第8話「母性と本能」

 俺の所為でどう足掻こうが姫ちゃんと元吉沢社員たちとの対立が始まってしまう。姫ちゃんは彼らたちの為に全てを投げ打つ覚悟でいて、彼らの為に一人の女の子になるのを諦め再び女帝として覚悟を決めたのに、だ。


 全ては俺の未熟と読みの甘さの責任。


 数十万人は存在する彼らからの恨み辛みが重くのしかかったまま俺は自宅へと帰って来た。


「……ただいま」


 何があろうが仕事の事は家に持ち帰ってはいけない。そんな師匠の矜持を聞き続けていた俺はいずれ家庭を持ったらそうなりたいと思っていたが、中々隠せるものではなさそうだ。師匠の境地に至るまではまだ修行が足りないということなのだろうか。


「おかえりなさい、おじさん」


 それでもいつものように玄関先まで迎えに来て温かい声を掛けてくれる恭子をみると、こんな気持ちのままでは良くないと改めて思う。


 そう、思ったのだが、いつもは両手を胸の前で合わせて出迎えてくれる恭子が今日に限って背中の後ろに隠れていたのが妙に気になってしまった。


 気にしなければ良かった。後悔先に立たずとはまさにそれだった。


「どうした恭子、背中に何か隠しているのか?」


 俺がそう言うと、恭子は少し慌てて返答するが小さい頃からの何かを誤魔化す時に視線が右下に逸れる癖が未だに抜けていなかった。


「いえ、何でもないんですっ」


「嘘をつくな。何か持っているだろう、見せてみろ」


 恭子は俺の催促に観念したのか、おずおずと背中の手を前に持ってくる。


「ん?……これはあの週刊誌か。……こんなもの恭子が見る必要はない」


 俺がそれを取り上げようとするが、週刊誌を握る恭子の手に思いの他、力が入っておりお互いが握ったままの状態になってしまった。


「今日のお昼過ぎにおじさんがこの週刊誌を見て尋常じゃないほどショックを受けていたことくらい私にもわかります。今はその時より悲壮な顔をしています。何も解決できてないんですよね? この週刊誌に書いている姫紀お姉ちゃんのことでかなりお困りなんですよね? 私には何も出来ないかもしれないですけど、それでも何かおじさんのお役に立ちたいんです!」


 捲し立てるように言われたそれが決定的だった。この時が、俺が俺でなくなる瞬間だっただろう。いつもなら恭子の小言や頑固な物言いくらい薄ら笑いで上手に誤魔化しながら躱す自信があったが、この時だけはそうもいかなかった。


 俺は子供なのに今までかなりの悲惨な経験をしてきた恭子にこれ以上の苦労や心配を掛けさせたくない一心で言ったつもりだったんだ。


「黙れ恭子。子供が大人の事情にいちいち首を突っ込むもんじゃない」


「黙りません、おじさん。私はおじさんにとってまだ子供かもしれませんが、おじさんの伴侶となったんです。仮に何も出来なくてもその苦労を分かち合うくらいはさせてください。私はおじさんに守られるだけのお嫁さんじゃありません」


 その刹那―――考えるよりも先に言葉が出ていた。いや、恐らく言葉よりも先に顔に出ていたことだろう。


「何度も言わすんじゃねえっ! 俺が黙れと言ったんだからお前は黙れば良いんだよっ! 俺はお前と結婚はしたかも知れんが、ビジネスパートナーになったつもりはねえっ!!」


 俺は恭子が生まれたときから一緒にいるが、今まで恭子を怒鳴ったことがあっただろうか。


 いや、ない。


 まるで激痛が走ったかのような顔で目を見開く恭子の姿を見れば一目瞭然だ。


「……す、すまん。今日の俺は本当にどうかしているみたいだ。飯はいい、風呂も朝にする。俺は大人しく寝るから、恭子、お前も今日は自分の部屋で寝ると良い」


 恐らく姫ちゃんはこうなることを予見して家に帰らず事務所に泊まれと言ってくれたんだろう。


 申し訳ない気持ちで一杯になった俺が玄関で佇む恭子の横を通って自室に入ろうとした時だった。


 

 気がつけば背中から抱きしめられていた。



「ごめんなさい、おじさんがこんなになるまで気づかないだなんて、私、お嫁さん失格ですよね。本当に辛かったんですね、本当に怖かったんですよね、これから始まることが恐ろしいんですよね。もっと私を怒鳴ってください。もっと私をなじってください。少しでもおじさんの気が楽になるなら、少しでもおじさんの痛みが和らぐなら、私は喜んでそれを受け入れますから」


 それは全てを見透かされているかのようで。


 全てをさらけ出せられたかのようで。


 だから、今頃になって震えが来たんだ。


「恭子……恭子……」


 俺は力が入らない手でお腹の前に回っている恭子の手を必死で握った。


「姫紀お姉ちゃんも、会社のみなさんも、そして私が一番おじさんがすごく頼りになるヒーローだって知っています。英雄だって言ってました。でもその反面、どんなヒーローでも英雄でも……素敵な旦那様でも、辛いことも悲しい時もあるんだってことも私は知っていますから。だから大丈夫です、おじさん。今までおじさんがみなさんを助けたように、どんなにピンチになっても誰かがきっとおじさんを助けてくれますから。きっと誰かが、私が―――」


 恭子が紡ぐ言葉に涙が溢れてしまい、その粒が彼女の手に落ちて言葉が遮られた。


「おじさん、ご飯は明日の朝にたくさん食べましょう。お風呂も起きてから入りましょう。だからどうか、今はゆっくり寝てください」


 俺の代わりにドアノブを握って開いた恭子は、俺の手を取ってベッドまで連れて行ってくれる。



 恭子の胸の中で頭を撫でられながら俺は深い眠りにつく。


 その意識が薄れゆく中で、いくつか感じたことがあった。


 情けない話かもしれないが、自分の半分にも満たない女の子の胸に抱かれるその温かさに、暫く忘れていた幼い頃亡くした母親の愛を思い出した。


 俺は誰かに頼って良いんだ。


 思い返せば早くに母親を亡くし、片親で育って尚、成人する前には父親も亡くした俺は自立して必死に生きていくために誰かに頼ることに不慣れだったのかもしれない。


 もちろん結果的に誰かに頼ってしまったことはあったかもしれないけど、自ら進んで誰かを頼るなんてことはきっと師匠にだけだっただろう。


 心から縋ってしまった今の恭子へのように、誰かを頼ってみよう。


 そう思ったら、自分の心のどんよりとした雷雲が散っていき、それと共に俺の意識も停止していった。



「おやすみなさい、おじさん」




 ぱちくり。


 驚くほど目覚めが良かった。というか、普段は寝ても4~5時間だし、その間に目が覚めることもしばしばあるんだが、どうも今の俺は12時間ほど熟睡していたようだ。


 ん?


 目の前の恭子は一緒に寝ていたにも関わらず服を着替えている。しっとりした髪をみると既に朝風呂に入ったに違いない。


 ってか、違う違う、そうじゃない。めっちゃ恥ずかしいんですけどっ!!


 昨晩のことを思い出したら顔から火が出そうだ!


「ふふっ、おはようございます、おじさん。朝ごはんも出来ていますよ」


 結構テンパっていたからか、顔を合わせてベッドの中にいた恭子に笑われてしまった。


「わ、わざわざ朝食をつくったあとにベッドに戻ってきてくれたのか?」


「以前の出張の前に凄く酔っ払って帰ってきた時に、おじさんは私の胸を枕代わりにしたらよく眠ってくださるって学びましたから」


 くっ、白井会長と関久の社長にしこたま飲まされた時か。


「今だから言いますけど、あの時のおじさん『なんか固い』って言って私のブラジャーを取っちゃったんですよー」


「嘘だっ! そんな馬鹿なっ! 俺がそんな破廉恥なことをするはずがないっ!」


 い、いや、まあ、女の子のおっぱいを枕にして寝る時点でかなりヤバいけれども。


「ふふっ、あははっ! 嘘ですよー。本当はおじさんが『んん~っ』って言って私の胸の上でもぞもぞするから、自分で取っちゃったんですよっ。そしたらスヤスヤ寝ちゃったからやっぱりブラは邪魔なのかなってひとつ勉強になりました」


 ち、チクショウ、からかわれたのか。


「そんなこと、勉強せんで良いっ」


 俺が照れ隠しに邪険にしたら恭子が優しく微笑んだ。


「良かった。おじさんが元気になってくれました」


 いや、照れている場合じゃない。 


 恭子の顔にそっと手を当てた俺は真剣に顔で礼を言った。


「本当にすまな―――、いや、本当にありがとう、恭子」


 何故か謝らない方が良いって思った。


「私はおじさんのお嫁さんですからっ、感謝されることじゃありませんっ。―――あの昨晩から何も食べてないですよね、お腹空いてますよね、お風呂の前にご飯食べますか?」


 恭子が喋っている途中で俺の腹が鳴るもんだから、恭子が慌てて俺の心配をし始める。


「いや、先にシャワーを浴びよう。加齢臭で恭子に嫌われたら俺は生きて行けそうにもないからな」


「おじさんは全然臭くありませんっ! むしろ私はおじさんの匂いで―――って何を言わせるんですかっ! ちょっと待っててください、私も一緒に入りますからっ」


 何を言わせるも何も、何を言おうとしたんだよ。むしろそれが気になるわ。


「いやいや、恭子は既に風呂に入ってんだろ? シャワーくらい一人で浴びれるわいっ」


「あうっ!」


 しまったやっちまった的な顔をした恭子を残して、俺は熱いシャワーを浴びて、そしててんこ盛りに作られた朝食を腹いっぱい食べた。昨日食べられなかった晩御飯をレンジでチンしたのでも全然良かったのにわざわざ朝食として作り直すところが恭子らしいと言えば良いのか。



 その後、スーツに着替えてビシッとネクタイを締めた俺は恭子と向き合って、昨晩薄れゆく意識の中で決断したことを報告する。


「本当に急に決めたことで申し訳ないんだが、恭子、俺は今から九州に行こうと思うんだ。明日に帰れるか、数日間滞在しなければいけないかはわからないが、留守を頼めるか?」


「はい、私のことは気になさらないでください。おじさん、どうかお気をつけて」


 そして恭子はつま先と首を目一杯伸ばして俺に口づけをした。


「い、行ってくる」


 もう何回目かなのに、未だに行ってらっしゃいのキスが慣れない。恭子は微塵にも恥じらってないというのに、俺の方は……情けない話だ。



 あと、何故かこの時も両手を後ろに回していたのがほんの少しだけ気になった。今回は何も持ってなくて何も隠していないのに。


 恭子は自分の背中の後ろで左手で右手首を握っていた。


 その仕草は誰かを殴りつけようとする右こぶしを抑えて我慢する素振りにそっくりだった。


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