パートナーと私

 私はその老人をどこかで知っているような、全く知らないような不思議な感覚に襲われていた。

 まず最初に思ったのは、おじいちゃんにとてもよく似ているということ。

 でも、本当におじいちゃん?

 わからない。

 パートナーというその老人はうなだれたまま、どこか寂しそうな顔で私を見つめている。細い腕が苦しげに持ち上がり、私を抱きしめようとして、すり抜ける。

「ごめん」

 蚊のように細い声が、私に謝る。

「ごめんね……本当は、チサトちゃんのことを守りたかったのに……」

「私のこと、知ってるの?」

 答えはない。ただすすり泣くような呼吸がずっと、痛みに耐えるように続いている。

 やっぱり、どこかで知っているような気がする。

「ねえ、パートナー」私は聞いた。「この世界は、いったいなんなの?」

「見ての……通りさ」

 ふっと、息がこぼれる。

「チサトちゃんの、世界だよ」

 その声が紡がれると同時に、うっすらと光を放っていたパートナーの体に亀裂が走り、幽霊のような肉体が脆く崩れ始めた。

「パートナー!?」後ろで見ていた彼女が慌てて駆け寄ろうとする。でも、その彼女の体もまたシャボンのような膜に包まれ、宙に浮かび上がった。「え、な、なになに!?」

「……ごめん」

 また、パートナーは謝っている。その声は今にも消え入りそうで、よく見たら体も傷まみれのズタボロだった。

「あなたが、守ってくれてたの?」

 微笑んだような、泣いてる表情が、パートナーの顔に一瞬だけ。

「あなたが……連れてきてくれたんだね」

 私は、彼に手を伸ばした。すり抜けると思った手のひらが、微かな温もりをたたえた頬に触れる。

「ありがとう」

「……大好きだったよ、チサトちゃん」

 最後の言葉。

 存在が、霧散する。

 同時に困惑しながら空を浮いていた彼女の周りにも光の粒子が瞬いて、窓から流れ込んできた冷気のように、透けていく。「え、うそうそ……もうお別れ?」

「そうみたい」

「いやいやちょっと待って!! そんなのないって!!」慌てて私に差し出された手が、不思議なシャボンの膜に阻まれた。「モテるとかそんなこと言ってる場合じゃないじゃん!!! もっと言わなきゃいけないことがいっぱい、いっぱい……」

 また、彼女の瞳から涙があふれ出した。

「あ、あの、えっと、お母さんはいいお母さんだったよ!! 他の誰よりもいいお母さんだった!! よその話聞いたらどこの家もお母さんみんな怒りっぽくて面倒くさくて大変そうで、だから、えっと……っ!!」

 クスクスと笑ってる私に、まだ必死に語りかける。

「う、歌!! 歌!! お母さん歌うのむっちゃ上手だよね?! 私も最近動画サイトにこう、自分の歌投稿してみたら再生数ものすごいことになってて!!」

「動画サイト?」

「わかんなくてもいい!! とにかく今私すんごい追い風吹いてて、なんかテレビにまで出ちゃいそうな勢いで!! だけど!! 私ができることなんて全部お母さんに教えてもらったことで、しかもまだなんにもお母さんくらいうまくできてなくて!! みんながそれを知らないのがめっちゃ悔しいっ!! だから、ああ、ええっと、つまりつまり!!」

「…………」

「もう……何言ったらいいのかわかんないよ……」顔を伏せる。「せっかくまた会えたのに……」

 止めどない涙が、頬を伝っている。

 私は……もしかしたら、笑っていたかもしれない。

 うなだれている彼女の名前を、呼びかける。

 私にそっくりの顔が、ゆっくりと持ち上がった。

「お別れの前に、一言だけ」軽く右手を上げて、手を振った。「モテるけど付き合ったことないあなたに、まだお母さんじゃないお母さんからアドバイス」

「な、なに?」

 消えゆく彼女に、ピースする。

「セックスなんて大したことないよ」

 キョトンと、私そっくりの顔が固まる。

 ちょっと間を置いて。

 プッと吹き出して、素敵な笑顔で手を振った。

「……バイバイ」

 パンと、シャボン玉が弾ける。

 もう誰もいない。

 ただその声と存在の余韻を残して、世界にはまた、私だけになった。

 すうーっと、鼻から冷たい空気を吸い込んで、思い切り吐き出す。

 ……可愛い女の子だったな。素直でわかりやすくて、はつらつで健康的。こうして言葉を並べると私と似ても似つかないはずなのに、なんでこんなに、生き写しみたいにそっくりだと思えるんだろう。きっと心根というか、魂はとてもよく似ているのかな。

 そう……あれはきっと、私がなりたかった私。

 なれなかった私。

 自分が叶えられなかった夢を子どもに託すなんて、やっぱり私は最低だな。

 雪が振り続ける空を見上げる。いつの間にか世界は明るくて、淡く黄色に輝いた地平線がどこまでも続いている。

 また、会いたいな。

 会えるんだな。

「あはははは……」

 笑ってみたら、少しずつ胸が熱くなってきた。必死になって私に言葉を伝えようとしたあの子にとって、今日は「サヨナラ」を言う日だったんだろう。でも、私にとってはまだ「はじめまして」で、そして……。

 ズルズルと、雪面を何かが引きずる音。

 振り返る。

「ああ……よかった、君だね」

 血まみれの体から声が漏れた。

「我々はドレスが良く似ていたから、もしやと思ったが、生き残ったのが君で本当に……」

 私は、そのズタボロの彼に、拳銃を向けていた。

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