第3話「姫ちゃんの手作り弁当と恭子の晩飯」
「はいっ、渡辺さん―――あ~ん」
……
「あ~ん」
観念して俺が口を小さく開けると、姫ちゃんからぶしゅっと卵焼きを掴んだ箸をねじ込まれた。
俺が姫ちゃんの秘書をしている間は、昼食などどれだけ豪華なものでも何でも食べさせてくれるのだが、今日はそうもいかないらしい。正午前後に人と会う約束が立て込んでいてどこかの店で食べる時間がないというのもあるのだが、姫ちゃんが初手作り弁当に挑戦したというのが一番の理由だろう。
運転席との間を自動の仕切りで閉ざされた真っ黒な高級リムジンの後部座席に座る俺の膝の上に両足を乗っけた姫ちゃんが『うふふ、お次はどれにしようかしら?』と自分の作った弁当の中身で迷い箸をしている。
ちょっと話が逸れるのだが、学園教師をしている姫ちゃんがこうして俺と共に日本経済界の総帥として別の仕事をできるのには理由がある。それはもう一人の秘書の樋本さんの趣味が資格集めだからだ。
あの人はとにかく時間があれば資格集めに奔走する。大型2種の自動車免許から始まり、完全に趣味の栄養士や調理師、保育士や取得に時間の掛かる司法書士や会計士の資格まで持っているのだ。これで無能なはずがない。しかし樋本さんは無能ではないのだが、資格取得に関係ない交渉力など対人スキルがてんで皆無なので裏社会において姫ちゃんのサポートは出来ても代わりを務めるのは厳しいだろう。
つまり何が言いたかったかというと、ここ最近姫ちゃんは学園教師をサボって俺と共に仕事をすることが多いのだが、辞めるつもりは全くなく、自分が教鞭に立てない時は趣味で教員免許も取得していた樋本さんを代わりに出向させているのだ。
ちなみに樋本さんは調理師や栄養士の資格を持っているが、それは決して料理スキルに直結しているわけではなく、姫ちゃん曰く彼の作る料理は、全く独創性がなく、ありきたりのつまらないものらしい。
「あっ、この煮しめの大根は凄く自身があるんですよ~♪ 恭ちゃんから習ったんですから渡辺さんのお口にも絶対合うはずよ! ―――はい、あ~んっ」
「あのさ、姫ちゃんよ。俺は自分で食える。手が骨折した要介護者じゃな―――」
「はいっ、あ~んっ!!」
パク。もぐもぐ。ごっくん。
まあ、最近まで料理をしたことが無いというところを考慮すれば、上達っぷりは半端じゃないのかもしれない。
「これは、ウチのチビちゃんたちが大好物のチーズインハンバーグです。あ~んっ!」
チビたちって、ああ、姫ちゃんが引き取っているヒトミちゃんの弟や妹のことか。
「……あら、ずっと険しい顔をしていますけど、どこか調子が悪いんです? 食欲がないのかしら?」
わかった、ちゃんと食うから、俺のシャツの中に手を突っ込んで腹をサスサスするのは止めてくれ。
正直俺は午前中の会合で相当メンタルがやられていた。吉沢資産管理団体(仮)の設立にあたって、トップは総裁兼会長として姫ちゃんが就任するのだが、先の会合の相手は政府と経済連が指名してきた理事長に就任する予定の、帝都中央銀行生え抜きでかなりやり手のおっさんだった。
『ただの短期雇いのイチ秘書の分際で我々の計画案にいちいち口を挟まないでもらいたい』
如何にもプライドの高い銀行屋らしい発言だ。俺だって口を挟みたくて挟んでいるわけじゃない。こちらサイドの姫紀チームって樋本さんは姫ちゃんの代わりに学園に行っているし、肝心の姫ちゃんは全く興味なさそうにあくびしているし、俺しかまともに仕事ができる人がいないんだ。
早い所、姫紀チームの人材を確保しないと俺がアドレス本社に戻ったあと、彼らの良いようにされるビジョンしか浮かばない。
『いいわよ別に人材なんて……私には便利屋の樋本がいるし、来月から渡辺さんがアドレスに戻ったとしても秘書業務を委託したことにすれば、何とでもなるわ』
馬鹿言うんじゃねえ、俺はやらねえし。って言っても、彼らに対抗できる人材で俺に心あたりなんて九州の鬼と言われる佐々木専務しか思いつかん。……ん、委託か。良いかも知れんな、一度白井会長に相談しよう。佐々木専務が姫ちゃんについてくれれば鬼に金棒だ。まあ、鬼も金棒も佐々木専務なんだがな。
ああ、結局姫ちゃんにお腹(地肌)サスサスされているうちに次の会合の時間がきちまった。次は誰だったっけ? ああ、そうだ。常任理事に就任予定の山崎さんだったっけ。確か政府お抱え企業と揶揄されている鬼頭建設の特別顧問をしていた人だったよなぁ。
そんなこんなで、本日も存分にお疲れ状態で帰宅なのだが、最愛の奥様である恭子がいつも出迎えてくれるので帰宅直後にすぐ癒される予定だ。
「ただいま~」
俺がそう言って玄関に入るも、一向に玄関に来る気配がない。トイレかもしくは先に風呂に入っているのか。そうじゃないとすればテレビの音とかで聞こえなかったんだろうと、もう一度大きな声で言ってみた。
「ただいま~恭子~、今帰ったぞ~」
シーン。
結婚してからまだそれ程に日は経っていないが、恭子が出迎えに来ないのは初めてだったので少し寂しかったが、まあこんなこともあるだろうと、自室で着替えてからリビングに足を運んだ。
すると、恭子が無表情で食卓に座っているではないか。
いや、それは別に良いんだが、問題はそこじゃない。不可解なのは恭子の席に2人分の食事が用意されており、いつも俺が座っている恭子の対面には何も置かれていないのだ。
全くもって意味がわからない。
「あの~、恭子さん?……ただいまぁ」
「おかえりなさい、おじさん」
返事も無表情だった。
「ええと、何で俺の飯がそっちにあるんだろうか」
俺は自分の席に座ろうとしながら恐る恐るそう聞いてみた。すると恭子は俺が椅子に座ろうとする途中に、バンと机を叩いてそれを制止した。
「おじさんの席はそこじゃないですよ。―――こっちですっ!!」
恭子はかなり厳しい口調で自分の横隣の椅子に向かって、まるで人差し指を突き下ろすようにしてそう言った。
「ええっ? 今日は誰か来る予定でもあるのか? 白井会長とか?」
俺の席を変えるだなんて、白井会長とか俺の上司的な存在しか思いつかない。
「誰も来ません」
そうだよなぁ。もし来る予定があるとしたら、本来の俺の席にも何かしら食事の準備がされているはずだ。俺は何が何だかわからないまま、取り敢えず言われるがままに恭子の隣へと移動する。
「おじさん、今日のお昼は何を食べましたか?」
「えっと、あの、姫ちゃんのつくった弁当を少し……」
「どうやって食べましたか?」
ゴホッ。ヤバい少し咽こんでしまった。
「その、なんというか、ええと……食べさせてもらったっていうか……つまり、あ~んってな感じで……」
「知っています。姫紀お姉ちゃんが嬉しそうに電話で言ってましたから」
つまり、あれなんだろうか……恭子が言いたいことは。
恭子がもう一度机をバンと叩く。
「私だって、そんなことおじさんに一度もさせてもらったことはありませんっ!!」
つ、つまり……ヤキモチ?
そして二人分の晩飯が恭子の席にあるというのも……そういうことか?
「おじさん、あーん」
俺は何も言えずに恐る恐る口を開く。
「どうですか? 美味しいですか?」
「あ、はい。めっちゃ美味いです」
恭子が一旦テーブルに箸を戻してから、三度、机をバンと叩いた。
「姫紀お姉ちゃんは最初は嬉しそうに話していましたけど、最後の方はちょっと淋しそうでした! 姫紀お姉ちゃんが初めておじさんに作ったお弁当なんですから、感想とか、ごちそう様くらいは言うべきですっ!」
もはや、俺には恭子の怒りの論点が解らん。
且つて妻子持ちの俺の同僚たちが『嫁なんてのはみんな結婚したら性格が変わる』、『結婚する前は優しくて穏やかで優しかったのになぁ』と愚痴を溢していたが、恭子も例に漏れずそうなのかぁ……、なんて、あ~んをされながら俺はそう考えていた。
しかし、結局のところ、恭子は恭子だった。
『おじさんっ、ごめんなさいっ! 私が嫉妬してしまったせいで、おじさんはお疲れなのに、余計なことばっかりしてしまって、おじさんを困らせてしまって……今晩なんてお帰りのキスもしないで……私は最悪なお嫁さんですっ。私は最低な恋人ですっ!!』
寝る直前にわんわんと大泣きしていた。
そんな恭子をなだめるために、俺は優しく抱きしめてアレよコレよと甘い言葉を耳元で囁いて、……あと、ちょっとだけ恭子の胸を揉んだ。
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