第9話「恭子の激昂」―――恭子side

 恭子は玄関にて九州へ発つ純一を笑顔で見送ったあと、すぐにその顔に影を落として何をするわけでもないのにリビングを落ち着きなく歩き回っていた。


 普段は1時間は余裕を持って登校する彼女が他のクラスメートよりも教室に入るのが遅かったのもそれが原因だろう。



「おはー、キョウ! 今日はえらい遅いじゃん。……って、あー、その薬指の指輪っ!? ははーん―――」


「どったの、キョウ!? もしかしてオジサマと何かあったの!?」


 先に左手の薬指に目が行った所為か、遅れて恭子の顔をみた都華子はその指輪のことすらこの先問い詰めることを失念する程に驚いていた。


 いつも一緒に居る都華子ですらその恭子の顔に驚愕しているのだから、無論他のクラスメートも同様で、落ち込んでいるのでもなく悲しんでいるといったようでもない恭子の姿に困惑を隠せなかった。


「いいえ、とっちゃん。何もありません。強いて言えばおじさんが少しの間また九州に行ってしまったの心配なだけなのかも知れません」


「そ、そう、ちょっとの間なら心配いらないと思うけど……でもまあ、キョウに何にもないんだったら良かったよ」


 ちょっと心配している人の顏ではない、と、都華子は言いたかったが、突っ込める雰囲気でもなかったためそれを飲み込んだ。


 いつも天使のようなオーラと笑顔を無自覚に放っていた恭子からそれらが綺麗さっぱり失われている今の彼女をクラスメート全員が心配そうに見つめていたけれど、今まで見たことのない、まるで無理やり感情を抑えているような恭子の姿に何があったのか想像すら困難な状態なのである。


 ただ、消去法で言って怒っているのではないだろうか? という曖昧な結論しかだせなかった。


 始業のホームルームが終え、授業が始まってもクラスに覆う重い空気は晴れず、恭子からは何のリアクションも無いまま時間だけが過ぎゆく。


 そんな状態に変化が訪れたのは昼休み前の2時限目(タコガクは2時間集中授業の為、1時限は2時間)が終えた頃だった。


 教科は数学。担当の教師は姫紀の代行で教壇に立つ樋本。生徒たち曰く、容姿も普通で特別面白味もないが姫紀よりも教え方が上手といった評価だ。


「それでは授業を終えます。皆さん、今日の授業範囲は特に大学入試でも必ず重要になってきますので良く復習しておいてください」


 そして、樋本が教室を出ようとした時。


「樋本先生。お昼休みにお時間をいただけますか? ご相談したいことがあります」


 樋本は背中から掛けられた恭子の声が、まるで鋭い切っ先で刺されたように感じてしまい、教室の扉を開ける手の力が抜けドタドタッとその扉に身体をぶつけてしまう。


「え、あの、恭子さ―――神海さん。な、何のご用事で―――、い、いえ、勿論です、わ、私は職員室でお待ちしていれば良いのでしょうか?」


「出来れば樋本先生と二人きりでお話しさせていただきたいので、生徒指導室などにしていただけるとありがたいのですが」


「は、はいっ! 私は生徒指導室でお待ちしておりますので、それではいつでも恭子様の宜しいお時間にお越しくださいっ!」 


 そう言って、樋本は足を震わせながら教室を後にする。


 勿論、その状況を見ていたクラスメートが『生徒が教師を指導室に呼び出した』とか『犯人は樋本だった』とか、よくわからないことを各々言い合っていた。




 昼休みに入ってから淡々と昼食を済ませた恭子は生徒指導室に足を向ける。


 既に昼食も摂らぬまま生徒指導室に待機していた樋本は三回にわけられた礼儀正しい等間隔のノックの音を聞いて声を上げた。


「は、はいっ! お入りくださいっ!」


「失礼いたします」


 入室した恭子の姿を見た樋本は椅子からスッと立ち上がる。


「恭子様っ! あのっ、私の授業に何か不備でも御座いましたでしょうかっ!?」


 まるで上官に対する部下の態度のよな直立姿勢で問う樋本の様子を見れば、恭子が何の理由で呼び出したのかをいまいち理解していない様子が伺える。


「樋本先生お座りになって下さい。それに先生は教師で私は生徒ですのでそんな呼ばれ方をされると困ります。私は吉沢の人間じゃありませんから。そして樋本先生の授業はとても解り易く他の皆さんも喜んでいます、不備なんてありません」


「あ、いえっ、あ、はい。それでは―――神海さ、ん。ご用件は一体……」


 その瞬間、恭子の目付きが鋭く変化した。


「ヒィッ!」


「樋本先生は姫紀お姉ちゃんの秘書をなさっておられるのですよね?」


「……は、はぃ」


「私は生まれた時からおじさんと一緒にいました。怒った顔も拗ねた顔も、喜ぶ姿も、悲しむ様子も、おじさんの事なら何だって知っています。……その、つもりでした」


「だから結婚してもおじさんのことなら何でもわかりますし、他の誰よりも一番に理解できるって思っていました。……でも、それは思い上がりだったんです」


 樋本も秀才である故に、恭子の独白が進むにつれ紐が解かれるように何を言わんとしているのかを薄っすらと感じていき、それと共に冷や汗がプツプツと湧き出てゆく。


「昨晩のおじさん。……あんなおじさんを見たのは生まれて初めてでした」


「私は何もわかっていなかったんです。妻でありながら、おじさんの変化に気づくのが遅れてしまいました」


「何故、おじさんはあんなにも追い詰められたのですか? おじさんの新しいお仕事の関係ですよね? 秘書をなさっておられた樋本先生なら何かご存知だと思って伺わせていただいたんです」


 そんな恭子の物言いを聞いた樋本は、今になってようやく姫紀が純一に縋る様に事務所へ留まらせ帰宅しないように懇願したのを理解した。


 しかし、それは反面これ以上絶対に彼女を巻き込んではいけないという姫紀からの忠告でもあると確信する。


「も、申し訳ございませんっ! 今回の案件は誰が矢面に立っても解決が不可能なことでして、渡辺氏が酷く落ち込んでおられるのも無理からぬことなんです。そ、そのっ、私にはそれくらいしか申し上げられませんっ!」


「私は樋本先生から聞いたとは絶対に言いません。あの日おじさんが豹変して姫紀お姉ちゃんの元に向かったのが週刊誌に書いてあった『元吉沢の社員の人員整理』を姫紀お姉ちゃんが実行しようとしているという表紙を見てというのは知っています」


「姫紀お姉ちゃんが自分の利益のためにそんなこと絶対にするわけがないってことも私は知っています。だから誰かが誤った情報を週刊誌にリークして、おじさんがそれを解決しようとしたけれど打開策が見つからなかったって想像しています」


 まるで全てを見透かされているようで、それを否定できない樋本にとってそれは恭子に答えを言っているようなものだった。


「姫紀お姉ちゃんは―――羨ましかったんです。だから吉沢の元社員の皆さんのために地位もお金も全部捨てたら私のようにおじさんの隣にいられるって思ったんだと思います」


「それでも姫紀お姉ちゃんは自分を応援してくれる皆さんを見て、そういうのもひとつの『家族』なのだと思ったって言ってて、だからもう一度、今は無き吉沢のために立ち上がったんです」


 吉沢崩壊と女帝としての再建に関してはむしろ共に計画を練っていた樋本の方が良くわかっていた。それでも、恭子の言葉によって当時と今の姫紀の心境と熱意がより鮮明になる。


「存じております」


「私はそんな姿を見て、一度はおじさんと姫紀お姉ちゃんの養子になろうって思ったことがありました。……結果はお墓の前でお母さんに叱られて、おじさんの気持ちも姫紀お姉ちゃんの気持ちも何も考えず、ただ意地を張っていただけだって知って、結局は自分の願いを叶えてしまったのですけれど……」


「だからこそ、私は今度こそは姫紀お姉ちゃんとおじさんの力になりたいんですっ!」


「私はまだ子供ですのできっと何もできないってことも知っています。おじさんと姫紀お姉ちゃんが私を巻き込みたくない思ってくれていることも知っています。それでも、それでも、私は二人が苦しんでいるのを陰で支えるだけなんてできませんっ!」


「教えてください、樋本先生。おじさんは寝言で『俺の所為で元吉沢の何十万人もの社員が姫ちゃんの敵になってしまう』って言ってました。私には元吉沢社員の皆さんも姫紀お姉ちゃんもお互いに信頼し合ってると思います。それなのに週刊誌に嘘を書かれたとはいえ、どうしてそんな簡単な誤解が解けないんですか?」


 樋本は絶対に答えられないと思いつつも、滝のように汗を流しながら、秘書としての才能が良からぬ方向へ思考を誘導する。


「……大人とはそういうものなのです。一人や二人ならともかく彼らは企業間を越えた組合を組織しております、その大勢ともなれば、楽観よりも悲観の方へ思考や言動が流されるのは間違いありません。姫紀さまが弁解しても、それが必死であればあるほど、誰かが一言『火消に走っている』と言われたら逆効果になるのです。大衆に嘘を吹き込む輩が一人でもいれば彼らの疑念は絶対に晴れることはないでしょう」


「だから、何も言わないのですか? 話し合わないのですか」


「これは社会と政治の鉄則でもあるのです。仮に憤慨した大衆に説明を求められても説明すれば説明するだけ論点がすり替えられ問題が巨大化してしまいます。ここは何もせずに沈静化するのを待つのが肝要でしょう」


 無論、沈静化する頃には何十万人と存在する元吉沢社員たちが一斉に姫紀の元を離れるといった彼らの目論見をわかっている上での樋本の判断なのだろう。


「姫紀お姉ちゃんは皆さんのことを家族だと言いました。私の家族はおじさんです。私はおじさんとの間に誤解が生じたとしたら、黙って落ち着くのを待つのなんて絶対に嫌です」


「私に話させていただけませんか? 樋本先生は皆さんが組合を組織していると仰いましたよね? それなら組合長とか委員長みたいな人がいるはずです。私に会わせていただけませんか? 話せば話すほど問題が大きくなるなんて私には理解できません。一度だけで良いんです、私に合わせてくださいっ。お願いです、樋本先生っ!」


 まずは誰か一人にターゲットを絞って話をする。それくらいのことは樋本も有効だとわかっていた。だからこそ樋本は実際に昨晩から頻繁に組合の委員長にコンタクトを取っていたのだ。


 それでも彼とて十分にこちらの現状と甲本の目論見を解ってくれている上で『話し合いで炎上を抑えるのは困難だろう』と樋本と同じ結論に至っているのだ。


 女子高生が委員長と話したとて何の解決にもならない。相手にされない可能性の方が高く時間の無駄するのは明白だ。樋本は自分でなくとも誰もがそう思うに違いないと確信している。


「お願いです……樋本先生。私に会わせてください、話させてください。お願いです、お願いです……」


 それでも、


 それでも、樋本はそんな恭子を見て、今まで培った知識や経験、計算を越えた何かが起きるのではないかと思えて仕方がなかった。


 そして、樋本は気がつけば絶対に言うべきではない言葉を言ってしまい、もう引き返すことはできないと覚悟した。


「今晩、21時に先方と会うことになっておりますので、20時に恭子様のご自宅までお迎えにあがります」


 彼は全てが終わってこの事実がバレたときには姫紀の信頼を全て失い、純一に殺されるだろうと自覚があったが、それでも目の前にいる恭子のためならばそれも悪くないと肌で感じていた。

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