第10話「鬼の娘の歓迎」

 

 ひと月も経たぬまま、再びこの地に戻って来るとは思わなかった。あの時の俺に今の俺を少しでも想像できただろうか? 吉沢が崩壊して、恭子と結婚して、姫ちゃんの秘書をして、政治家が擁立した組織に姫ちゃんの株が良いように動かされ、自分の無知と無力の所為で数十万人にも及ぶ元吉沢社員の疑心暗鬼の波が彼女へ押し寄せようとしている。


 九州の空港ロビーへと足を向けながら、我ながらおっかない人生を送っているなあと少し苦笑するが、すぐにそれは溜息に変わる。


 俺は恭子に謝っていない。


 自我が崩壊しつつあった自分を最愛なる人に紙一重のところで引き戻して貰った恩に感謝こそしたが、結局謝罪の言葉は述べなかった。


 昨晩の帰宅したときの俺は余りにもどうかし過ぎていた。いくら思い返しても嫌われる要素しか浮かばない。


「ははは、失望されても仕方がないな」


 人間とは不思議なものだ、落ちるところまで落ちたと自覚したら案外開き直れるものだ。恭子に失望されたなら、再び信頼を取り戻すだけだ。


 ごめんなさい、とどれだけ言葉を並べてもそれが相手に伝わらなければ意味が無い。


 だから俺は行動で示すんだ。





「渡辺さん、渡辺さんっ、渡辺部長っ!!」


「えっ!? あれ、佐々木さん?」


 ロビーに着くといきなりこちらに向かって大手を振って大声をあげる佐々木さんがいた。


 一体何故?


「どうしたんだ佐々木さん、こんなところで」


「嫌ですねっ! 佐々木さんだなんてっ、恵って呼んでくださいよー」


 いや、呼ばねえし。


「えっとですねー。父から聞いて迎えに来たんですよ。間に合って良かったですっ」


 俺は首を傾げた。佐々木専務には何も言っていないし、寧ろ事前のアポを取っていないことを心配していたくらいだ。そもそも今の俺はアドレスの社員ではなく、どう連絡して良いものなのかもわからなかったんだ。


「佐々木さん、どうして専務は俺が会いに来るとわかったんだ?」


「父も興奮していましたよー。会長さんに電話で色々お話ししていたみたいですので、それで知ったんじゃないですかね~。そこで呼ばれた私も久々にあんな血気盛んな父を見てワクワクしちゃいました」


 そうか白井会長が……。俺は空港に向かうタクシーの中で白井会長に電話で粗方現状を説明して佐々木専務に助けを乞うために九州へ向かうことを報告していた。


 ってか、血気盛んな九州の鬼を見てワクワクするのは佐々木さんくらいだろうよ。この子もおっかねえな。流石は鬼の子だ。


「しかし、迎えに来てくれたのは嬉しいけど、俺は部長じゃないし、そもそもアドレスの人間ですらないのだから、こんな公私混同は不味いんじゃないか」


「あははっ、何を言っているんですかー。 もうみんな渡辺さんのことを部長部長って言ってますし、英雄の凱旋だってめっちゃ盛り上がってますよー」


 いやいや、英雄て……。凱旋も何も俺の地元は此処じゃないし、九州支社のみんなの署名のおかげで逮捕された俺がクビにならなくて済んだと聞いている。


 英雄どころか救われて落ち武者にならずに済んだ身だ。というか、俺は真希先輩の職場の立て直しをちょっと手伝ったくらいで、実質立て直したのは先輩と平野の力が大きい。そもそも急に会長から呼び戻されたから年内に完遂しないと傾く九州の大事業を途中で投げ出している格好だ。


 つまり、俺は何一つとして此処で大した成果を出していない筈なんだ。


「何難しい顔しているんですかっ、どんだけみんなが切羽詰まっていても、いつも飄々とした顔で対応していた部長らしくないですよっ。ほらっ、時間が無いんですよね? 行きますよー」


 そうか、いつも飄々としている顔で……か。俺はいつのまにか自分らしさも見失っていたんだな。


 佐々木さんに手を取られて引っ張られながら、俺らしさってどんなものなのかをもう一度考えていた。



「って、なんじゃこりゃーっ!!」


 俺はてっきり前回と同様の小型ハイブリットの社用車の『あっちゃん』で迎えに来てくれているものだと思っていたら、駐車場に向かうでもなく空港玄関のロータリーで待機していた真っ黒なリムジンを佐々木さんが指さして仰天してしまった。


「あっちゃん2号ですー。運転手付きですよー」


「いや、いやいやいや、おかしいだろ」


「何もおかしくないですよー。これは我が社のメイン融資元で特別顧問である束縛女―――じゃなかった吉沢総帥の専用車ですので、渡辺部長はその代理人なんですから当然ですよー」


 束縛女て……、ああそういやそんなこともあったな。出張中に俺のアパートで出くわした二人がそんな感じでバトっていたことを思い出す。


「いやいや、姫ちゃんならそうかも知れんが、俺には似ても似つかんだろ。こんな車」


「てへっ、私が一度乗ってみたくて手配しちゃいましたっ。総務部長なんて『ウチの社長も同乗した方が良いんじゃないだろうか?』って社長秘書さんに相談していたくらいですよー。そんなことをしたら渡辺さんが困るって私が止めましたけどっ」


 グッジョブ佐々木さん。俺とてついこの間までは係長待遇とはいえ、ただの現場の副主任だったんだ、更に平野に副主任の座を譲ってからはただの雑用でしかなかった。九州支社の社長なんて隣に乗っていたらこっちがおしっこチビっちまう。


「って、ことで、ゴーです、ゴー。ほら乗って下さいー」


 佐々木さんはそう言って運転手が開けたドアの奥に俺を押し込んだ。



 サスサス。


「あのー、佐々木さん。いちいち俺の膝を擦るのを止めてもらえないだろうか」


 寄りかかりながら密着して座っている佐々木さんが俺の膝のムスコに当たるか当たらないかくらいのキワドイ位置を擦っているのがどうも落ち着かない。


「現地妻の私を今まで放っておいて、電話ひとつ掛けてくれなかったじゃないですかー。これくらいなんだって言うんですかっ! 咥えているならまだしも、触っているだけですよっ! 英雄なら寧ろ肩を抱き寄せてしゃぶらせるくらいの器が無きゃダメじゃないですかーっ!!」


 おかしい、完全にこの子どこかおかしい。


「咥えるとか、しゃぶるとか、嫁入り前の娘さんが言う言葉じゃねえから……九州の鬼が聞いたら激怒どころじゃ済まないぞ」


「えー、そんなことはないですよー。寧ろ応援してくれますよー。お父さんは渡辺部長のことをヤル男だと思ってますしー。私が迎えに行くことを承諾してくれたってことは、そういうことですよ、きっと」


「絶対に佐々木さんの勘違いだと思うよ。絶対」


「えへへー、そうですかねー。まあ、私にはどっちでもいいんですけどねー」


 どうでも良くねえよ。さっきからちょいちょい当たってんだよ、俺のムスコに佐々木さんの手が。



 そんなこんなでいつ鬼に殺されても文句は言えない状況のまま、俺と佐々木さんを乗せたリムジンは九州支社へと向かっていた。

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