世界にたった一人の私2
彼はピタリと足を止めて、私にむけて両手をかざす。
「やめろ、撃たないでくれ」
「撃たれても死なないんじゃないの?」銃を向けたまま、そう聞いた。
「ああ……だが……」
「命、9つとも使い切っちゃった?」
しばらく、沈黙が流れた。
「そうだ、これが最後の命だ」腕を少しだけ下げて、私を見つめる。「……なぜチサトがその数字を知っている? この秘密は森の仲間たちの最も親しかった友ですら知らないはずなのだが……」
「猫の命といえば9つだよ」
「そうなのか?」クロネコは首を傾げ、丸い顎の下に手を添えた。「ふうむ……君は本当に私が知らないことをたくさん知ってるな。女とは頭が悪いと聞いていたが、もしかして、違うのか?」
「さあ、それは知らない」少しだけ銃身を下ろした。「ねえクロネコ……あなたが最初に会った女のこと、覚えてる?」
「最初とは、砂漠で石の悪魔たちに殺された少女のことかね」
「その人も、私と同じ顔だった?」
「もちろん」
はぁっと、暗い吐息が漏れた。やっぱり、そうか。この世界で6つに分かれた私のうち、最初の一人はとっくの昔に死んじゃってたんだな。
足元を見つめる。
この雪の
私は、たまたま生き残っただけ。
胸に左手を当て、心地よくさえある息苦しさを確かめる。ありがとうよりもごめんねよりもずっとずっと深い感情が、歌声のように強く心臓を動かしている。
私があの子に会いにいけるのは、他の誰でもない、私のおかげだ。
頑張ろう。
また、会いに行きたいから。
一歩ずつ。
少しずつ。
まずは、ついつい言っちゃったウソを、本当にすることから。
銃を下ろす。
「……撃たないのかね?」
「撃たないよ」はあっと、ため息。「だってまだ妊娠してないだろうし……」
「そうなのか」クロネコの目が細くなる。「なぜわかるのかね?」
「……ホントは入れっぱなしなの」私は答えた。
「なんだ、やはりそうか」クロネコは両手を腰に当てて笑った。「おかしいとは思ったのだ。どうして嘘をついたのだ?」
「あのときは、妊娠したくなかった」私は銃を捨てて、辺りを見渡す。「ここじゃ……できないよね。かまくら作るしかないのかな」
「かまくら?」
「……もう」私はため息混じりにクロネコに歩み寄る。「一緒につくろう。このままじゃ、寒くて死んじゃう」
「なあチサト」蛍光ペンの目がチカチカと輝いた。「それはつまり、私とセックスする気になってくれたということなのかね?」
その笑顔を見ていたら、また気が滅入っていた。
あーあ、またあれやるのか……。
「……そのガワ、
「ガワ?」
「中身の虫……苦手」
「虫?」クロネコは腕を組んで首をひねり、不意に「ああ」と人差し指を立てた。「それはもしかしてカゲロウのことかね」笑いながら自分の頭を引っ掴んでブチッと千切った。
また虫がいると思ってドキッとした私の目に映ったのは、角の折れた鹿の頭の骨だった。
「私は敵を丸呑みにするからね」どこから声を出してるのかはわからないが、クロネコは言う。「消化するまでは中に残るのだ。カゲロウはチサトと会う前に私が食った雄の一匹だよ」
「……その鹿も怖いよ」
「そうか」ベッと吐き出すように雪原に放り出す。「確かに、もう必要はないな。捨て置こう。さらばだセツ、恐ろしくも哀れな我が兄弟よ」
バラバラと転がったセツの遺骨が、溶けるように雪の下へ沈んでいく。
流浪の凶兆、クロネコ。
危険で凶暴で、結局この世界で一番強かった化け物。
でもきっと、この世界では一番マシで、優しい男。
「私は、君のことが好きだ」クロネコは膝をつき、口元を三日月の夜にニッコリと笑わせる。「チサト、今の君の笑顔は本当に可愛いよ」
「うん……ほら、雪集めて」
「ううむ、やはり容姿を褒めるのは無意味なのか。もう私には女のことがわからん。伝え聞いた話がちっとも役に立たないな」
「女にも色々いるの」
「男と同じようにか?」
「そう」
「なんだ、簡単な話ではないか」
笑ってるクロネコを見ていたら、私も笑えてきた。ホント、色恋もへったくれもない人生だったな。これがあの子の父親か……。
まあ、悪くもないか。
生き残って、子どもを妊娠して、それをお父さんとお母さんに伝えて、生んで……気が滅入るばかりでしかったはずの未来が、今は浮足立つほどに待ちきれない。きっととても苦労するだろうし、信じられないくらい大変だろう。
でもそれでもいいから、私は彼女に会いたい。
あと10年の寿命……頑張るぞ。
気がついたら私は、クロネコが見てるのも忘れて鼻歌を歌っていた。
覚えてる いつかの涙
忘れていた いつもの涙
明日世界が消えてしまえって 願った今日にも花が咲いた
凪いだ風 浮雲ひとつ
あなたの笑顔が目に浮かぶから
Sing a Song My Baby
いつかきっと
あなたの歌を
Sing a Song My Dear
いつか必ず
そっと 強く
私 あなたが大好きだったと
あなたに信じてもらえるように
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