第22話 束縛の手紙

 いたずらに広い空間の中では、耳を澄ませても物音一つしなかった。あまりにも静かすぎて耳が痛い。この異様な静けさと、左右に並ぶ本棚には見覚えがある。


「国立図書館じゃね?」


 久しぶりの俺の言葉にネルシアはこくりと頷いた。国立図書館には何度かネルシアに連れてきてもらったことがある。


 東京ドームを縦に二個並べたような、白い箱型の国立図書館。俺が今まで訪れた図書館の中で群を抜いて広い。館内には多くの人が居たが、皆私語を慎んでいて、居心地の良い空間だった記憶がある。


 今いる場所はその場所に酷似していたが、どこか違和感がある。こんなに天井高かったか? 喋り声は聞こえなかったが、足音や衣擦れの音一つしないというのはどうもおかしい。いつ行っても、それなりに人はいたはずだ。


「……私たち以外の血の匂いがしない」


 ネルシアも同じ違和感を覚えていたようで、くんくんと鼻で呼吸をした後に怪訝けげんそうな顔をした。


 元はといえば、ネルシア宅から急にこの場所に連れて来られたのだ。何もないわけがない。そう思って周囲に警戒の目を向ける。


 その時だった。


「あ、チヨちゃん!」


 頭の中からひょっこりと顔を出したコシュアが叫ぶ。


「何言って……ん、うわあああああああああ!!」


 突然、俺の体が走り出した。


 いつの間にか、数メートル先に女性が佇んでいた。顔をカーテンのように覆い隠す黒髪は乾燥麺のようにちじれている。猫背のせいで前かがみになっている姿を見て、俺は一つの結論に至った。


 間違いない。彼女こそが「世界一かわいい彼女」だ。とめどなく溢れてくる彼女との記憶に、またもや俺は体の支配権を奪われてしまった。


 手を広げて、がむしゃらに走る。目と鼻から汁という汁が流れ落ち、我ながら見るにえない姿になっていると思う。


 すぐに距離を詰めて、飛びかかるように抱きつこうとした。端からみれば感動の再開みたいな構図だ。だが、その手は空を掴んだ。彼女の体をすり抜けたのだ。


「ぶぐうぅっっ!!」


 予定していた支えに裏切られ、俺の体は顔から地面に追突した。床が柔らかい絨毯じゅうたんでなければ、俺の高い鼻が削れて無くなっていたかもしれない。ありがとう絨毯じゅうたん、愛してるぜ。


 床に転がった状態で、遠くからネルシアが「大丈夫!?」と駆け寄って来ているのが見える。


 ただ、その前に「世界一かわいい彼女」が話しかけてきた。


「ナンバー2……私は、天国に行けますか?」


 おずおずとした口調だが、言っている内容は突飛なものだった。ナンバー2? 何の二番だ? 天国に行く? 宗教か?


 彼女の問いは、俺の口が答えてくれた。


「あぁ、お前は良い働きをした。ありがとう。今なら天国に行けるさ」

「ありがとうございます……!」


 感極まって彼女は涙を流し始める。どういう状況なのだろうか。必死に頭を働かせていると、次の瞬間、彼女は光の粒子になって弾けた。忽然と姿を消したのだ。


「どうなってんだよ……」


 またもや静寂が訪れる。


 チヨと呼ばれる彼女は、一体何者だったのだろか。触れない、俺じゃない俺と会話が出来る、忽然と姿を消す。最後の奴はニスが似たようなことをしていたが、最初の二つは見たことがない。


「あれ、生物じゃないよ。血の匂いがしなかったんだもん」


 ネルシアがぽつりと呟く。生物じゃなきゃ何なんだろう。幽霊だとでもいうんだろうか。


「とりあえずここから出ようぜ。不気味すぎる」

「……? なんか急に義人らしさが戻ったね」

「……俺らしさ?」


 どういうことだろうかと思ったが、しばらくして、「世界一かわいい彼女」に関する記憶がきれいさっぱり無くなっていることに気づいた。


「やった! 俺の体がもどってき……だ、アガァッ!?」

「何してるの!!?」


 開いた口に思いっきり俺の右腕がねじ込まれた。彼女に関する記憶が無くなったにも拘わらず、俺の体の支配権は完全に戻ってきたわけではないらしい。


 息も絶え絶えにもがいていると、しばらくして手が抜けた。そして、不思議なことにその手には一冊の本が収まっていた。黒の表紙に金色の線で蝶の羽のような模様が描かれている。小さな辞書ほどの大きさの本だ。


 さらにおかしなことは続く。俺の右腕が二つに分裂し始めたのだ。本を持つ方と持たない方。その分裂は右腕だけに止まらず、体中で起きた。俺の中から別の人が出てきたという表現が一番的確な気がする。


 俺の体から出てきた、紺のスーツを身にまとう男が口を開いた。


「『束縛の恋文セルビドゥ・ラブレター』。恋文を対象者に飲ませることで、手紙の内容をあたかも本当に体験した出来事かのように錯覚させる。手紙を飲まされた者は彼女に会うまで自我を失う。チヨの【特権】だ」

「誰だよ……お前」


 間違いなく、その【特権】と共に俺の体の自由を奪っていた者だ。


「ナンバー2。話の流れから分からないのか? お前、馬鹿なんだな」


 侮蔑ぶべつの目を俺に向けて、ナンバー2は右手に持つ本をコツコツと指で叩いた。

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