蕭殺

 松の木がどっしりと構える中庭に、蛍がうち光って飛んでいる。仄暗い縁側でろうそく一本の灯りが揺れる。そこに寝転びて、わたしは杜宇吉に手紙を書いていた。杜宇吉にはもう暫く会えていないが、わたしと杜宇吉とで手紙のやりとりをしていた。淋しいとか愛しいとか、稚拙な感情が夜毎よごとに募っていった。


 貴方に逢いたい。


 無垢な雀斑の笑顔が、優しい瞳が、暖かい声音が、思い出されて止まない。杜宇吉の手紙には、普段の出来事、故郷の街のこと、それに加えていつもわたしを心配するような言葉があった。それも嬉しかった。



 香枝さんとお爺さまとの日常も相変わらず楽しいものだった。綴方や計算や英語の勉強をして、買い物に行ったり本を読んだり。このうちに来て、もうすぐ一年になる。これからも沖田邸で過ごしていくものなのだろうと思った。変わりばえのない長閑のどかな日常に、わたしはいつのまにか永遠に近い何かを錯覚していたのかもしれない。


 人生はドラマではない。


 なま優しい現実なんて、長くは続かないもの。わたしはそれを忘れていたのだ。甘えていたのだ。残暑の染みつくようなある日、わたしは聞いてしまった。それは、日常の崩壊の予兆だった。夜分遅く、体を悪くされたお爺さまに、香枝さんが医者にかかるのを勧めていたのだった。けれど、お爺さまはかたくなだった。やれ医者は嫌いだの、この程度すぐ治るだのと言って、しまいには黙り込んでしまった。お爺さまが最近妙に静かなのはお体を悪くされていたからなのだと思った。妙に静かというのは、話さないだけでなく、朝なかなか起きてこなかったり、書斎から出てこない日があったり、書斎にいらしたとしても、その部屋がやけに静かだったのである。


 冷や水をかけられたような気分だった。お父さまのときのように、手遅れになってしまったら。そう考えた途端、いてもたってもいられず書斎に飛び込んだ。お爺さまも香枝さんも、起きている筈のないわたしの青ざめた顔を見て驚いた。二人を見て思った、盗み聞きをしてしまったと。


「……雛乃、聞いていたのか」


「……ごめんなさいお爺さま。言い訳する心算つもりはありません。でも、わたしも香枝さんと同じ考えなの」


「私は此処を離れる心算はない」


「そうかたくなにならないでください。わたしはお爺さまが大切です」


 お爺さまはため息をついて目を逸らし、パイプを咥えた。香枝さんは押し黙っている。久しぶりに中に入った、鉄道模型がたくさん飾られた書斎にいやな沈黙が張り詰める。お爺さまは再び口を開き、低い声で


「部屋を出なさい。香枝、雛乃を寝かしつけておいてくれ」


「でもお爺さま……!」


 説得しようとするわたしを香枝さんはすっと制して、わたしの手を引いた。


「お爺さまはね」


 わたしの部屋で香枝さんが静かに話してくれる。


「雛乃さまと一緒に居たいんですよ。病院にかかるには、この田舎の山奥では都合が悪いので、列車で都会の、旦那様のお弟子さんの方のうちに身を置かせて貰うことになりますの。実際その方から、旦那様が心配だからと連絡が来ているの。そうでなくても、旦那様は最近お体が良くなさそうですから。……でもそうなると、やっぱり雛乃さまを連れてはいけませんから……」


「わたしはいいの。わたしみたいな子供が着いていけば、お爺さまを困らせてしまうかもしれないもの」


「そうではないの」


 香枝さんはわたしの頭をそっと撫でた。優しくて小さな手。


「旦那様は、私みたいな老人に雛乃を付き合わせてはならない、あの子の人生を、時間を無駄にしてはいけないと言うのよ」


 お爺さまは優しい。だからこそ、他の家でまた酷い目に遭おうとも医者にかかって欲しかった。


 わたしと香枝さんのしつこい程の説得の結果、お爺さまは山奥の家を手放して都会に、わたしはお爺さまたちと違う列車に乗ることになった。これで良かった。


 お爺さまには最後に切符とお金を持たされた。これから預かって貰う家の人に渡して養って貰うようにということだった。お爺さまはプラットホオムに来てもまだ苦い顔で口をぎゅっと結んでいた。


「お爺さま、きっと元気になってくださいな」


「……絶対に迎えに行く。待っていなさい」


 お爺さまはわたしの手に何かを握らせて鉄道に乗った。綺麗なくしだった。車窓から蕭殺たる山々の風景を望む。丁度沖田邸に初めて来たときのような、赤く染まった山と抜けるような青空が見えた。

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風車と花 時瀬青松 @Komane04

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