第6話 黒い狼

 怖い。

 目を、あけられない。

 全身に力がグッと入って、息も止めていた。

 時が止まったかのような時間が、永遠に思えた。

 でも、目をあけたら、その瞬間、死んでしまうような気がして。

 体が悲鳴をあげる。

「っはあ、はあ、はあっ」

 悪い夢を見て、夜中にいきなり目が覚めたときのように、必死に息をする。

 恐怖。それが、私に呼吸をさせてくれなかった。

 あれ、おかしいな。

 肺に息が入る。息を吸うとお腹がふくらむ感覚がある。

 わたし、生きてる?

 生きてる。

 そう実感したら、目を開けた。

 眩しい。

 うん。眩しい。

 真っ白な視界。

 ぼやっとして、すぐに色を取り戻す。

 黒。

 黒い。

 さっきの魔物の黒は見るだけで嫌な気持ちになって、吐きそうになった。

 この黒は好き。

 目の前の黒色には、安心感があった。

 私は涙した。死にそうになっても、涙なんて出なかったのに。

 生きられるって思うと、涙した。

 ううん、また助けてくれたから?

「おじさんっ」

 こう呼ぶと、目の前の男の人は、体をビクッとさせながら、こちらを向く。

「今日は災難だね」

 そう、気さくに笑いかけられる。

 何気なく、自然に立つ目の前の人を見る。言葉の裏には「生きててよかった」っていう気持ちが込められているのが、すぐにわかった。

 あれ、私、忘れてる。

 いけない。気が緩んでる。

 モンスターは近くにいるし、ユウは危ない状態だ。

 ユウが倒れてるのを見つけた。地面に倒れてはいるけれど、目が合った。

 私は立とうとした。全身が痛む。なにしてるんだろ、私。

 周りのこと、全然見えてない。

 自分の事すらも。

 背中が痛む。

 腕も、足も、少し力を入れただけで、もうムリだって悲鳴を上げてる。

「僕に、任せて」

 おじさんは、視線をモンスターのほうを見つめて、私に言った。その横顔は真剣そのものだった。

「は、はいっ」

 私も、力が入った返事をしてしまった。

 おじさんの視線の先を追う。

 黒い狼が空中を浮いている。

 浮いて、回っている。

 ふわふわと、1メートルぐらい高い位置を漂っている。上下に揺れ動き、大きな体は右回りにゆっくり回転している。

 ぽかん。

 ふしぎな光景に、口が開いた。

 おじさんは、右手を前に突き出して言った。

「林檎は木から落ちる《ニュートン》」

 ドンッ。

 上から下へ。

 空中に黒い絵の具のボールが浮かんで、ダラダラと絵の具を垂れ流してるみたい。

 力が揃って、下を向く。大きな力が下に流れる。

 空に浮かんでいた魔物が、急に勢いがついて地面に堕ちる。そのまま、グチャっと潰され、消えていった。

 すごい。あの一帯だけ、歪んでる。目に見えて空間が歪んで、黒い線が上から下へ、滝が流れるように激しく、走っている。

 魔法。

 はじめて見る魔法に、私は胸が高鳴った。

 そんな私とは逆に、おじさんの顔は曇る。

 おじさんは、大きく息を吸った。

 くたびれた黒いロングコートをはためかせて、黒革のブーツで足音が響くぐらい強く、地面を踏みつける。

「天地返し《アラウンド・ザ・ワールド》」

 ダンジョンの広い通路。おじさんの前の空間全部が歪む。

 特徴的な黒い色が、なにもない空間から染み出して、地面に落ちていく。

 世界に亀裂が入ってるみたいだ。

 ゴゴゴゴゴッ。

 空間が歪むような音、迷宮が揺れている音にも聞こえた。

 すこしの間、続いた空間の歪みは、おじさんがふっと力を抜いたら、もとに戻る。

 シーン、と静まり返る。

「逃がしたか。いやな感じ」

 おじさんは静かに言うと、耳につけている通信機器を叩いた。

「もしもし、ウィザード? 見つけた。2人に回復魔法使い《ヒーラー》が必要だ。帰還する」

 おじさんは、そう言いながら、真剣にユウを起こす。首筋に手を当てたり、瞼を開いて確かめたりしていた。ユウは苦しげに「ううっ」と声を出す。

 私はユウの姿を直視できなかった。狼のモンスターに噛まれていたところから、ドクドクと血が流れ出ている。

 おじさんは、私を見つめて、耳を指さした。

 帰還してって意味に気が付く。

 脱出用の魔法具、飛翔の耳飾り《フェザーベール》を触りながら、かすれた声で呟いた。

帰還リターン

 ほんの少し、浮くような感覚があって、すぐに足が地面についた。ジャンプして、着地したときのような衝撃を、膝で受けとめる。

 自然に目が閉じていて、ゆっくり目を開ける。ギルドのとなりにある、ダンジョンへの門の前だった。ここ、明かりが、ダンジョン内と同じぐらいの明るさなんだ。

 戻ってきた。

 安心したら、どっと疲れた。

 なにかに寄りかかりたい。座りたい。このまま、寝ちゃいたい。

「ユノっ、ごめんねえっ」

 アオイの声だ。目が赤いのに、また泣いてる。

 あーあ、かわいい顔が崩れちゃってるよ。

 ぐすっ、ぐすっ。

 抱き合いながら、そんな声がする。震える肩も、甘い香りも生きてることを実感させてくれた。

 重い足音が聞こえた。

 ブーツの踵が、地面を鳴らす。

 冒険者の男の人が、ユウに肩を貸しながら、ゆっくりと近づいてくる。

 あれ、ユウ、自分で歩けるんだ。

 意外だった。

 さっき、地面に倒れていた時は、体のどこにも力が入れられないぐらい、しんどそうで。しかも、腕から血が噴き出しているような姿だった。

 今は、足を引きずりながら、どうにか歩いている。モンスターに噛まれた腕の傷も、血が止まっていて、そこまで大きなケガには見えなかった。

 ユウは、まだ顔に力が入っていた。あんな怖い思いをしたんだから、当然だよ。

「先輩っ」

 ギルドのほうから、男の人が走ってくる。私服姿の男性は、ウィザードさんだった。両手に大きなバックをぶら下げて持ってくる。

 おじさんはウィザードさんに軽く手をあげていた。

「もう、大丈夫だよ。痛い所は、どこかな?」

 ゆっくりと、落ち着いた優しい言葉でウィザードさんは、ユウに語り掛ける。ユウがぽろぽろと涙を流した。ウィザードさんが力強くユウの肩に手を置いて、ユウは体を震わせていた。

 アオイと私は、その姿を見ないように声だけかけて、ふたりでギルドの建物に戻ろうとする。途中で、ギルドの人に呼び止められて、私も回復魔法を受けた。痛みがすっと引いていく。

 その間に、ウィザードさんと、おじさんの会話が聞こえてきた。

「襲っていたのは、黒い狼。シャドウウルフの類で、ドロップ無し。召喚獣(サモン)だったよ。視線を感じて範囲撃ったけど、かすったぐらいの手応えしか無かった」

「わかりました。あと、先輩。あの力、使いましたよね。救命のためとはいえ、はあっ、今回だけですよ」

 そんな言葉に後ろ髪をひかれた。

 ギルドのロビーに戻る。椅子に座って、温かい飲み物をもらった。紙コップに入った温かいお茶。それが、とても美味しかった。

「待たせたな。悪かった」

 ユウが帰ってきた。

 泣き出して、謝りだすアオイと一緒に、3人で戻って来られたことを喜んだ。

 さすがに、いつも強気なユウも今回ばかりは懲りたみたい。すっかり大人しくなっていた。

「ユウくん、体、もういいの?」

 アオイがユウに聞いていた。包帯を巻かれている腕を触っても、痛くないみたい。

「あのすごい人に治してもらった後、ウィザードさんに傷を綺麗にしてもらって、回復魔法を受けた。もう、ほとんど治ってる」

 ユウがウィザード「さん」って、ちゃんと言ってる。

「冒険者って、すげーよ。俺はもう、剣を持てねえ」

「うん、うん。やっぱり、危ないよ」

 ふたりは、そう話していた。

「ねっ、ユノ。また、べつのこと、みんなでしようよ」

「剣を振り回すのは、ゲームだけだよな」

 えっ。

 違う。

 わたしと、違う。

 今回、うまくいかなかったけど、次はうまくいくよ。

 そう言って、またみんなでダンジョンに来れたらって思ってた。

 あ、そうか。

 これで、終わりなんだ。

 冒険、ここまでなんだ。

 私は心に嘘をつく。だめ、私がそんなこと言うと、2人が困っちゃう。

「うん、そうだね」

 乾いた心に、湿った言葉が響いた。

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