4. ちょっと色のある話でも
恋人の体温を感じながら何分か。うとうとうつらうつらとしてしまっていた。
目が覚めたのは新幹線のアナウンスがあったから。大宮に到着するとかなんとか。
大宮といえば埼玉だけれど、埼玉県にはいくつかの大きなドームがある。スポーツ用のものもあれば歌劇のために作られたものもあり、劇場なんかもあるからその幅は広い。かく言うあたしも大宮の大きな会場で歌劇したりイベントに出演したりしたことがある。大きなステージに立つのは今でも緊張するので、そういうときは恋人の姿を思い浮かべるに限る。
今もほら、すぐ安心。さすが郁弥さん。愛してるわ。
「ふぁ……はふぅ」
意図せずあくびが出てしまった。
隣にいるのが恋人とはいえ、はしたなさを見せるのは嫌なので急ぎ口を手で押さえる。右手はお手本カップルのように指を絡ませてしまっているので、使ったのは左手。今さらながら、寝ている間も手は繋いだままになっていたらしい。
ほんのり手汗が滲んでいるような感覚もするけれど、気づかなかったことにした。
だって、あたしじゃなくて郁弥さんのかもしれないでしょう?別にどっちでもいいけどね。
「おはよう」
「ひぅっ!あ、お、おはよう!」
「うん、おはよう」
起き抜けにぽわーっと微笑んできた。癒しオーラがすごい。
いきなり声をかけられて驚いちゃった。驚かすの禁止って言ったのに……。でも、よく考えなくても郁弥さんが起きていて当たり前って感じ。大宮までそんな時間は経ってないし、あたしが起きて身じろぎした時点で起きていた可能性もあるし、あたしの意識がはっきりするまで待っていたって考えると納得がいくし。
「郁弥さんずっと起きてた?」
「うん」
「あたしの寝顔とか見た?」
「ううん」
"腕が動かせないから"と言ってあたしの寝顔は見られなかったらしい。少し残念そうにしていた。
ちょっぴりほっとする部分と、別に寝顔くらいいくらでもと思う部分がある。
そもそもの話をすると、寝顔なんて既にたくさん見られてきているから今さらともなる。ただ、そこはあたしの羞恥心とかがかかわってくるのでなんとも言えない。
「でも、寝息はよく聞こえてきたよ」
「っ!?」
「わ、叩かないでよ」
とんでも発言を聞いてぽかぽかと彼の左半身を叩いた。
驚いた様子はなく、きゅっと簡単に両手を掴まれた。ついでに指の隙間を埋められて両手での恋人繋ぎをされてしまう。
まださっきの恥ずかしさは残っているのに、今度は幸せ混じりの羞恥が襲ってくる。わーわーと叫びたくなる気持ちを抑えて、ぎゅぅっと彼の身体に抱きついた。
「ふふ、今度は何をご所望かな?」
「ちゃんとぎゅっとして」
「はいはい任せて」
ついつい即答してしまったあたしを責められる人はいないはず。
好きな人に抱きついて、抱きしめ返してくれるのを待っている状態で、それで"どんなお願い"かなんて聞かれたらもう……不可抗力ってやつよ。
そのまま数分かそこらか。新幹線が大宮駅に入るまでの間ずっと抱きしめ合っていた。
とんだ甘々カップルだと思われたかもしれないわ。謝らないけど。
気分は落ち着き、代わりにちょっとしたドキドキ感が大きくなり、なんとなくで彼に聞いてみることにした。至福の体温を手放し、普通に隣に座った体勢で問いかける。
「さっきの寝息ってどんなだった?うるさくなかった?汚くなかった?郁弥さんは好き?嫌い?いびき、ではなかったと思うけど、どうだったの?」
「あー、えっと質問が多いね。ゆっくり話そう。それとも」
「それとも……な、なに?く、唇で塞がれたい?とか言うのかしら?」
「ふさがれたいの?」
動揺してしまった。というより最初から動揺していたんだけどね。だってほら、寝息聞かれるって結構変な感じじゃない?あんまりうるさかったらやだし、これから一緒に寝る機会(変な意味じゃなくて)も増えると考えたら、寝息も好きになってもらえるくらいじゃないとやだっていうか――。
「――少し深呼吸をさせてもらうわね」
「うん?うん」
返事を聞く前に目を閉じて深く息を吸い込む――直前に、ぎゅっと身体を引き寄せられてハグされた。
呼吸をすることには変わりないので、そのまま息を吸い込むと郁弥さんの匂いが肺を満たした。柔軟剤の香りだけじゃなく、彼特有の甘みを含んだ体臭。とても心地が良く、安心する匂い。
「ふ、ふふふっ」
「……むぅ」
顔を離せば悪戯っぽい表情を見せる恋人さんがいる。釈然としない。
深呼吸させてって言ったから、もっと動揺させようかとか思ったんでしょうね。でも残念。あたしにあなたの匂いはもう効かないわよ。
好きな人の好きな匂いでリラックスするのはよくあることって聞いたわ。つまりあたしと郁弥さんは相性抜群ってこと。あ、逆に郁弥さんがあたしの匂いを好きかどうかを考えなくちゃいけなくなったじゃない。よし聞くわよ。即実行は大事なんだから。
「ちょっと顔貸してもらえる?」
「え?いや遠慮させて」
「はいだめー」
「わぷ……っぬぉ」
彼の頭を胸元に抱き寄せる。抗議の声は文字通り塞がせてもらった。
「どんな感じ?良い匂いする?」
「……ど、どうって言われても」
聞いてみれば歯切れの悪い答えが返ってくる。顔を上げるまではいいものの、その顔は真っ赤だし目も合わせてくれない。
「感想でいいのよ?郁弥さんならあたしの匂いくらい大好きで仕方ないと思うけど、でもほら、言葉にしてもらうのって大事でしょう?」
「いやまあ……そうなんだけどさ」
ひどく居心地悪そうな雰囲気な恋人さん。いったい何がなんなのかと首を傾げていたら、彼の方から先に教えてくれた。
「感想ってとりあえず、柔らかい、かな」
「柔らか――そ、そういうことは早く言ってほしいわ!」
「わむぅ!?」
「わあ!いきなり大胆過ぎるわよ!ばか!」
「それは僕のセリフなんだけど!?」
あたしが!あたしが郁弥さんの顔を胸元に押し付けていたとかいう理解しがたい事実があった。それに驚いたせいでまたぎゅっと胸に押し付けるはめになった。
一度ならず二度までも。べ、別にいいんだけどね。
"そういう"ことはあんまり意識してこなかったし、あたしの胸なんて小さいから全然気にしてなかったから驚いちゃっただけだし。何がどうなって恋人の顔を自分の胸に押し付けるなんてラブコメディーみたいな展開になったのかは意味わかんないけど。
「そ、それで?匂いはどうだった?」
「え?いや……どうなんだろう」
「好きなの?嫌いなの?」
「そりゃ好きだよ。ただ柔らかい印象の方が大きくて」
「ぐ、好きならいいのよ好きなら。もういいわ。このお話終わり!それよりほら、次はどこなの?次の駅!」
「おっけー、ええと、次は福島だね」
これ以上墓穴を掘るわけにもいかないので、ぱぱっと話を流してしまう。話し相手はあたしの恋人郁弥さんなので、笑顔であたしについてきてくれた。もう終わった話でも、まだちょっぴり顔が熱いのはそれだけ大胆なことをしてしまったという証拠なのかもしれない。
「日結花ちゃん」
「なに?」
あたしも携帯を取り出して新幹線の進路や到着時間を調べようと――したところでお隣から声がかかった。
「僕、日結花ちゃんの全部が好きだからね」
「……わかってるわよ。あたしも――」
とても穏やかな声色で言われ、彼に目を合わせて同じような声色で言葉を返す。
「あたしも大好きなんだから、ばか」
捻くれた言い方になってしまったけれど、彼の瞳にはきっと桜に色づいたあたしの笑顔が映っていたと思う。
それに、あたしのお返しを聞いて郁弥さんも笑顔いっぱいな顔を見せてくれたから。だからいいの。ちゃんと"好き"って言葉が伝わったから、あたしたちはこれでいい。あたしと郁弥さんほど心から通じ合っている関係なんて、他にないんだから。
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