5. 抱擁するだけの話

 旅行に来ている恋人二人、つまるところのあたしと郁弥さん。二人で好きとか好きとか言い合って、話が一段落したところで新幹線は大宮を出発した。

 次の停車駅は福島駅。時刻は九時五十分近くとなった。新幹線に乗ってからはまだ三十分ほどしか経っていないのに、東京から大宮と出てきたためかなりの時間が経ったような気がする。

 あたしがちょっと寝ちゃったせいもあるかもしれないわね。どうでもいいけど。


「ねー郁弥さーん」

「へい」

「福島に到着するの十時四十五分だってさ」

「今何時?」

「十時前くらい」

「あと四十五分の自由時間だね」

「自由時間って、なに?遊ぶの?」

「ううん。ゆっくりできるなーと思って」


 ぽけーっとした顔でのんびり発言をいただいた。

 ゆっくりって、おやすみでもしたいのかしら。


「眠りたいの?」

「うーん、ちょっとはね。日結花ちゃんやりたいことある?」

「お喋りしたいわ」

「ふふ、おっけー。何話そうか?」

「そこは彼氏さんが話題提供してくれないとねー」


 というわけで、お喋りをする時間になった。別名イチャイチャタイムとも言う。


「そっかそっか。今日は良い天気だね」

「すっごい曇ってるんだけど」

「じゃあ一緒に外の景色でも見て確かめてみようか」

「別にいいけど……」


 イマイチ彼のやりたいことがわからない。窓のロールカーテンは下げていないので先ほどから外の景色は見えたまま。一緒に見るもなにも、外が薄暗い曇天なことはまるわかり。

 それ以上に、さっき新幹線に乗る前に雨がどうとかそんな話をしたから。なんてことを考えていたら、郁弥さんとの距離がぐっと縮んだ。

 外をしっかり見るために彼が窓へ乗りかかる、寄りかかるような動きをしたため、必然的にあたしを抱きすくめるような体勢となる。


「い、郁弥さんっ」

「なんだい」

「なんだいじゃないから。近いから。その……は、恥ずかしいわっ」

「離れる?」


 こちらの顔すら見ずに聞いてきた。またとてつもなく卑怯なことを言ってくれる。あたしがなんて答えるかわかってるくせに。

 抗議の目を彼の横顔に向けても、全然気づいてくれない。わざととしか思えないし、結局答えは変わらないので諦めて口を開けた。


「……はなれない」

「うん。知ってる」

「うー」


 さらりと笑われ、文句を言うのも癪なので身を縮めて彼の胸に顔を押し付けておくことにした。その後すぐにぎゅぅっと少しきついくらい抱きしめてきたせいで、心臓が大きく跳ねた。


「んー、温かいねぇ」

「あ、あついくらいなのだけど……」

「そうかな。離れる?」

「……はなれない」


 ぽかぽかとして暑いくらいなのに心地よくて。自分の全部を預けてしまっているような感覚になる。

 ずっとこのままでいたいとか、離れたくないとか、そんな言葉が浮かんでは消えていく。言葉じゃ表せ切れない気持ちは、身体の力を完全に抜いて彼の身体に寄りかかることで示した。


「日結花ちゃん、外、見えるかな」

「真っ暗でなんにも見えないわ」

「そっか。外の景色見ない?」

「あたしは……」


 なんて答えようかと迷って、言葉に詰まった。

 外を見たいと言えば、この抱擁が解かれてすぐにでも見られるようになる。話を続けることができて、あたしが伝えた"お喋りしたい"というお願いが叶う。きっと郁弥さんは、最初から外の景色を一緒に見ようとして話してきていたんだと思う。その途中で、たまたま抱きしめたりできたからしちゃっただけで、それは偶然みたいなもの。

 ここですぐ返事をして一緒に外を見たりするのが正解なんだと思う。でも、ちょっと思っちゃった。このままがいいなぁって思っちゃったから。

 目の前は真っ暗だし、外の景色は気になるし。二人で一緒に思い出作りをしていく旅行なんだから一つ一つの時間を大事にしていきたいけれど、今は今のままでいたくなっちゃった。


「いいよ」

「……いいの?」


 口に出していないのに、表情さえ見えていないのに、それでもすべてをわかったようにはっきりとした言葉が空から降ってくる。


「うん。日結花ちゃんが満足するまで、ずっとこのままでいいよ」


 胸の中が温かいものでいっぱいになって、変に感極まって目元が熱くなった。なんとかこらえてぎゅっと目をつむって、彼の胸に顔を埋めたままくぐもった声で小さくお礼だけ伝える。


「ありがと」


 返事はなくて、ただあたしの頭の上に大きな手が乗せられる。

 ゆっくりと撫でてくる郁弥さんに甘えて、少しの間このままでいさせてもらうことにした。



「日結花ちゃんシャンプー変えた?」

「変えてないわよ。変えたのはあなたの方でしょ?」

「まあうん。変えたと言えば変えたし、変えてないと言えば変えてない」

「なにその言い方。どっちなのよ」

「ほら、僕たちって同じシャンプー使ってるでしょ?」

「そうね」

「日結花ちゃんが買い置きしたのいくつかあるよね?」

「あるわね」

「実は新しいの開けたんだ。柑橘系ミントのやつ」

「あー、そういうこと。なんとなく覚えのある匂いだと思ったら、そう言う感じだったのね」

「どうだった?嫌じゃなかった?」

「ふふ、いやなわけないじゃない。おばかさん」

「う……だって僕が使うのと日結花ちゃんが使うのじゃ違うと思うから」

「それはそうかもだけど……あたし、あなたの体臭も大好きだから気にしなくていいわよ。シャンプーの香りも好きだし、あなたの香りも好き。ほら、なーんにも問題ないでしょう?」

「う、うん……ありがとう」

「ふふっ、どういたしましてっ」


 ちょこちょこと外を眺めながら二人で話をしていく。流れる景色は都会から離れて田畑が多くなっていた。空模様は変わらずの曇り。雨が降りそうで降っていない微妙な曇天。今にも降り出しそうな分厚い雲が青空を覆い隠してしまっている。

 ぼんやりと意識を外に向けていたら、むにむにと繋いだ手のひらに力が込められた。指と指の隙間が埋まり、ぎゅっとくっつく。


「何か用?」

「ちょっと音楽聞こうかなと思って」

「ん、わか――音楽?」


 ずいっと顔を動かして隣に視線を向ける。

 まさか恋人同士二人でいるのに音楽を聴いて一人の世界に浸るだなんてそんなことが許されていいわけがない!

 ふてくされてキスしてもらうか怒ってキスするかと考えていたら、郁弥さんが片手でふらふらと音楽プレイヤーを揺らしているのが見えた。


「時間もあるから少しこういうのもいいかと思って」


 なんて言いながらイヤホンの片割れを渡してくる。完全独立のワイヤレス型なので、二人一緒につけにくいとか外れやすいとかそんなことはない。

 そういったシチュエーションも悪くはないと思うけれど、あたしたちはくっつくためにわざわざ理由付けをする必要もないので気にしない。

 密着したいなら。


「ねー郁弥さん。もうちょっと近く寄りましょ?」

「うん?いいよ」


 繋いだ手を解いて、彼の傍に身を寄せる。大胆にも、あたしの彼氏さんは左手を伸ばしてあたしの腰を引き寄せてくれた。ぐいっと抱き寄せられてのイチャイチャとなる。

 そう、密着したいなら一言口で言えばいいの。これが真の恋人ってものよ。


「んふふー、郁弥さん好きー」

「日結花ちゃん好きだよー」


 好きと言えば好きと返ってくる。なにげにこれができないカップルが多いとか。

 この程度ができないなんて恋人の風上にも置けないわね。ちゃんとお互い好きで好きで大好きなら、こんなの無意識で返しちゃわなきゃだめよ。ほら、英語圏だとよく"I love you"って伝えると"I love you,too"とか"I love you more"とか返ってくるって言うでしょ?特にあたしは"I love you more"が好きね。私の方が愛してるわ。だなんて、きゃー!郁弥さん好き!!


「好きよ」

「僕も好きだよ」

「大好き」

「大好きだよ」

「あたしの方が郁弥さんのこと好きよ」

「僕の方が日結花ちゃんのこと好きだよ」

「にゅへへ」

「おっと、顔がとろけてるよお姫様」

「えへへぇ。いいもんべつにー」

「おぉ、甘えん坊日結花ちゃんだ。うりうり」

「んぅにゃぁ」


 ぎゅってしていっぱい甘えるのって、ほんとに最高よね。今日はもう、ずっとこのままでいようかしら。

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