残酷のアスモデウス 2
アスモデウスはリョコウバト夫妻を狙いに来た。
「逃げますわよ!」
リョコウバト夫妻は即座に逃げ出す。
下手に戦って勝てる相手では無いからだ。
「私の獲物なんだから食べられてよー」
アスモデウスは飛ぶ。
そして旦那の背中にその手を近づけようとした。
「手羽先チョップ!」
アスモデウスの手から旦那を守る。
「リョコウバトさん!」
「あなたは先に逃げてください!」
「おやおや、仲良しだね〜」
旦那はもはや足手まといなのは目に見えていた。
旦那は足を止めずに逃げる。
そして、アスモデウスの前にリョコウバトが立ちふさがる。
リョコウバトはアスモデウスに、一歩も引かず目を合わせた。
「レイイエルー、あの逃げた男を追ってー……あれ?」
アスモデウスはレイイエルに命令したが、動かない。
その命令だけは聞けない――そうレイイエルは言ってるかのようだった。
なぜ洗脳されてなお、アスモデウスの命令を聞かないのか――?
人を守るのが天使の使命だからなのか、レイイエルがレイイエルであるが故なのかは、誰にも分からなかった。
(ちぇ、天使の役立たず)
アスモデウスは仕方なく、自分の目の前にいるリョコウバトに向かって蹴りつけた。
アスモデウスの足が、リョコウバトの首を薙ぎ払うように軌跡を描いた。
「ッ!!」
リョコウバトの頬から鮮血がほとばしる。
「あれ、避けられた?」
確かにリョコウバトはアスモデウスの蹴りを避けた。
しかし、それはただ致命傷を避けただけにほかならない。
リョコウバトの背筋は凍っていた。
――まともに戦えば死ぬ
しかし、リョコウバトは立ち向かう。
最悪、旦那が逃げ延びるまでは、死ぬわけにはいかない。
リョコウバトは距離を取りつつ、アスモデウスを通すまいと、アスモデウスのその目をにらみ続けた。
(このリョコウバトをそのまま倒すのは苦じゃないけどさー。旦那に逃げられるのは嫌だね〜)
アスモデウスは、リョコウバトが戦闘態勢を解かないことに対して、正直困っていた。
アスモデウスは第二圏に落ちた者を食べることこそが目的であるからだ。
(……ああそうだ)
にやりと、アスモデウスは笑った。
だったら相手のスキを突けばいい。
アスモデウスは相手を洗脳する力を持っているが、人ごときが相手なら、言葉でも誘導できる出来る自信があった。
「正直、私は怒ってるんだよ。君達夫婦に、さんざん食事の邪魔をされたからね」
言葉とは裏腹に、声に怒気はこもってなかった。
「第二圏でたくさんの人たちを逃してくれちゃったせいで、わざわざその人達を追いかける羽目になったんだよ〜」
「……」
リョコウバトは押し黙る。
しかし、逃げていた旦那はついその言葉を聞いてしまう。
(私達が逃した人を――追いかけた、だって?)
二人の予感は的中することになる。
「だから私は辺境までやってきてさ、君たちが助けた人たち、み〜んな食べちゃったんだ〜」
「なっ――!」
旦那は激しく狼狽した。
「もちろん君たちの知り合いはみんな食べたよ。江口はもちろんのことだけどさ、優也くんって子どもも食べたよ。この子はちょー厄介でね〜。たくさんの人達を引き連れてちょこまか逃げ回ってたけど、最後は諦めて私に食べられてくれたんだよ……。でもさー」
アスモデウスは、がっかりした顔で言った。
「ちょー激まずだったんだよねこの子。白い魂でさ、現世でも善人だったんだろうね、本当に外れ引いたな―って感じ」
旦那は足を止め、アスモデウスに顔を向ける。
顔から激情がにじみ出ていた。
(よしよし。後は二人まとめて食べれば――)
「それがどうかしましたか?」
リョコウバトははっきりと、アスモデウスにそう告げた。
「は――?」
「そもそも、あなた達悪魔はまずいと分かっているにも関わらず、そんなまずいご飯を食べなくちゃいけないなんてとても可愛そうですわ! ――わざわざ子供と追いかけっこしてまで、必死過ぎではないでしょうか?」
アスモデウスの目に、怒りの感情が見て取れた。
「はっきり言ってさ―あんたうざいよー。………………………………さっさと消してやるよ!!!!!!!!」
アスモデウスの態度が豹変した。
アスモデウスの体から、強大な力が溢れ出る。
それは地球上に存在するあらゆる生命体すらも超える力。
これぞ悪魔、人間に勝つすべはもはや存在しない――。
がしかし――
「スキだらけですわ! バトビィーーーーーーム!!」
「え?」
アスモデウスは完全に慢心していた。
怒りで頭がいっぱいになり、リョコウバトの奥の手を使わせるスキを晒していた。
アスモデウスがスキを晒すように、言葉で誘導してみせたリョコウバトの勝利だった。
「ぎゃ!」
アスモデウスはリョコウバトの口から放たれた光の中に消えていった。
***
「そんな……優也くんが……みんなが……」
旦那は意気消沈していた。
彼らが無事であることを信じて、夫婦は先に進むことを選んだ。
その結果がこれなのか、と旦那は後悔していた。
「あなた……」
リョコウバトは旦那の心中を察し、小さな声で旦那のことを口に出すだけだった。
(……まだ、リョコウバトさんがいるんだ。こんなところでまだ逃げ出すわけにはいかない……)
旦那は向けようのない怒りと恐怖を、必死にこらえた。
「……早く安全なところへ逃げ――」
「あなた!!」
リョコウバトは叫び、旦那を突き飛ばした。
ずぶり。
旦那は、人生で一度も聞いたこと無いような、嫌な音を聞いた。
この音は、リョコウバトの腹部を、アスモデウスの手が差し込んだ音のようだった。
旦那の目の前の光景には、倒したはずのアスモデウスがいた。
「君たち、さっきはよくもやってくれたねー」
アスモデウスは、自分の手をリョコウバトのお腹から抜き出した。
リョコウバトは地面に倒れ込む。
「リョコウバトさん!!」
旦那は駆け寄った。
リョコウバトをよく見ると、なぜかお腹にあるはずの外傷は無かった。
「リョコウバトさんは生きてるよー。彼女の意識をバラバラにしただけだから、寝てたらそのうちもとに戻るよ―」
アスモデウスはそういった後、アスモデウスが手に持っていたものを旦那に見せた。
「江口って奴が作った【姿を隠すお香】だよ。君たちが優也くんに預けたものだから返すねー」
お香が入った袋を旦那に投げつける。
旦那はショックのあまり、それを受け取れず、そのまま地面に落ちた。
どうやらアスモデウスは、このお香を使って自分の姿を隠し、ビームにやられたフリをして身を隠したようだ。
「あ……ああ……」
旦那は周囲を見回す。
アスモデウスに操られたレイイエル。
地面に転がってる江口と優也くんのお香。
そして倒れたリョコウバト。
おそらく逃げることすら絶望的。
自分たちを助けるものは、何も無かった。
「こ、このぉーーーー!!」
旦那は、やけくそになり、アスモデウスに殴りかかる。
旦那は力の限り、拳をアスモデウスに叩きつけようとしたが、その前に、アスモデウスの手が旦那の胸を貫いた。
「がはっ」
「へえ、私に立ち向かうなんて、すごい勇気だね」
アスモデウスは旦那を褒め称える。
「だったらー。その勇気を奪ってあげよう」
その瞬間、旦那の心は書き換えられた。
「ぎ……ああああああああああああああああーーーー!!」
人生で、全く感じたことがないレベルの、とてつもない痛みだった。
これは心を書き換えられる痛み。
人の世において、これを超える痛みは存在しないであろう痛みだ。
「がは――はぁっ! はぁっ!」
痛みは一瞬、しかし、植え付けられた恐怖は尋常ではない。
「ねえ、リョコウバトの旦那さん」
「ひぃ――!」
旦那は目の前の存在に怯え、震え上がっていた。
その姿を見て、アスモデウスは内心興奮していた。
(なんだか、すごい残酷なことを思いついちゃったかも)
「すっごく痛いよねー、これ」
アスモデウスは旦那に話し続ける。
「もっと同じことしてもいいんだよ。旦那さんが死ぬまで、何回耐えられるかなぁ?」
「い、イヤだ!! やめて!! やめてください!!」
旦那にとって、二度とそんな痛みはゴメンだった。
「いいよ。やめてあげる。旦那さんを殺さないであげるよ」
「――え?」
アスモデウスははっきりそういった。
「私の言うことを聞いたら、だけどね」
「……何をすれば……いいんですか……?」
旦那は恐る恐る尋ねた。
アスモデウスは、こう答えた。
「あそこにいる寝ているリョコウバトを殴ってよ。何度も何度も。動かなくなるまで。息の根が絶えるまで。――旦那さんのその手でリョコウバトを殺したら、君は殺さないよ」
旦那はうろたえた。
「そ、そんなのできるわけ――」
「だったら旦那さんは死ぬ」
アスモデウスはそう旦那に告げた。
「さっきよりも激しい痛みで死ぬ。私の与える痛みは、死ぬよりも痛いはずだよー」
アスモデウスは、旦那の体に手を入れ、その魂を一瞬なでた。
「ひぎっぃ!!!」
旦那は苦しみのあまり、のたうち回る。
「さあ、どうするかなぁ?」
「あ……ああ……」
旦那はフラフラと立ち上がる。
自分の体が動くのを、自分の意思で止めることは出来なかった。
「……ごめんなさい…………ごめんなさい……」
そうつぶやきながら、リョコウバトが横たわる場所まで、ゆっくり歩いた。
(いやだいやだ、痛いのはいやだ、死ぬのはいやだ、こわい、こわい、こわい――)
足を止めた。
足元にはリョコウバトさんがいる。
旦那は自分の妻の顔を見た。
静かに眠っていた。
いつも一緒に眠っていた頃を思い出す。
ずっときれいだって思いながら見つめていたのを思い出す。
「ごめんなさい……」
目から涙がいっぱいに溢れた。
あんなに幸せだったのに、どうしてこうなったのだろうか。
それでもアスモデウスには逆らえなかった。
あの痛みを思い出しただけでも、体が自分の言うことを効かなくなる。
本当はこんなことやりたくないのに。
旦那は、ゆっくりと、自分の右腕を上げ、拳をリョコウバトの顔に向けた。
その瞬間、リョコウバトが、旦那に語りかけたかのような、幻を見た。
――あなたになら、少し殴られたってちぃっとも構いませんわ!
――これまで私はあなたに、たくさんの幸せを頂いたのですから!
「うわああああああああああああああーーーーーーーーー!!!!!」
旦那は、その拳を打ち込んだ。
「――――――――――――は?」
旦那のその拳は、旦那の後ろに突っ立っていたアスモデウスの側頭部に叩きつけられていた。
アスモデウスは、愉悦で歪んでいた笑みが、冷めた無表情へと変わっていく。
「……家族のためなら、たったの一度や二度くらい――」
「死んで」
「死んだって構わない!!!!」
旦那はもう片方の腕で、アスモデウスの顔を殴りつけた――!
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