一章

故郷

 わたしを産んですぐ亡くなってしまった母さまの顔を、わたしは知らない。それでもわたしは淋しく無かった。父さまがいて、母さまの代わりに面倒を見てくれる、おみやという若い女中がいて、たまにわたしがみいさんと夕飯を作ると、仕事から帰ってきた父さまが嬉しそうに笑って食べてくれる。街から少し外れた郊外の小さな田舎町の小さな家で、わたしと父さまと宮さんの3人暮らしは決して裕福では無かったけれど、わたしは幸せだった。


 田んぼと山に囲まれた豊かな田舎で、幼なじみの杜宇吉とうきちとふたり、かえるを追いかけて捕まえたり、畑のすいかをこっそり盗み食いしてみたり、山に登って川魚を獲ったり。


 ある夏の日わたしは杜宇吉と川沿いの坂を下って、よく日の当たるすいか畑に行った。家からナタを持ってきて、背高草を掻き分けるとぴょんぴょん飛び出してくる羽虫を手で払いながらすいか畑に忍び込んで、両手に余る濃い色のすいかをひとつ、茎を切り取って走って逃げた。


「ひなのちゃん、ぼくが持つから寄越よこして」


 そう言う杜宇吉の細っこい腕にすいかを手渡すと、わたしとそう背の程も変わらない杜宇吉の体はすいかの重みでふらりと一瞬傾いたが、夏日に焼けた腕にぐっと力が入って持ち堪えた。十分大きく見えるすいかは、それでも畑にごろごろ転がるすいかの中では小さい。ナタの柄を左手に握って石垣に足を置いた瞬間、しゃがれた怒声が響いた。


「コラァ、クソガキども!」


 このすいか畑の持ち主の、下田のおじさんだった。わたしも杜宇吉も、驚きと焦りでぴしりと固まって、足を止め、顔を見合わせた。杜宇吉の雀斑そばかすの顔は真っ青だったが、たぶんわたしも同じ顔をしていると思った。恐る恐る後ろを振り向いた瞬間、頭に拳骨げんこつが落ちた。重くて硬くてゴツゴツした、仕事をする大人の無骨な手は痛い。おじさんの顔は怒っていて、杜宇吉は今にも泣きそうな顔をする。


「クソガキども、また悪戯しやがって……」


「ごめんなさい、」


「ごめんで済むかガキ。杜宇吉、雛乃、今日一日うちで働かせるからな」


 はいぃ……と杜宇吉は頼りなく肯く。うえ、とろこつに嫌な顔をするわたしにおじさんは、


「雛乃、返事」


 と、とがめる。わたしは仕方なく、


「ちぇ、はぁい……」


 とやる気なく返事した。


 ***


 雑草とりをしたりすいかを収穫したり、収穫したすいかを荷車に乗せて運んだり。着物はあっという間に土で汚れて、陽射しが暑く、慣れない作業に体も痛い。おじさんは容赦なくこきつかってくるが、不思議とそれは楽しかった。こんな田舎では畑も珍しくないが、わたしのうちは農家ではないので農作業はもの珍しく感じる。それが楽しいのかもしれない。最初はあまり乗り気では無かったのは否定できないけれど。


 おじさんは昼を過ぎた頃にわたしたちを自分のうちに連れて行って、ご飯を食べさせてくれた。そうめんだった。細くて冷たくて美味しかった。


 そうめんを食べ終わる頃、おじさんはわたしたちを縁側に放って台所に下がり、切ったすいかを白いお皿に載せて戻ってきた。


「もう悪戯しないって、約束できるな」


「うん!……ごめんなさい」


「ぼくも、もうしません、ごめんなさい」


 おじさんはわたしたちの頭をあの大きな手でぐしゃぐしゃに撫でた。


 川で冷やされていたそのすいかは、爽やかにひんやり甘くて、しゃくしゃくして、今まで食べたすいかの中で一番美味しいすいかだった。


 わたしも杜宇吉も、それ以来なんてしなかったけれど、子どものうちの、1番楽しかったあの時期の大切な思い出だった。

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