6. 雨と道

 新幹線の窓枠に雨粒が当たり、車内に漂う音の粒に混じって鼓膜を揺らした。

 閉じていたまぶたを持ち上げ、隣の恋人に寄りかからせていた身体も起こす。半分まで下ろされているロールカーテンの外を覗き見れば、薄暗い曇天が一層深い灰色となって世界を覆っていた。


「んー……」


 くーっと軽く背筋を伸ばし、一度深呼吸してペットボトルの水を口に含む。

 右耳に着けたイヤホンから聞こえてくる曲がピアノを基調にしたバラードだったので、なんとなく気持ちが落ち着いていた。

 恋人の持っている音楽プレイヤーの曲を聞いているため、もちろん選曲も恋人任せ。自分ではあまり聞くことのない曲だったり、予想していたものと違う雰囲気の曲が多かったりで少し驚きがあった。

 こうして恋人の、郁弥いくやさんの聞く音楽を聞いてみるのって初めてなのよね。人の音楽プレイヤーの中身なんて聞く機会ないし、あたしも自分から聞いてみようとはしてこなかったし。

 お互いのことを知り尽くしたと思っても、実はまだ全然知らないことだらけで、それが少し悔しかったりして。でもそれ以上に嬉しかったりもして。

 好きな人のことを知れることがやっぱりすごく嬉しいから、また一つ"好き"を積み重ねて、その分だけ郁弥さんのことが愛おしくなる。

 "永遠の愛"だなんて言葉は、もしかしたらこんな気持ちから生まれたのかもしれないわ。


「郁弥さん」

「うん」

「雨よ」

「そっか。降り出したんだね」

「ええ」

「さっきの曲、"雨空遥か一路"って名前なんだ」

「……ん」


 何を言いたいのか視線を宙にさまよわせて、それから窓の外の雨雲で留めて言葉を続ける。


「僕さ、"雨空遥か一路"が好きなんだ」

「どうして?」

「――どうして、なんだろうね」


 瞳が揺れて、あたしの目と合う。彼の表情が苦く崩れた。


「さっき聞いてくれたからわかると思うけど、"雨空遥か一路"はあんまり明るい曲じゃないんだ」

「そうだったわね」


 曖昧に笑ったまま、あたしの手に手を重ねてくる。ぎゅっと手を繋いだ。


「雨の中を歩いて、歩いて……。躓いて、藻掻いて、それでも歩き続けて。何かから逃げるように歩き出した自分が、いつの間にか道の先を目指すようになっていて。先に何があるかわからないのに、雨が止む気配はないのに、それでも歩かなくちゃいけない。……日結花ちゃんはさ、歩いて行けると思う?」

「あたしは……」


 思い浮かべてみる。

 何もない自分。誰もいない世界。ただ冷たい雨が降っていて、一本道だけが真っ直ぐと見えている。先は見えず、身体は冷えていくばかり。それでも歩かなくちゃいけない。そんなとき――。


「あたしは、頑張ってみるかな」

「――そうだよね」


 郁弥さんは眩しそうに目を細めて、すぐに伏せて微笑んだ。


「日結花ちゃんならそう言うと思ってた。だって、君は僕の"道"だから」

「んぅ」


 顔を上げた恋人は優しさを目一杯詰め込んだ笑みを浮かべていて、言われた言葉も併せて変に照れくさくなる。


「"道"って言うのは歌詞の中の道、でいいのよね」

「うん」


 小さく頷いて、それから言葉を続けた。


「雨の中歩く僕に道を示してくれたのが日結花ちゃんだったから。日結花ちゃんが、君が道の先になってくれたから今の僕があるんだよ。それもただ道になるだけじゃなくて、隣で傘をさして一緒に歩いてくれるんだから。本当に……本当に日結花ちゃんには救われた。ありがとう」

「……」


 彼の顔を見て、言葉を聞いて、体温を感じて。

 何を言おうか悩んで、口を開けかけてすぐにやめた。


「……ん」


 結局、頷くことを返事にした。それから寄りかかるように、くっつくように身体を寄せて恋人の肩に頭を乗せる。

 きっと、今は言葉にする必要がなかった。郁弥さんの言ったことは全部彼の中で記憶として形に残っているものだから。

 あたしが隣で傘をさして歩いているというのは、彼にとってのあたしの立ち位置になる。恋人として、婚約者として、隣を歩く人として見ていてくれているのだから、あたしが何か言う必要はない。

 "雨空遥か一路"という歌を聞いて、あたしにも少しだけ彼の感傷がわかった気がする。


「―――」


 昔の自分と今の自分と。

 振り返って見える道は遠く、前に見える道と同じようにただただ真っ直ぐ続いている。雨が降り続けることも変わらず、これだけ歩いてきてもまだ道の先は見えない。それでも今は、独りじゃないから。隣にあたしがいて、一緒に歩いているから。だから歩いて行ける。きっと、ずっと、どこまでも。

 そんな情景が、思いが伝わってきた、彼の想う何かが見えたような気がする。


「郁弥さん」


 名前を呼ぶ。


「なにかな」

「あたしは、隣にいるから」


 それだけ伝えて目を閉じた。

 彼がどんな表情を浮かべているかなんて、見なくてもわかる。


「ふふ、うん。知ってるよ」


 柔らかな微笑みが瞼の裏に透けて見えた。

 雨の中、世界にただ二人。

 二人なら簡単かな、なんてことを思う。だって、あたしと郁弥さんだもん。手を繋いで、支え合えるのがあたしたちだから。

 二人だけでも、道の先が見えなくても、雨空が続いていても、歩き続けていける。

 根拠なんてない。理由なんていらない。これまでのすべてが、これからのすべてがあたしたちの道を彩っていくものだから。

 いつの日か、雨空の切れ間に日が差し込んで。七色の虹が描かれた空の下、季節の花々が咲き誇る道を歩けるくらいになりたい。ううん、なってみせる。

 雨は止まずとも、世界は変えられる。そうでしょう?郁弥さん。


「……?日結花ちゃん何か言った?」

「ううん、何も」


 くすりと笑って、恋人の指に自分のそれを絡めた。

 視界の隅に映る雨空は先ほどと変わらず、けれど遠くに雲間から差し込む穏やかな光が見えた。あたしたちの今これからを示しているような景色を眺めて、あたしは静かに恋人と繋いだ手に力を込めた。

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