第19話 おじさんと矜持

 ウィザードは、ダンジョン内の見回りを行っていた。杖を後ろ手に持ち、背筋を伸ばして凛と歩く。浅い階層を歩いているので、ときおり冒険者のパーティーとすれ違った。名前を呼ばれ、ファンめいた冒険者に写真を撮られたりしながらも、ダンジョン内で誰かが困っていないかと探している。なにも起こらないのが一番だった。

 歩いているさなか、ふと、靴が緩んだ。

 靴紐が切れている。

 なんでもない現象。しかし、そのときばかりは、水に流せなかった。なにか悪いことが起きた気がする。黒い靴紐を結びなおす間、ふと思い浮かんだ人がいた。用心深い性格の、誰よりもダンジョンに精通しながらも、飾らず謙虚で、いるだけで安心できる安定感を持つ魔法使いの先輩。嫌な予感に、彼を心配せずにはいられなかった。

 

 メイド喫茶「グレイス・ハート」では、メイドたちがオープンの準備をしていた。

 ピンクのノートパソコンの前で、業者からの見積もりを睨んでいるのは、この店の店長だ。ホーネットと呼ばれる元冒険者は、舌打ちをしながら「高けーな」と言い、画面を見ている。アニメやゲームを取り扱う雑誌に広告を掲載しようとして、業者に話を持ちかけた。雑誌の真ん中に2ページほどのモノクロ記事を載せるだけで数十万もかかる。しかも、そのためにカメラマンに写真を撮ってもらったりする経費は抜きで。想定していたより高い金額だった。

「そんな金あったら、スタッフに金やるっつーの」

 悪態をつきながら、一度立ち上がり、綺麗に陳列された食器棚からお気に入りのティーカップを取り出す。

 手を伸ばした途端、音を立ててカップが割れる。

 このカップ、たしか……。

 ふと、思い出されたのは、最後にティーカップを使った人物だった。

 冒険者として一流だが、目立つことを嫌い、前線に立つことも嫌う小心者。なにか、悩んでいることはわかる。それを受け止める準備もある。そのために、女性としても、ひとりの人間としても独立した。

「大人になったら相手してやるよ」

 いつだって、何度だって思い出してしまう。やつの、そんなからかいを真に受けたアタシもアタシだ。その上、グレイス・ハートを立ち上げたときだって、自分の中の大人っぽさ「優美さ、上品さ」を意味する言葉をつけたとか、誰にも言えない秘密だった。

「ばかやろう」

 あいつの身になにかったんじゃないかと思うと、すぐに駆け出してダンジョンへ行こうとするアタシに、そうつぶやいた。


 黄昏に染まるダンジョンを、深紅に染める血が流れる。

 悪魔と冒険者が、激しい戦いを繰り広げていた。

 悪魔が召喚したモンスターの大群を、冒険者は単身で3度も跳ねのけた。

 冒険者である男の魔法使いは、悪魔に3度、手をかける。

 1度目。大群を相手取る最中、強襲するも、悪魔に攻撃を躱された。

 2度目は、敵の大群に広範囲魔法を複数回撃つことで、瞬時に消し去り、電光石火のごとく悪魔との距離を詰め、肉弾戦を行った。悪魔のローブを拳がかすめ、卓越した近接格闘術で、何度も追い込む。しかし、クリーンヒットは生まれず、距離を取られた。その上、モンスターを召喚され、振りだしに戻る。

 3度目は、少しずつ前線を上げ、悪魔ごとフロアを魔法で圧し潰した。しかし、悪魔に魔法は効かなかった。

 戦闘が開始してから、長い時間が経過している。強化魔法も4度、詠唱しなおしていた。

 男の魔法使いは無傷ではない。

 狼に左腕を噛まれ、血を流し、レッサーデーモンに殴り飛ばされ、壁に叩きつけられている。レイスの魔法弾が直撃し、至近距離で爆発を受け、身につけている装備はボロボロだった。

 熟練の冒険者は、決死の覚悟と不屈の心で何度倒れても立ち上がり、目の前のモンスターを屠る。

 その殺意は、悪魔から見ても、どちらが異形か、わからないほどだった。

 4度目、モンスターの大群に挑む。

 魔法使いの男は、少女を守るために立ち回る。

 男は、肩で息をし、顎が上を向いている。それでも、懸命に手を伸ばし、モンスターを倒す。

 だれが見ても、限界だった。

 勇敢な男に、今までの勢いはなかった。小賢しい知恵を持つモンスター相手に、時間をかけすぎた。悪魔の手先が、男の後ろで倒れ、動けない少女を狙い始める。

 少女は、その男の戦う理由であり、同時に弱点でもあった。

 守るための強さは、守られる者の身を案じると、発揮できない。

 悪魔の所業。個人を相手に物量での衰耗戦を仕掛ける。単身で波状攻撃を受けた男は、いま、はじめて後手に回る。もう、体力も魔力も残ってはいなかった。気力だけで戦うには、相手が多く、強すぎる。

 疲労と焦りが、鉄壁のごとき守りの綻びになる。精彩を欠く男に、魔物は慈悲無く襲い掛かる。

 下級悪魔による、人外の力での蹴りをくらう。大の男が、ボールのように、跳ね飛んだ。

 倒れたところを狼に噛みつかれる。右肩を噛みつかれ、鎖骨が折れ、鋭い歯が筋肉にぶちぶちと穴を空けながら、引き裂いた。

「っぐ、がああ。林檎は木から落ちる《ニュートン》」

 まだ、抗う。

 自分を含めて、辺り一帯に魔法を撃つ。動きの止まった狼を引きはがし、足に巻き付けていたフィックスドナイフを抜いた。少女を踏みつぶそうとする二足歩行のレッサーデーモンへ向けて、怒りの限りの声を出す。敵の喉元にナイフを突きつけ、強引に振りぬく。肩を砕かれ力が入らず、口で咥えて押し出した。

 男は初めて、膝をつく。

 あらゆる箇所から血が噴き出し、太ももや腕の動かない体で、モンスターを睨みつける。

 その姿に、モンスターは近づけなかった。とどめの一撃を与えれば死ぬとわかっていても、恐怖にしり込みをした。

 雑兵の頭は、非情に指揮棒を振るった。

 ローブを被った人型の悪魔が、前線に出てくる。手負いの獣の怖さを知る悪魔は、決して近づこうとしなかった。合理的に、死霊の魔法使いたちに命令を下す。遠くから、魔法を放つように、と。

 黒い大型の狼と、二足で歩く屈強な悪魔は、主の命令で後ろに下がる。

 空中を漂いながら、淡く光る死霊の魔法使いたちが集まりだす。

 結末を迎える。

 冒険者は悪魔に敵わない。結果を見ると、この場を支配する悪魔へは、一撃も与えることはできなかった。

 予想される結末では、少女を守ることもできなかった。

 レイスたちが、体の前で大きな幾何学模様の魔方陣を光らせる。青い光が濃くなり、淡くなり、冒険者と少女に終わりを与える。不気味な骸骨の顔は、光に影をつけられ、笑っているように見えた。

 男の冒険者は、地面を這う。

 最後を悟った男は、いままで自分の血ですら汚そうとはしなかった少女の元へと寄り添う。

 最後の瞬間まで、男は少女を守ろうとした。

 苦しみ息を荒げる少女と、死霊の魔法使いたちの間に入り、あらん限りの力で体を広げた。男の付けていた衣服は、とっくに弾け飛んでいる。守りの魔法もない。魔法使いは、血だらけの背中で魔法を受けるつもりだった。

 背後から襲う、強烈な死の気配から耐えながら、男は大粒の涙を流した。

 流れる涙は、少女に降り注ぐ。

 何度も何度も、声にならない絶え絶えの音で一つの言葉を繰り返す。

「ごめん」

 僕は、守れなかった。失敗した。だめだった。

 魔力を温存しておけば、まだ戦えたかもしれないのに。

 ユノが狙われるのは、まずいと気づいていながらも短期決戦を狙った。僕の誤った判断だ。

 無理にでも広範囲魔法を撃って、雑兵どもを蹴散らしておくんだった。

 イチかバチか、空間転移魔法を無理やりつかって抜け出すべきだった。

「ごめん」

 口にするのは何度だってこの言葉だ。僕はいつだって、自分の選択に後悔ばかりしている。

 どこで、間違ったのだろう。

 どこかにあったはずなのに。この場面から逃げ去れる一手か、悪魔を撃退できる一手がどこかにあったはずなのに、僕はたどり着けなかった。

 行為の代償を、僕とパーティーを組んでしまたばかりに、共に受けることになったユノ。


 もしも僕が、ユノを冒険者に誘わなかったら。


 この子には幸せで、楽しい人生を送る道があったのだろうか。

 お願いします。神様が、もし、いるのであれば。

 僕は地獄へ堕ちても構いません。彼女だけは、助けてください。

 彼女が、冒険者なんかにならず、幸せになってくれる道を選ぶことを。

 お願いします。

 後悔の涙で見えない目の前が、眩しくて目を開けられないぐらいに光った。

「死ぬ順番は間違えるな」

 最後にそう教えてくれた、雷帝の背中が思い浮ぶ。

 かけがえのない友人だった。僕をかばって、命を落とした、僕の大事な友人だった。

「悪いね、雷帝。僕は君みたいに、命をかけて誰かを守ることさえ、できなかったよ」

 眩しすぎて、目も開けられないようになる。それでも、死が僕らを引き裂くまで、ユノを守ろうと思う。

 死を迎えるそのときまで、僕は君の盾になる。

 僕に許された、最後の矜持だった。

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