第7話「そして俺は無能を悟る」

 甲本理事長が事務所を退室したあと、俺の心境は複雑でそれは酷いものだった。


 皆が同じ思いなのだろうと姫ちゃんの席の隣に立つ樋本さんに目を向けたが、俺の想像とは少し違い彼は思いの他冷静さを保っていた。


 俺は彼の事をこう評していた。有能なのだが交渉力に欠ける、と。そして少々頼りなくもあると。


 今になって考えると、彼は交渉できなかったわけではなく、交渉しなかったのではないか。ある程度このようなリスクがわかっていて、現段階では盤上の駒を動かすことを躊躇していただけではないか。


 そうすると、勢いだけで一人動いていた俺の方が無能だっただけの話じゃないか。


「ひょっとして、樋本さんはこうなることを薄々わかっていたんじゃないですか?」


 俺の質問に対して視線を斜め下に落として唇を結ぶ彼を見たら、俺が何を考えて何を言わんとしているのかを既に悟られていることが解る。


「彼らのやり口を予見できるわけはありません。報告は受けていましたのであちらとこちらの動きは知っていましたが、今回の一連の件は受け身にならざるを得なかったのは間違いありません。ハナから断れる性質の話ではありませんので渡辺さんが先手をとって先に駒を動かしたからといって、それだけでは貴方の責にはなりません。これは断言させていただきます」


 そして、こう言った。


「結果的に渡辺さんは私には出来ないことをしてくださいました。ありがとうございます」


「樋本ッ!!」


 姫ちゃんが激高しても彼は結んだ唇を更に噛みしめるだけだった。事実は変えられないらしい。


 なるほど、そういうことか。


 今回彼が俺に第一秘書の立場を譲ったのは、どうせ結果が変えられないのならば無知な俺が事を進めた方が逆撃を喰らったときの被害が少ないということなのだろう。


 つまり、中途半端に有能な奴が中途半端な防衛策を弄していたとしても結果は変わらないし、寧ろそうなればあちらはより大きな謀略を立てて来ることになるので、現段階では最善の結果だと言いたいのだろう。


 今の今になるまでそれすらも気付けないなんて、俺はなんて情けない男なんだ。自分を過大評価し樋本さんを侮って……知識も学力も経験もない俺にこんな畑違いの仕事なんて出来やしないことなんて誰にだってわかることなのに。


 そうだ、俺はただの現場しか知らないサラリーマンなんだ。



「姫ちゃん、すまない。今日はもう、帰らせてもらえないだろう、か」


 全てにおいて完膚なきまでに叩きのめされ、誰にも反論できない状態の俺が捻り出すようにして出した言葉がそれだった。


 既に扉の方へ体の向きを変えていた俺に姫ちゃんが慌てて制止する。


「止めなさい! もう今日は帰らずに渡辺さんはこの事務所に泊まっていくべきよ」


「何を言っているんだ。いくら無能でも、仕事で失敗したくらいでいちいち帰宅も出来ないほど情けない男になりたくはない」


「渡辺さん、貴方、今、自分がどんな顔をしているのかわかっているの?」


 情けない顔をしているくらいの認識はあるのだが、鏡がないのでハッキリとはわからない。そんなに酷い顔をしているのだろうか。


「そんなんじゃ、恭ちゃんを余計に心配させるだけよ! ねえ、お願い、せめてあと数時間くらいはここにいて、気持ちを落ち着かせてからにしてちょうだい」


 数時間もここにいたら帰るのが夜中になっちまうじゃねえか馬鹿野郎。


「何を言うか。恭子は俺が帰らなかった方がより心配するに決まっているだろうよ。恭子の性格は俺が一番よく知っている」


「違う、違うわ。帰らないのを心配するなら私が一報入れておけば良いだけのことよ。それより恭ちゃんは渡辺さんが、貴方がってことを知ってしまうと、本当に何をするのかわからない子なのっ! 小さい頃から一緒に居て、結婚したならそれくらいわかるでしょっ!!」


 ああ、そうさ。知っているさ。恭子はいつもしっかりしているように見えて、結構寂しがり屋で、心配性で、空回りなんてたまにじゃない。はしゃぎたい時にははしゃぐし、泣いたり怒ったりも当たり前、そして頑固。それが本来の恭子なんだ。


「恭子の心配性は今に始まった事じゃないし、それはそんなに大袈裟なことじゃねえ」


 俺が『違うの、違うの、貴方はわかってないわ』と言う姫ちゃんに背を向けたまま踵を返さずそのまま事務所を後にしたので、車の前で人の気配がしたときは姫ちゃんが追いかけてきたのだと思ってしまった。



「お待ちください」


「樋本さん。なんだ、俺を引き留めるよう姫ちゃんに頼まれたんですか?」


「いいえ、そのことに関しては私はわかりません」


 どうも樋本さんが俺を追いかけてまで言いたかったことは違う事らしい。


「貴方が経済連の会長と政治家に姫紀さまの持つ三割の株の保証と同様に三割の理事の議席権を認めさせたのは私にとって奇跡なのです。私にはその提案すら出来なかったでしょう。貴方は……確かに姫紀さまの代理人業務においては無知かもしれませんが決して無能ではありません。それだけはどうかご承知ください」


 何を言うかと思ったら、ただの慰めの言葉だった。余計に情けなくなっちまうじゃねえか。


 理事の議席は十人。三割をこちらが指名できたとしてもたった三人だ。議決においては3:7で確実に負ける。姫ちゃんを入れても4:7なんだ。


 こんな計算は小学生にでも出来る。



 俺は姫ちゃんへと寄せられる数十万人にも及ぶ吉沢元社員の予想される恨み辛みを頭の中で漂わせながら、恭子の待つ自宅へと車を走らせた。

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