由希子と冬馬

 学校のプール開きの日、由希子の心境は去年とは明らかに違っていた。


 縦二十五メートル、横十五メートルの学校のプール。


 準備体操の後のウォーミングアップとしての横十五メートルを、由希子は皆と同じように泳ぎきった。彼女は生まれて初めて、一度も足をつくことなく十メートル以上泳ぐことができたのだ。


 十五メートルを泳ぎ終えてプールから顔を上げると、冬馬が笑顔で由希子の方にピースをしていた。由希子も思わず嬉しくなって冬馬にピースを返す。


「よーし! ウォーミングアップはお終いだ! 次は二十五メートルいけるもの、行くぞー!! 二十五メートルは無理でも、挑戦したいものは泳げるところまででいいから、頑張るんだぞー!!」


 若林は声を張り上げた。生徒たちが少し騒めきながら二十五メートルの縦ラインへ移動し始める。


 由希子は列に並んでいる冬馬たちのところへ行くと、突然ペコリと頭を下げた。


「遠山くんたちのお蔭です。本当にどうもありがとう。このことは一生、忘れないよ。ありがとう!」


「え!? いや、そんな、吉田さん! 頭を上げてよ! ちょ、ちょっと!」


 冬馬はどうしていいのか分からない様子で、狼狽する。


「おい遠山? おまえ吉田に何したんだよ?」


 周りの生徒にも聞こえてのか、冷やかしの声が飛んでくる。


「いやー、それほどでも……」


 隣の仁栄はニヤニヤしながら、頭をかいていた。


「あんた、殆ど毎回ひとりで潜水してただけで、何もしてないじゃん!」


 りょうが仁栄を睨みつける。


「まあまあ、りょうちゃん。やったね、ユッキ!」


「うん! ありがとう!」


「どうしたんですか、何事ですか? 大丈夫ですか、佐々木さん?」


 そのとき、突然彼らの背後から低い声が響いてきた。すぐ後ろに並んでいた岡本が、仁栄の肩の後ろからひょっこりと顔を出したのだ。


 仁栄の肩に顔を乗せた岡本は、まるで二つの首をもつ何か妖怪のように見えた。


「うわーっ!! ばけものー!!」


 りょうはそれに向かって思わず正拳上段突きを繰り出した。


「うぎゃぁあうっ!」


 拳は妖怪の額に見事に命中した。


「おい! そこぉーー!! 何を騒いでるんだー!! 静かにしないかー!!」


 若林の怒声が響き渡る。


 由希子は、そんな彼らの様子を楽しそうに見ていた。そして、彼らと初めてプールへ行った日のことを思い出していた。




「吉田さん、焦らずにゆっくり入っていこう」


 塩素の匂いが充満している室内プールに、冬馬の声が木霊する。


 既に準備運動を終えた仁栄とりょうは、プールの中で気持ちよさそうに潜水して遊んでいた。


 そんな彼らを横目に見ながら、由紀子は恐る恐る足先から慎重にプールの中へと入っていく。


「大丈夫だよ、ユッキ。肩までしかないから」


 先に入っていた咲子は、水中で手足を器用に動かして、立ち泳ぎをしている。


「サキ、すごいじゃん! それどうやるの?」


「石川すげえじゃん!」


 仁栄とりょうがクロールで咲子の方へ泳いでいった。


 このスイミングスクールは、比較的大きい造りで、一般プール(大人用、子供用)と、コーチからレッスンを受けられる特別プールとに分かれていた。仁栄たちは一般プール子供用の浅いプールで練習していた。


 胸までプールの水に浸かると、由希子は急に不安になった。水が身体を圧迫してくるようで、どうしていいのか解らなくなり、彼女は不安に襲われるのだった。


「吉田さん、そんなに硬くならなくても大丈夫だよ」


 由希子のすぐ近くで冬馬の声がした。


「まずはへりに捕まりながら、少し一緒に歩いてみよう。身体を水に慣れさせるんだ。水の中って結構抵抗力があるから、歩くだけでも結構いいエクササイズになるんだぜ」


 冬馬は由希子のすぐ隣まで来るとそう言って笑った。


「う、うん」


 由希子は冬馬と一緒にプールの外側を歩いた。手足を動かすと、水が彼女の身体を押し返してくる。水の中を歩くことすら殆ど経験のなかった由希子にとっては、初めての感覚だった。


 彼女は初めは上手くバランスを取れず、何度か転びそうになったが、十分もすると慣れてきて、時折笑顔を見せるようになっていた。


「じゃあ次は、バタ足の練習をしようか。ほら、へりにこうやってしっかり捕まってやれば、流されたりしないから大丈夫。少し大きなお風呂の中で練習していると思って」


 冬馬はへりに捕まると、器用に身体をプールに浮かせてみせる。冬馬の身体がプールの小波に揺らされる。そして彼はバチャバチャと水を蹴り始めた。


 由希子は冬馬の動作をよく観察しながら、慎重に身体を水に任せようとしてみた。身体がフワフワとプールの中で揺れている、そう感じた瞬間由希子の足が底について立ってしまった。


「うわっ!」


 由希子が顔をあげると、冬馬が笑っていた。


「もう少し身体の力を抜いてリラックスしてみてよ。きっと上手くいくから!」


「うん」


 由希子は先程よりも身体の力を抜くことに意識をして、もう一度やってみる。身体がゆっくりと揺れていく。そして、今度は冬馬の足の動きを真似してみた。彼女の足がバチャバチャと水飛沫をたてる。


「そうそう、その調子! うまいよ、吉田さん! 疲れたらすぐに立ち上がって休んで大丈夫だからね」


「遠山くんって教えるの上手だね。なんだか、若林先生みたい」


 由希子はバタ足をやめると、冬馬を感心した目で見た。


「え? 何言ってんだよ。煽てたって何もあげないぜ。ちょっと休憩しようぜ」


 冬馬は照れ臭そうにそう言うと、プールから上がった。


「ユッキ、調子はどう?」


 咲子とりょうの二人が立ち泳ぎをしながら近づいてきた。


「なんか、楽しい!」


 由希子は笑顔になっていた。


「やったじゃん!」


「よかった!」


「すごいよ、吉田さんは。上達するのすげー早いよ!」


 冬馬の声が再びプール内に木霊する。


「そ、そんなことないよ……」


「そんなことあるよ! これから毎日来れば、すぐにクラスで一番になれるぜ!」


「え? そんな……でも毎日? 毎日はちょっと……」


「ユッキだって忙しいんだから、毎日は来れないでしょ! 永久暇人の深水とは違うんだから!」


「『永久暇人』って、りょうちゃん……なんか新しい四字熟語みたいだね」


「そうだな、ははは」


 冬馬は声をたてて笑った。りょうと咲子がそれに続いて笑った。いつの間にか由希子も声に出して笑っていた。


 彼女はこんなにも楽しいと心から思ったのは、本当に久しぶりな気がした。


「おーい! 今オレのこと呼んだ?」


 遠くで潜水していた仁栄が数メートル離れたところで、顔だけ出してキョトンとしている。


「いや、そろそろ腹減ってきたから、帰ろうかなーって話してたところだよ!」


 冬馬は素早く皆に目くばせをする。由希子はそれを見てまた笑った。




 帰り道、咲子は冬馬に言った。


「ホント、ホント、なんだか若林先生みたいだった!」


「そうだね。でもそのおかげで、ユッキもすごい上達したんじゃない?」


「どれくらい上達したかはわからないけど、プールの水に浸かるのはもう怖くなくなってきた」


「すごいじゃん! 恐怖心に打ち勝ったじゃん!」


「うん、遠山くんやみんなのおかげ。今日は本当にありがとう!」


「吉田さんは水泳の才能あるよ! またみんなで一緒に練習しようぜ!」


「うん、ありがとう」


「石川、今度オレに立ち泳ぎ教えてよ」


「うん、いいよ」


「深水はずっと潜水しとけばいいじゃん。永久暇人なんだし」


「何でだよ! オレも立ち泳ぎ出来るようになりたいよ! だいたいなんだよ『エイキュウヒマジン』って!」


「まあまあ、りょうちゃん」  


「ははは!」


 冬馬が声を上げて笑った。由希子も一緒に笑っていた。




 

 それからも由希子は何回か冬馬たちに誘われて、一緒にプールへ行った。


 冬馬は教えるのがとても上手くて、由希子は教わっていて毎回素直に楽しかった。


 もうプールは怖くない、それどころか彼女は泳ぐことが楽しくて、大好きになってきていた。


 突然、由希子は閃いた。水泳のお礼に、皆にクッキーやチョコレートを作ってみてはどうだろうかと。 

 彼女の頭の中に皆の喜んでいる顔が浮かんでくる。そんなことを由希子はひとりで想像しながら、りょうや咲子たちと一緒に二十五メートルの列で、順番を待っていた。


「吉田さん、どうしたの? そんなにニコニコしてさ」


 冬馬が由希子に気が付いて声をかける。


「ううん、何でもない」


 由希子はただあ微笑んだままだった。


「そっか……でも、いつもニコニコしてるのって、いいことだよね」


 そう言って冬馬も微笑んだ。


「うん」


 由希子がふと見上げた空には、いつの間にかすべての雲が流れてしまっていて、太陽だけが彼らを照らしていた。

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