地獄巡り 愛欲の罪 2

 リョコウバトはすぐさま、岩陰の子供達の元に向かおうとした。


「だめだ。起こすんじゃない」


 江口は静かな声でそれを静止した。


「今は鎮静作用のあるお香でおとなしくなってる。今起こすと泣いて暴れかねない」

「……」


――こんな痛ましい姿を前にして!


 リョコウバトも旦那も歯がゆい気持ちだった。

 その気持ちを押さえつけ、リョコウバトはその言葉に従った。


「承知しましたわ」

「ああ、頼む」

「……江口さん」


 旦那は江口に言いました。


「江口さんは逃げろとおっしゃいましたね……? それよりまずはあの子達を手当てをしないと……そして逃げるならあなたも……!」

「……それはだめだ。俺をおいて逃げろ」

「なぜ!」

「キズぐすりの一つでもあれば、子供たちにましな治療ができたろうが……あるのは俺の商売道具だけだ。それに――」


 江口は洞窟の外を指差した。


「あれを見ろ。決して大声を挙げずにだ」

「……? あれは?」


 荒れ狂う暴風。

 地面にかじりつくように這いつくばる人々が点々と見える。


「ふっふふーん。らんらん」


 その中においてなお、何事もなく平然と歩く人影が見えた。

 風が強いため、リョコウバト達からは何を言ってるのか聞こえないものの、小気味よく歌を口ずさんでいるようだった。

 そしてその人影は、地面にすがりつく人を見つけ、その近くまで歩いて近づいた。


 がしっ


 人影は、その人の首筋を掴み上げた。

 そして掴んだ相手の胸の中に手を挿し込んだ。


「ぎぁぁぁぁ……」


 断末魔が洞窟にまで響いた。

 人影の手が胸から抜かれると、白っぽい玉を掴んでいた。


「あれは……何を……」

「しっ」


 旦那は恐怖で言葉が震えていた。

 江口に指摘され、自分の手で口を塞いだ。


 人影は白っぽい玉を、そのまま口に放り込んだ。

 そしてもう一方の片手に握っていた人をクズゴミのように放り投げた。

 投げられた人はまるで死んだかのように無抵抗のまま風に流された。



◆◆◆



「あれは一体……?」

「わかんねぇ。とにかくあいつと遭遇しないように逃げてきた。どう見てもやつは危険だ」


 旦那もリョコウバトも同意見だった。


「あの禍々しい力、下手に戦えば負けてしまいますわ……」

「……じゃあみんなで逃げよう。江口さんも一緒に――」

「こんなけが人連れてか? 無理だね」


 江口は旦那を睨みつけた。


「逃げ続けてわかったが、やつはずっと俺を追いかけ続けている。時期にここも見つかるだろう……。このままだと全員見つかってしまう。――だから俺がここで囮になる」

「囮……? ここで死ぬってこと?」

「そういうことだ」

「……」


 旦那は黙り込んだ。

 迷っていたのだ。

 子供たち含めた全員の命と、目の前にいる江口という男の命を天秤に掛けて。


「なあ、なんのために俺が自分の罪をお前たちに伝えたと思う……。俺のことを容赦なく見捨ててもらうためだろうが」

「江口……」

「いいか、この地獄は狂ってる。この先何が待ってるか想像がつかない。一瞬の迷いが命取りにだってなる」

「……」


 この男の覚悟を聞き、二人は覚悟を決めた。


「分かりましたわ。あなたのその勇気だけは、尊敬しますわ」

「ああ、後のことは任せとけ」

「……ふっ」


 江口は安心したように微笑んだ。

 そして、あるものを旦那に手渡した。


「これは?」

「俺お手製のお香だ。一つは子供達に使った鎮静作用があるお香だ。そしてもう一つは姿隠しのお香だ。このお香の煙を嗅いだ者は視覚が狭まり対象を見つけにくくなる。この煙を自分の体に浴びさせることで、例の人影から逃げ延びながらえたんだ」

「お香って、そんな便利アイテムだったっけ……?」

「彼女に使うお香の研究過程で生まれた失敗作だよ」

「そうなんだ……」


 江口は時間がないと言って、お香の使い方を教えながら姿隠しのお香を旦那、リョコウバト、そして子供たちに使用した。


「さあ、お前たちはもういけ」

「……家に帰ったら線香ぐらいは立てにくるよ」

「はは! サンキューな」


 そうして、旦那とリョコウバトは、両手に持てるだけ子供たちを持ち上げてその場を後にした。



◆◆◆



「ふぅ、やっと見つけたよー」


 ――黒い

 江口は目の前の相手に対してそういう印象を抱いた。

 素肌が黒いのを含めて、全身が黒ずくめだった。

 不思議なことに、動物の耳と尻尾がある。

 そして、ことさら特徴的なのは、右目そのものに魔法陣が描かれていることだった。


(これが地獄の悪魔ってやつか……)


 少しでも時間をかせぐために、江口は意を決して口を開いた。


「……おれになにか用事かい?」

「用事? ……それはね。君を食べたいから、君を求めてここまできたんだよ」


 食べる。

 これまでにこの悪魔が何人もの人間を抜け殻にした光景が、江口の脳裏をよぎった。


「だったら、ここに来るまでにたくさんの人間を食っただろうが」

「あー、あれはね。みんなハズレだったの」

「……ハズレ?」

「そ、最近はとてもまずい、【白】のハズレばっかりでさー。もう嫌になるよー。

 けど――」


 悪魔は江口を見て、にやりと微笑んだ。


「うんうん。君はどう見ても当たりだよ。かすかな気配を追ってきて正解だね」


 この悪魔がいう、当たりとハズレ。

 江口は当たりで、それ以外はハズレ。

 その違いが示すある事実を、江口は直感的に思い至った。


「君は悪人の――快楽に溺れて、誰かを弄んだ俺のようなやつの魂を喰らう悪魔なんだろ?!」

「そだよー」

「だったら、あの子供たちはなんだ!! あんな小さな子が、俺と同じ愛欲の罪だと?! 断じて有り得ない! こんなところにいていいはずがない!」


 江口は自身が秘めた正義の怒りを悪魔にぶつけた。

 しかし――


「それがどうかしたの?」

「な……?」

「ここにいる以上、全ての魂は私の餌だよ。老若男女問わず、だね」


 悪魔は唖然とする江口に尋ねた。


「その子どもたち、どこにいるのかなぁ? 教えて?」

「?!」

「ここに堕ちた以上、なるべく逃したくないし……なんか気配も曖昧で追いづらいし」


 どうやら例のお香は確実に効果があるようだった。

 だったら、俺がここで何も話さなければ、あいつらは逃げられる。

 江口はそう考えた。


「あーどうしようかなぁー! 言っちゃおうかなぁー!」


 わざとらしく悪態をついた江口に、悪魔は平手をかざした。


「言ってなかったね、私のなまえ」

「あ?」

「色欲の悪魔、アスモデウス。アイラブユーって言ってみ?」


――アスモデウスが命じたその瞬間、江口はアスモデウスを愛した。






「――ガッ、ああああああぁぁぁぁああ!!!!」






 これは心を無理やり捻じ曲げられた痛みだった。

 江口の感じた痛みは強烈だったものの、一瞬で引いてくれた。


「……アイラブユー」

「よしよし、いいこだね」


 従順になった江口に、再度アスモデウスは尋ねた。


「さあ、子どもたちはどこへ行ったのかなぁ?」

「こ……どもたち……は――」



◆◆◆



――この、裏切り者


 彼女のこの言葉を聞いたとき、俺は彼女との過ごした時間がどれほど大切な日々だったのかを思い知らされた。


 二人で語り合ったとき

 デートしたとき

 同じ部屋にいるだけのとき


 何気ない日々が脳裏をよぎるだけで、涙が出そうになる。


 なぜこんなことになってしまった?


 彼女と俺のお互いが積み重ねてきたすべてを裏切った結果が――

 誰かを自分の快楽の道具にすると、その人の心を傷つけてしまうことを知らなかった無知の結果が――


 俺の死、だったのだろう。


 ああ、たしかに彼女に告白した後、約束した覚えがあるな。


――ずっと一緒にいる


 俺がただ口にしただけの口説き文句を、お前は信じたのか。


 ……信じたんだろうな



◆◆◆



「――俺がいうか間抜け!」


 江口はアスモデウスに、中指をまっすぐ突き立てながら宣言した。


「は?」


 なぜ、洗脳が解けた?

 こんな男にそんな力が? ありえない。

 アスモデウスが困惑した。


「ならもう一度――」


 アスモデウスが江口にもう一度洗脳しようとした瞬間に、江口は自身の舌を噛み切った。


「~~~~!」


 口から血がこぼれ落ちる。

 しかし、その表情は勝ち誇っていた。

 ざまあみろ。これで子どもたちを守れる――









「…………………………上等だよ」


 アスモデウスはあまりの不快さから、目の前の男に対して殺意を向けた。

 一歩ずつゆっくりと、江口に近づいた。


(何をする気だ?)


 アスモデウスは江口の胸に手をねじ込んだ。


「がはっ!!」


 江口の口から、嗚咽が漏れた。

 そして、胸からアスモデウスの手が引き抜かれたとき、江口の体はまるで死んだかのように動かなくなった。


「やあ、魂だけになった気分はどうだい?」


 アスモデウスは黒い球体を手に握っていた。


「魂って、こ、これは!?」


 黒い球体――それは江口の魂だった。


「めんどくさいから、さっきので済ませたかったんだけどね。

――今度は直接、魂を汚染しようか」


 アスモデウスは江口の魂を指先で愛撫した。


「が、ぁぁぁぁぁ、あああああ、あああああああああああああああ!!」


 さきほどの洗脳とは、比べ物にならなかった。

 江口の意識はすべて、アスモデウスの意のままに作り変えられていく。

 本来なら人の心――突き通った信念はそう簡単には変わらない。

 だからこそ、それを容易に捻じ曲げ、へし折るのはまさしく悪魔の御業に他ならなかった。


「ふむふむ、リョコウバトとその旦那ってのがいるんだね。子どもたちはその二人にまかせてそっちの方向に行ったんだね」


 アスモデウスは魂から、記憶を直接読み取った。


「あ……あああ……」


 江口の魂の自我がバラバラに崩壊していく。

 守ろうとしたのに――あれ、何をだっけ?

 償いたいと思ったのに――あれ、何をだっけ?


「それにしても、いい色してるねー。やっぱり魂はこうじゃないとねー」


 アスモデウスは舌なめずりした。


「だ、だめ……いやだ……、死にたくない……」


 江口はもう、江口では無くなっていた。


「いただきまーす」


「だめ! 嫌だ! 死にたくない! 助けて! 助けて!! だれかたすけてぇーー!!」









――江口はそのまま、アスモデウスにパクリと食べられた。


「ああ、美味しかった……満足満足」


 アスモデウスは朗らかな表情だった。


「子どもたちとかリョコウバト達とかもいるけど、まあいいか、久しぶりの大当たりだったし、働きすぎはよくないからね。ちょっと休憩しようー」


 洞窟の中、アスモデウスは一人、寝息を立てるのだった。


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