生きる力


「暗いなぁ、シェルターの中は」


 独り言をつぶやく。


 誰も聞いていない。


 というより、ここにいるのは旦那一人だ。


 ぺたりとそのまま床に横になる。


 そして目を閉じる。


「……寝れない」


 思考だけが、ぐるぐると頭の中で回り続ける。


 一人きりになったのは、地獄に堕ちてから初めてだった。


 ゆえに、今まで無視してきた不安やストレスが急に自分の心に浮かび上がってきた。


――諦めた方がいい。こんなことばかり続けても何にもならない


 旦那は小さな声で、自分の目的を言葉にする。


「私はリョコウバトさんと一緒に、元の世界に帰るんだ」


――そんなこと出来るわけない


「江口や裕也くんが私を信じて、送り出してくれたんだ。二人の思いを裏切るわけにはいかない」


――悪魔の力を見ただろ。あんな奴らがわざわざ煉獄まで登って、私たちを殺そうとしている。


――二人には悪いけど、初めから無理の押し付けだったんだ。


「ハト丸とハト音が待っているんだ」


――二人ともすでに赤ちゃんじゃないんだ。二人なら私など居らずとも十分に生きていける。現世に残る理由にはならない。


――分かっているだろ。私がリョコウバトさんや颯真さんの足を引っ張っているだけということに。


――ならば最初から現世に生き返ることなんて諦めた方がいい。


 旦那の内側に潜む理性の声。


 分不相応の望みは捨てて、もっと楽に生きろ<死ね>と旦那自身にうそぶく。


「生きるんだよ。リョコウバトさんと一緒に」


――死んだ方がいい。私はリョコウバトさんのために、孤独の死を選ぶべきだ。


――その方がいいに決まってる。


――考えてみろ。


「やめろ」


――アスモデウスの中で江口と裕也君と再会したとき、私は二人を見捨てたよな


「あれはもう助かりようが無かった」


――もしリョコウバトさんがアスモデウスに喰われた時、私はどうする?


――私は同じ言い訳を理由に、最愛の妻すら見捨てるんだよな


「やめてくれ」


 強がりだけで言い返せるものではなかった。


 理性的な自分の語りは、あまりに合理的で正論だった。


 リョコウバトさんを生かすのであれば、足手まといの自分が消えることが正しい。


 そして自分自身が死ぬことよりも、リョコウバトが死んでしまうことの方に恐怖を感じていた。


 旦那は頭を抱え、胎児のように体を丸める。


 自分の体が引き裂かれるほどに相反する意思が、頭の中の内側で、ぐるぐると渦巻き続けた。


***


「あなた。ただいま」


 リョコウバトがシェルターの中に入ってきた。


 どうやら外のセルリアンは倒し終わった様子だ。


「お帰り。リョコウバトさん」


 旦那は普段通りの挨拶を返す。


「ねぇ、あなた?」


「何?」


「何か、悔やんでいまして?」


 リョコウバトは旦那に尋ねた。


 リョコウバトは旦那の、ほんの少し見せた悲しみの表情を見逃さない。


「アハハ……やっぱりリョコウバトさんには敵わないな」


 力ない、乾いた笑い声だった。


――『何か本音があるなら、早めに相談した方がいいよー』


 数時間前の、フェネックの言葉が脳裏に浮かんだ。


「……リョコウバトさん」


 旦那は、自分が隠そうとしてきたその胸の内を、吐露した。


「辛くて、怖くて、悲しいんだ」


 旦那の心は悲鳴を上げていた。


「自分が無力なばっかりに、江口と裕也くんは助からなかった。何も出来ないまま、ただ奪われることが、こんなに怖いことだなんて知らなかった」


 旦那は精一杯、家族を支えていた。


 仕事で働いて、家事を手伝って。


 妻子と苦楽を共にした。


 どこにでもいるただの人で、良き夫だった。


 これが、幸せな人生そのものなのだろうか?


 間違いである。


 それは単なる偽物の幸せでしかない。


 例えば、家に強盗が押し入った時、何も出来ないまま子供が殺されたら?


 例えば、災害が起きた時、冷静な判断と行動が出来ないまま、家族の生命に危機及ぶ事態になったなら?


 幸せな日常は、常に不幸と隣り合わせだ。


 旦那は、そんな当たり前の事を、言葉だけでしか知らなかったことに絶望する。


「私は、誰かを守れる力が欲しい。颯真さんみたいにどんな敵にも臆せず、果敢に戦う勇者の様な力が欲しいんだ」


 旦那は願う。


 【力】を。


 これ以上、何も奪われないために。


「この世界では、人を助ける勇気や、平和を思う心なんて幻想は、なんの役にも立たないんだ。だから力が必要なんだ……もしそれが叶わないなら、私は……」


 旦那の悲しみが湧きあふれ、止まらなくなる。


 リョコウバトは静かに目を閉じた後、優しく語りかけた。


「あなたが望む力よりも大きな力を、あなたは初めから持っていますわ」


「え……?」


 そう言ってリョコウバトは旦那の胸板に優しく触れた。


「ここに」


 リョコウバトの手のぬくもりが、胸にぽかぽか広がる。


「ドクン、ドクンと心臓が鳴った数だけ、小さな幸せ、小さな不幸を積み重ねてきました。あなたの人生も、私の人生も同じように」


 旦那はこれまでの人生を振り返る。


 良いこともあれば、嫌なこともある。


 良くも悪くも平凡だ。


 だが、無価値だったかと言えば、そんなことは決して無い。


「こんな素晴らしい人生が送れたのも、生きる力が、私達を巡り合わせてくださったからですわ。あなたの生きる力、私の生きる力、ハト丸とハト音の生きる力、お父さん達の生きる力――あなたは決して無力なんかじゃない」


 旦那は反射的に、それは運がいいだけだったと言いそうになる。


 それを言わなかったのは、リョコウバトの【お父さん】達がどうなっているのかを知っていたからだ。


――『例え、死後の世界であっても、私達の仲間達は旅を続ける!!』


 仲間たちがすべて無残に殺されて、それでもなおリョコウバトの父は、リョコウバトに生きる力を託した。


 リョコウバトは復讐心を手放し、生きた。


 その結果、ハト丸とハト音が生まれ、平穏に暮らせる世界があった。


 それは決して、運がいいだけでは説明できない、生きる力の巡り合わせだった。


「この世に同じ命、同じ人生、同じ幸せはありませんわ。ならば、生きることに何の迷いがございますか? ……あなたの力を信じてください」


「ああ……そうだよな……」


 旦那は気づかされる。


 力を欲したのは、無力で誰も守れない自分を、生きる価値が無いと思い込んでいたからだ。


 生きるのは怖い。


 大切な伴侶であるリョコウバトの命がかかっているなら、なおさら。


 しかし、それでも旦那はリョコウバトとの暮らしを望んだ。


 そしてリョコウバトも、旦那との暮らしを望んでいた。


 ならばこんなところで怯えてる時間なんて無いはずだ、と旦那は決意を新たにする。


 自分の胸に触れたリョコウバトの手を、握り返そうとして――


――おいおい、【僕】の話を聞いてなかったのかい?


 旦那は、ピタリと動きを止める。


――無力と非力は別物だろ


「ぬ……ぐ……!」


 旦那は頭を抱えて、膝から崩れた。


「あなた……!?」


 リョコウバトは、心配そうに声をかけたものの、旦那には聞こえてなかった。


――さあ、本物の【力】が私<お前>を待っているよ。


――もっと貪欲になろうよ。


――自覚してるんだろ?


――みんな甘い言葉で優しいふりをしてるだけってことに。


――私<お前>が弱いことなんて、みんな知ってるもんな。


――私<お前>は、本当は、誰からも見下されてるんだ。


 突然、旦那は起き上がる。


 息は荒く、目が血走っていた。


「それだけじゃ、そんな力じゃ足りないんだ!!」


 そして旦那は、リョコウバトに向かって叫んだ。


「たとえ心臓の音が鳴り響いたところで、平和の鐘は絶対に鳴るわけないだろ!!」


(何か様子が?)


 リョコウバトは、旦那の異常さに気づく。


「全部嫌いだ……何もかも……私には……何一つ……」


 下を向いて、旦那はぶつぶつ呟く。


 その言葉はリョコウバトにとって、要領を得ないものだった。


「そ、そうだ! 彼から力を貰えば、何か分かるかも……! い、行かなくちゃ……早く……」


「あなた! 待って!」


「リョコウバトさんは、待ってて、今、から、僕が、強くなる、から」


 まるで日本語が発音できてない。


 旦那が別人に豹変しているかのようだった。


(僕…? 今、そう言いましたの……?)


「アハハ、ハッハハ、行かなきゃ、行ってきます……」


 旦那はそう言って、シェルターの外へ走り出した。


「お待ちなさい!」


 リョコウバトもシェルターの外に走り出す。


 だが、旦那の移動速度は異様に早く、すぐに見失ってしまった。


(今からでも追いかけなくては……嫌な予感がしますわ)


 リョコウバトは旦那を探しに、木々の中へ入っていくのだった。


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