out story:???

 ダンジョン地下三十一階層、通称〝暗闇の階層〟は、静寂に包まれていた。


 少し前まで、ここはダンジョン内でも類を見ない激闘が繰り広げられていた。人外の怪物が闊歩し、人類を超越した力がいともたやすく振るわれ、人知を超えた技術によって自動修復されるダンジョンであっても、いまだ激闘の跡を残している。


 そんな激戦が繰り広げられた地に、蠢く影が一つ。


「ぐっ、ぐウぅぅぅ……オのれ、下等な雑種めガ……!」


 その姿は、子犬のように小さかった。全身を見ても棘はまばらに生え、獰猛さは微塵も感じられない。


 しかし、それでもその子犬は人知を超えた能力と生態を持つ怪物、グリゴリである。

 ただしその個体は、イリアスの〝禁じ手〟をまともに喰らって蒸発したグリゴリとは違う──いや、細胞の一つを見ても同一個体であるが、直接戦った個体とは違う。


 彼の怪物は群体である。無性生殖によって増殖する生物だ。グリゴリは母体となる犬型を本体とし、全身を覆う棘が本体から分裂したものとなる。

 そして、本体から千切れた棘は、しばらくすればグリゴリと同じように犬型となり、全身に棘を生やしていくだろう。


 言うなれば、このグレゴリはイリアスに滅ぼされた個体とは別種であり同種でもあった。


「よモや旧世代種にあノようナ個体が存在すルとは……。だが、しカし覚えタ」


 そして何より脅威なのは、分かたれた個体はそれだけで旧母体の弱点を克服する。それどころか身体的な強度、能力をも上回る。

 棘を生やし、その棘が抜ければより強化された個体となって成長する。グレゴリは、まさに常識で図ることのできない化物であった。


「まったく困ったものです」


 そこへ響く声。

 暗闇の階層と呼ばれるこの場所に、ランタンどころか松明の明かりも灯さず、仲間の姿もなく、たった一人で彼女は現れた。


「性懲りもなく、またこんなお人形を作って……片付ける身にもなってもらいたいですね」

「クハ……!」


 ふらりと単身で現れた人影に、グリゴリは格好の獲物を見つけたとばかりに口を歪めた。

 威嚇するでもなく、口上を述べるでもなく、問答無用でその身に生やす数少ない棘を伸ばした。


「あら、無粋」


 棘が突き刺さる──そう思えた瞬間、弾かれた。

 手には鋭い武器はなく、身にまとうのは頑強な鎧でもない。ごく普通の、それどころかダンジョンに潜るには極めて不適切な格好の女は、超高速で迫る棘を素手でペチンと払い除けてみせた。


「躾のなってないワンちゃんですこと」

「貴様……何者だ」


 グレゴリが警戒の色をにじませた。


「旧世代種でハないナ。我と同じ、バハムート様の寵児であルか」

「バハムート……?」


 女がそう問い返して来た瞬間、気温が一気に氷点下まで下がったかのような寒気に見舞われた。

 知らずに体がガタガタと震え出し、肌がピリピリと緊張している。

 それが〝恐怖〟だと理解するのに、グリゴリはかなりの時間を要する必要があった。


(ば、馬鹿な……恐怖だと? こノ我が旧世代種を前ニ恐怖を覚えるなド、あルはずもナい。あっテいいわけガない……!)


 グリゴリは知性で恐怖を否定する。しかし、本能がそれを許さない。

 どれほど「嘘だ」「ありえない」と否定の考えを頭の中で繰り返していても、体はピクリとも動かない。

 それは棘とて同じこと。カタカタと小刻みに揺れてはいるが、それは恐怖で震えているだけだった。


「つまりおまえは、自身をバハムートの御使いだと、そう言うのね?」

「ヒッ」


 女の問いかけに、グリゴリは喉を震わせてしまった。それは意図せず悲鳴のような声になっていた。

 そんなグリゴリの様子を気にするでもなく、女は言葉を紡いでいく。


「……ところで、おまえは文字というものを知っているかしら?」


 唐突に、女はそんなことを問うてきた。前後の会話にまったく脈絡を感じ取ることができず、グリゴリは何も言い返せない。


「今でこそ人々は共用言語の制定、公用文字を確立させましたけれど、それ以前はね、各種族ごとに──いいえ、同じ種族でも文字には大きくバラツキがありまして」


 そんなことを言いながら、女が歩を進める。コツコツと足音を響かせながら、グリゴリにゆっくりと近づいてくる。


「中には絵文字なんてものもあったのよ。リンゴを表しているのにミカンと読んでしまうような誤読は当たり前。同一のものを表しているのに、気がつけばまったく別の読み方になってしまったものもあるんですよ」


 気がつけば、女はグリゴリの目と鼻の先にまで近づいていた。それこそ、一歩でも前へ踏み出せば噛み付くことができそうな距離にまで。

 それでも、女は話を続ける。


「一つ、いいことを教えてあげましょう」


 グリゴリは今なお動けない。

 女は言葉を紡ぎ続ける。じっと、上から睨め付けるように目を合わせながら。


「おまえが言う〝バハムート〟が始祖龍のことを指すのなら、それは誤読。太古の種族が始祖龍の名を誤って読み、伝えてしまった偽りの名。真名でもなければ異名でもない、単に勘違いで読まれてしまった、どこにも存在しない架空のもの」

「な……っ!?」

「おまえは主と仰ぐ存在を、そんなデタラメな名前で呼んで崇めているの? おやまぁ……滑稽ですこと」

「なっ、な……何者だ、貴様ァッ!」


 侮蔑か、哀れみか、そんな視線を向けられたグリゴリは、ここにきて恐怖の鎖を断ち切った。

 棘が女を貫かんばかりに素早く動く。


「フゥッ……」


 と、ため息のような息吹を女が吐けば、襲いかかろうとしていた棘のすべてがボロボロと燃えカスのようになって崩れていく。

 何が起きたのかわからない。よもや、たった一つの吐息で自分の分体にもなる棘が崩れたと言うのだろうか。


 意味がわからない。

 訳がわからない。


「最後に一つ、いいことを教えてあげましょう」


 女が手を伸ばす。

 そっと頭に触れられた。


「おまえが言うバハムート。その真名は──」


 暗闇の中、近づいた女の顔がはっきりと見える。

 怖気を覚えるほど美しく、妖艶で、グリゴリをもってしても神々しく思う顔立ちをしていた。


……つまり、私のことです」

「あ……ああ……アアァァァァァ……!」


 グリゴリは自分の体が崩れていくのを感じた。

 けれど痛みはない。痒みもない。動くことさえできない。なのに、自分の体が崩れていくという感覚だけがそこにあった。


 それは、恐怖以外の何ものでもない。

 ただ自分の体が崩れていくのを認識し、それに対して抗う術が一切ないのだ。


 怖い。

 ただただ怖かった。


 そんな恐怖の感情に心を染め上げられて──グリゴリという存在は、この世から消えた。今度こそ、完璧に。欠片一つ残すことなく……グリゴリという存在はこの世から消え去った。


■□■


「しかし……まさか店長が相手をしていたとは」


 それは、ルティーヤーにとっても予想外の出来事だった。魔道具を自分の手で作り出すと騒いで、その作業に夢中になっていたと思っていたのに、何がどうなってダンジョンに潜り込んでいたのかさっぱりわからない。

 その上、あんなイレギュラーな怪物の相手をしていたときには肝が冷えたが、どうやら油断はしていなかったようで、少々やりすぎのような気もするが、無事に撃退したのは流石だと感心する。


「よくよく厄介事に巻き込まれる質なんですねぇ。それよりも……」


 ルティーヤーは目を細め、周囲を見渡した。

 周囲は暗闇。見渡しても、闇しか広がっていない。


「どうせ見ているのでしょう? さっさと出てきたらどうです?」


 ルティーヤーが闇に向かってそう呼びかけた直後。

 ぎろり、と闇の中に目が浮かぶ。

 それも、一つや二つではない。

 何百、何千という目が、ぐるりとルティーヤーを取り囲むように現れた。


「やあ……久しぶりだね」


 声が響いた。それはどこから聞こえてきたのか──あるいは頭の中に直接響いたのか──なんであれ、ぐるりと目に囲まれたルティーヤーの状況を見れば、それはまるで目玉が喋ったように聞こえただろう。


「クユーサー……おまえがちょっかいを掛けてくるのはいつものこととして、あの不出来な犬もどきは感心しませんね。何故、わざわざバハムートなどと私の渾名みたいな名称で誑かしたのです?」

「その方が面白いと思ったからだよ」


 その瞬間、ルティーヤーの目の前の目玉がバシュン! と弾け飛んだ。

 しかし、潰れた目はすぐに現れた。


「おお、怖い怖い……キミを相手に冗談を言うのも命がけだ」

「今の話を冗談で済まそうとするのは感心しませんね。どうせあなたのことです、存在しない〝バハムート〟をでっち上げ、私と同一視させることで権能を複製するのが目的でしょう。そうまでしてこの世界が欲しいのかしら?」

「僕は不完全なものが嫌いなだけだよ。せっかく僕が礎となった世界だ。それが不完全というのは気に食わないじゃないか」


「バハムートをでっち上げることは否定しないのね」

「……おやおや、巧く手のひらの上で転がされてしまったな。いつの間にそんな話術を身に着けたんだい?」

「あなたが迂闊なだけでしょう」

「うーん、そんな自覚はないんだけどね。僕はてっきり、グリゴリを倒した彼女から巧妙な話術を学んだのかと思ったよ」

「………………」


 スゥ──と、空気が一気に冷え込むような殺気が充満した。それこそ、グリゴリを縮み上がらせた殺気を何十倍、いや何百倍にも濃縮したような殺気である。


「ハッハッハ!」


 そんな空気の中、笑い声が木霊した。


「どうやらあたりかな? あれがなんなのか、是非とも僕に教えてほしいね」

「二度は言わない。あの方に手を出すな」

「あの方? あの方、だって!? なんと! これはいったいどういうことだ!? この世の創造主たるキミが、たかだか創造物の一個体を〝あの方〟と呼ぶなんて! これは実に興味深い」

「クユーサー……」

「落ち着こうじゃないか、ルティーヤー。今の僕には、キミとて手出しはできまい。それとも、僕を起こすかい? ああ、それでも別に構わないとも。どちらにしろ、僕にとっては好都合だ!」


「あまりはしゃぐものではないですよ、クユーサー。おまえはおとなしくこの世の礎となり続けていればいい」

「それはそれで構わないがね。しかし、娯楽というものは必要だ。僕を退屈させないでくれよ、ルティーヤー」


 その言葉に、ルティーヤーは返事を返さずに踵を返した。

 もうこれ以上、話すことはないとばかりに。


「また来ておくれ、ルティーヤー。そろそろ僕は、退屈な時間に飽きてきたところなんだから」

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