プールへの誘い

 梅雨も終わりに近づいた六月下旬の日曜日の朝、吉田よしだ由希子ゆきこは憂鬱だった。今にも雨が降り出しそうな薄暗い空を眺めながら、彼女は溜息を漏らした。


 来週からプールの授業が始まる。由希子は体育全般が不得意で、特に水泳は大の苦手だった。去年までは、由希子と同じように泳げない子はたくさんいた。しかし、三年生となった今、もし自分だけが泳げなかったらどうしようかと、彼女は不安になっていた。


 梅雨なんか明けずに毎日雨だったら良いのにと、彼女は思う。


「ユキちゃーん! お友達からお電話よー!」


 突然、階下から母親の呼ぶ声がした。


「はーい」


 家に電話をかけてくる程仲のいい友達は、クラスにひとりも思い当たらない由希子は、不思議に思いながら階下へと降りて行く。


「……もしもし?」


 由希子は訝し気に受話器を耳元に持っていく。


「……もしもし、吉田由希子さん? 同じクラスの遠山冬馬です。突然電話かけちゃってごめんね。実は今、佐々木さん、石川さん、ジンエー、あっ深水ね。と、スイミングスクールに行くところなんだけど、吉田さんも一緒にどうかなと思って……」


 いつだったか結子が社会の教科書忘れたとき、隣の席の冬馬が机を引っ付けて見せてくれたことを彼女は思い出した。そして、それから少しだけ彼と話すようになっていったことを。冬馬の屈託のない笑顔が、彼女の心の中に浮かんでくる。


「へー、そうなんだ、うん……でも……」


 由希子が返事を渋っていると、ガヤガヤと雑音が入ってきた。そして、受話器からりょうの声が聞こえてきた。


「もしもしユッキ? りょうです。サキもいるよ! アホの深水もここにいるよ」


「おい! オレが話してんだろー! 受話器返せって!」


「佐々木ー! なんでアホの深水なんだよ!」


「ちょっとー! 深水、佐々木って呼び捨てにしないでくれますー? ってか何で遠山くんばっかが話すわけ?」


「まあまあ、りょうちゃん落ち着いて。あ、ユッキ? 咲子だよ。今からユッキの家にみんなで行くから準備して待っててねー。ばいばーい!」


「あっ、ちょっと、待っ……」


 電話は突然そこでプツリと切れた。由希子は受話器を戻しながら、思わず笑顔になっている自分に気がついた。

 同じ班の皆の顔が浮かんでくる。内気な性格の由希子は、六月になった今でもまだクラスに打ち解けられずにいた。しかし、運動会の後の席替えで、ひとりでいた由希子にりょうと咲子が同じ班にならないかと、誘ってくれたのだった。


 りょうと咲子はよく由希子に話しかけてきてくれた。最近では、由希子の方からも自然と彼らと話すようになっていた。「友達」という言葉が、彼女の心の中に浮かんでくる。


「お母さん? クラスの友達が、これから一緒にスイミングスクールに行かないかって……」


 居間へ入ると、母親と父親が真剣な顔で何やら話し込んでいた。


「あら? ……そう? せっかくだから行ってらっしゃいよ」


 母親は由希子に背中を向けたままそう言った。


「学校の先生は一緒なのか?」


 寝転がってテレビを観ていた父親が、顔だけ持ち上げて由希子を睨む。


「あ、ううん、でも……」


「スイミングスクールには、ちゃんと水泳の先生がいるんだから大丈夫よ。ねえ?」


 母親が、透かさず由希子の代わりに答える。


「おまえは黙ってろ! オレは由希子に聞いてるんだ!」


「ちょっと、何なの子供の前で! 怒鳴ることないでしょう!」


「子供の前とか関係ないだろ! オレが話している時におまえが余計な口を……」


 その時、玄関のベルが鳴った。


「あ、もう来たみたい!」


 居心地が悪くなった由希子は、逃げるように玄関へと急いだ。


「おい! 由希子!」


「何よ、友だちが来たんでしょう……」


 両親の会話を背中で聞き流しながら、彼女は玄関の鍵を開けた。


「オッス! 吉田さん! 泳ぎに行こうぜ!」


「ユッキ、おはよー!」


「ごめんね、急で」


「吉田んちって結構でけーな」


 学校以外の場所で、たくさんの友だちと会うのは由希子にとって初めてのことだった。しかし、彼女の中では、嬉しい気持ちと、泳げない自分が一緒に行っても迷惑だという気持ちが入り混じっていた。


「あの……」


 由希子が断ろうとしたそのとき、咲子が瞳をキラキラと輝かせて言った。


「あのね、ユッキ、遠山くんがね、みんなに泳ぎを教えてくれるんだって! ユッキ、前に泳ぎ上手くなりたいって言ってたじゃん!」


「え、あ、うん、でも……」


「いや、泳ぎを教えるってほどのことじゃないけど……学校のプールがもうすぐ始まるだろ? だから、その前に軽く慣らしとこうかなーって思ってさ。みんなでプール行くのってすごく楽しいじゃん! それに、仁栄が先月からスイミングスクールに通ってて、そこすごくサービスがいいんだって!」


 冬馬は少し照れながら笑った。


「え? オレそんなこと言ったっけ?」


「どうでもいいでしょ、そんなこと! 行こうよ、ユッキ!」


 彼らのそんなやり取りをみていると、由希子は自然と笑顔になっていった。彼女の気持ちは少しずつ揺らいでいく。うしろの居間からは、まだ両親の罵り合いが聞こえていた。


「うん! ちょっと待ってて、水着取ってくるから」


 由希子は階段を駆け上った。

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