第4話 稲葉茜
柔らかい手が浩輔の目を覆い隠し、良い匂いに包まれる。
「だ~れだ?」
声と共に甘い息が耳に吹きかけられる。
もちろん茜の仕業であろうことはすぐに解った。それは茜がよく取る行動の一つだからだ。しかし、いつもと何かが違う。何がいつもと違うのか? 浩輔の背中に柔らかい感触が。茜は浩輔の背中に胸をぐいぐい押し付けてきているのだった。
「い、稲葉さん?」
背中の感触にドキドキしながら答える浩輔。耳元でまた甘い息と共に囁く様な声。
「正解」
茜は浩輔の目から手を外し、振り返らせると顔を胸に抱き締めた。柔らかな胸に顔を埋められ、浩輔の頭の中は真っ白になった。
――ここまでの事をするなんて、やっぱり稲葉さん、ボクの事が好きなんだ。なら、男としてそれに応えなきゃ。ボクは肉食の狼になるんだ――
浩輔は覚悟を決めた。茜の肩に手をやり、胸から逃れると自分の顔を茜の顔の高さに合わせる。目と目が合って浩輔は茜の目が潤んでいるのに気付いた。
「稲葉さん……」
浩輔が囁くと、茜は目を閉じた。二人の顔が近付き、唇が触れる直前に電子音が鳴り響いた。もちろん始業のベルなどでは無い。お約束の目覚まし時計の音だ。
「………………」
無言で上体を起こした浩輔は深く溜め息を吐くと頭をボリボリ掻きながらベッドから立ち上がり、カーテンを開けた。
「良い天気だなぁ」
窓の外には爽やかな五月の空が広がっていた。空は青かったが、浩輔はさっきの夢を思い出して真っ赤になった。
――……稲葉さんに会ったらどんな顔すれば良いんだろう……――
もちろん浩輔がそんな夢を見た事など茜は知る由も無い。年頃の男子特有の独りよがりな無意味なお悩みと言うヤツだ。
*
「おはよう」
浩輔が学校に着き、教室に入ると、背後から良い匂いと共に目を塞ぐ柔らかい手。そして甘い息が耳をくすぐる。
「だ~れだ?」
夢と同じ展開だ。しかし、当然の事ながら胸が背中に押し付けられる事など無く、正解した浩輔が茜の胸に顔を埋められる事もある筈が無かった。
「なあなあ浩輔」
授業中にも関わらず後ろの席の郁雄が小声で話しかけてきた。
「やっぱお前、稲葉のペットになった方が良いんじゃねえの?」
「何て事を言い出すんだよ。ボクはそういうのじゃなくって、普通の恋愛がしたいんだよ」
郁雄はせっかく茜が浩輔を気に入っているのにもったいないと言うが、浩輔にも男としてのプライドがある。愛玩されるのはご免だと言う浩輔に対し、郁雄の口から本音が出された。
「稲葉って、客観的に見たらすっげー美人だよな。それに勉強も運動も出来る。お前の事、羨ましがってるヤツだって結構いるみたいだぜ」
「それはボクの立場になってないからだよ。女の子みたいな顔だからって男子扱いされずに弄ばれるボクの気持ちなんてわからないだろ?」
郁雄は浩輔とは正反対で、筋肉質で背が高く、男前とは言い難いが男らしい顔つきをしている。そんな郁雄がしみじみと言った。
「美少年ならではの悩みってヤツか。俺には一生わからないだろうな。正直、羨ましいんだがなぁ」
「郁雄までそんな事言うの!?」
思わず声を上げてしまった浩輔に先生の声が飛んだ。
「そこ、うるさい!」
先生に怒られた二人。そして数分後、授業終了のベルが鳴った。
*
「さっきは悪かったな」
「うん、もう気にしてないよ」
素直に詫びる郁雄と、それを笑って許す浩輔。美少年と肉体派、対極にいる二人なのに実に仲の良い二人が話していると、信弘がニヤニヤしながらやってきた。
「お前ら、授業中に何をヒソヒソ話してんだよ。昨日の反省会か?」
「うっせーな、お前は結局一回も声かけて無いくせによ」
信弘に毒づく郁雄に浩輔は『郁雄も一回しか声をかけてないくせに』と思ったが、面倒臭くなりそうだったので口には出さなかった。すると信弘は郁雄にいけしゃあしゃあと言い返した。
「おお、そうだったな。俺の見事な会話術を披露できなくて残念だったぜ」
「どの口が言ってんだよ。じゃあ、次はお前が声かけろよな」
ぶん殴ってやろうかと思いながら言う郁雄に信弘は意外な言葉を返した。
「おう、任せとけ」
「えっ?」
意表を突かれて戸惑う二人に信弘はきっぱり言い切った。
「俺なりに研究したからな。まあ、次は俺に任せとけよ」
どういう訳か自信有り気な信弘。彼にいったい何があったというのか? 昨日振られまくった浩輔と一撃で轟沈した郁雄を見て何か掴んだのか? それとも信弘はそもそも天性のナンパ師で、昨日は二人を試していたとでも言うのか?
すると、茜が浩輔達のところへやってきた。
「あんまりソイツに期待しない方が良いぞ」
茜は冷めた声で言うと、一冊の本を机の上に投げ捨てる様に置いた。
「うわあぁっ、稲葉、お前なんでこの本を!?」
「いや、授業中、信弘が熱心に何やら読んでいるのが気になってな。椅子の上に落ちていたものだからわざわざけけに来てやったんだ」
茜の席は信弘の席の斜め後ろだ。授業中、信弘が熱心に机に向かう不自然な姿が気になって、休み時間に信弘が席を立った後様子を見に行ったところ、信弘が机に突っ込んでおいた筈の本が既にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた教科書やら漫画やらに押し戻されて椅子の上に落ちていたらしい。
ちなみにその本の表紙にはタイトルがでかでかと書いてあった。
『ナンパABC~Z これで君も彼女持ち。さらば寂しい日々よ』
「努力する姿勢は評価出来るが、女心はそんな単純なモノでは無い。まあ、頑張ってみるんだな」
茜はニヤリと笑うと浩輔達に背中を向けた。普通、女子にこんな事を言われたら悪態の一つも言い返すだろうが、勉強・スポーツ共に優秀な美少女の茜に言われると返す言葉が無い。思わず下を向いてしまう信弘。そして、茜は数歩歩くと振り向いて言った。
「浩輔には私が居るというのに」
「だからボクはペットじゃ……」
真っ赤になって言い返そうとする浩輔に茜は笑いながら背を向けて言った。
「はっはっはっ、そういう所が可愛いな」
一連の騒動を見て、一部の男子生徒がブツブツ言い出した。
「何で浩輔ばっかり……」
「仕方無いだろ、アイツ、顔は可愛いからな」
「けっ、女みたいな顔しやがってよ」
「ああ、茜さん、俺にも構って欲しい……」
郁雄の言う通り、浩輔を羨む者は確かに存在したのだ。しかし、幸いな事にそれをやっかんで浩輔に悪さをする者は居なかった。それは浩輔が女の子達から恋愛対象では無く、愛玩動物として見られているという事実の裏付けにほかならなかった。
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