第36話 別離の言葉
翌日午後六時。浩輔は真白の呼び出しに応じ、屋上に向かった。重い足で階段を上り、屋上に出る鉄の扉を開けると真白は既にそこに居た。扉を開ける音で浩輔が来た事に気付いた真白は伏せていた顔を上げ、ゆっくりと浩輔に歩み寄った。
「稲葉さん、お待たせ。昨日はごめんね、変な事言っちゃって」
いくら後悔しても一度口から出てしまった言葉は戻せない。だからせめて謝ろうと思った浩輔の耳に届いたのは絶望的な真白の言葉だった。
「浩輔先輩……私達、別れた方が良いんじゃありませんか?」
嫌な予感は的中してしまった。呆然と立ちつくす浩輔に真白は寂しそうな目をして言葉を続けた。
「だって……浩輔先輩、気が付いてました? 私、浩輔先輩から『好きだ』って言ってもらった事、無いんですよね」
言われてみれば確かにそうだ。『ボクと付き合って下さい』から始まって、『可愛い』とか『彼女』とかいう言葉は何度も口にしているが、『好きだ』『愛してる』と言った事は一度も無かった。
「それに、手は繋いだけど、抱き締めてもらった事もありませんよね……」
プールで真白にアクシデントとは言え、後ろから抱き着かれた事はあっても、浩輔が自分の意志で真白を抱き締めた事も確かに無い。もちろん浩輔は何度も真白を抱き締めたい衝動に駆られた事はある。浩輔はそれを理性で抑えてきたのだ。しかしあの時、浩輔は思わず茜を抱き締めてしまった。
「稲葉さん……」
掠れる様な声で言う浩輔に真白は悲しそうに言った。
「浩輔先輩、私の事、いつまでも名前じゃ無くって苗字で呼びますよね、『稲葉さん』って。私が前に居ても、浩輔先輩の心には稲葉は稲葉でも茜ちゃんが居るんじゃないですか?」
「そ、そんな事……」
否定しようとした浩輔の言葉は真白の言葉によって遮られた。
「女の子の勘って鋭いんですよ。まあ、茜ちゃんが相手ならしょうがないですけどね」
真白は寂しそうに笑った後、少し嬉しそうな声で言った。
「私、浩輔先輩の話を聞いて考えたんです。茜ちゃんがそこまで私の事、考えてくれてるんだなぁって」
茜の心だけは真白に届けられた様だ。少しほっとした浩輔に真白は晴々した顔で驚くべき話を打ち明けた。
「それでね、お父さんに言ったんです。その社長さんの息子さんとお会いさせて欲しいって」
浩輔は言葉を完全に失った。真白がお見合いに応じると言い出したのだ。だが、真白はそれをお見合いとしてでは無く、出会いの一つの形として考えたらしい。楽しそうな顔で自分の考えている事を説明し出した。
「だって、どうせ会うなら早い方が良いじゃないですか。それで、学生のうちにその人としっかり恋愛して……幸せな結婚が出来たら良いなって。政略結婚なんかじゃ無くって」
それはあくまで真白の考え。どんな人が真白の相手になるかは定かでは無い。心配そうな顔の浩輔を安心させる様に真白は言う。
「大丈夫、きっと素敵な人もいらっしゃいますよ……浩輔先輩なんかよりずっと……」
真白は茶化す様に言うと、悪戯っぽい笑顔を見せた。
「だから、安心して下さい。それでね、茜ちゃんと浩輔先輩と私と私の旦那様の四人でどこかに遊びに行ったり、子供が出来たら家族ぐるみで……」
だが、ここで言葉が詰まった。やはり真白も無理をしているのだろう。なにしろ短い期間とは言え初めて出来た彼氏である浩輔に別れを告げているのだ。真白の目から涙が一筋流れた。しかし真白は頑張って笑顔を作り、決定的な言葉を口にした。
「だから、茜ちゃんを幸せにしてあげて下さいね」
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