけると、片側が圧倒した。当然の結果でしかない。だって撫でられたいんだもの。
「いいわよ。いっぱい撫でてね。ついでにまたぎゅーってしてくれたら嬉しいわ」
「そっちはまた後でね」
"後で"なんて言いながらも、軽くぎゅっとハグをしてくれた。嬉しい。やっぱり郁弥さんのこと大好き!
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