誰かの私

セツと私1

 きっと階段から投げ落とされ砂の山を転げ落ちた私は、頭を打って少しの間でも気を失っていたのだろう。とにかく後頭部と首が痛くて、眠りが曖昧な夜のように思考が定まらないまま、これまでの記憶が夢のようにぐるぐると頭を巡っていた。

「君は、死んではいけないよ」

 セツはそう、私に耳打ちをした。

「君は死なないでくれ」

 彼はすぐに言い直して、私の肩に手を置いた。その尊大で、傲慢で、寂しそうな声音がずっと、耳の奥の方で思い出のように深く深くリフレインしている。

 ヒドい男だ。

 自分には種が足りないからって、私のこと、部下のゾンビに輪姦まわさせたくせに。

「生き残ってくれ、吾が花嫁」セツは私に、許しを請うようにそう囁いた。「誰か一人を残すために自ら死ぬのをいとわぬのが君の有りようなら……吾輩は、君がその一人であってくれることを望む」

 本当に、嫌なやつ。

 結局は私に子どもを生ませたいだけのくせに、私がどんな人間かだけは、ちゃんとわかってる。

 ……子どもか。

 もう本当に、お腹にいるんだな。

 じっとりと心が暗くなった。私の生理は、お母さん譲りで重たくて苦しい。きっと生むのはとても大変だろう。もし生き残っちゃったら、私はこの子はどうすればいいのかな。父親が誰であろうと、堕ろすのは本当に辛い。命に心が成る前に死んじゃいたいって、ここに来るまではそう思っていたのに……。

 先に死ねた二人の私が……少しだけ、羨ましいや。

 沈んだ気持ちを振り払うように体を起こしたら、めまいがした。まるで波に流されているかのようにグイグイと体がどこかへ押し出されていく感じがする。正直、ずっと眠っていたいくらいには気持ち悪かったけれど、やるべきことがあるときには人間って意外と頑張れるものだ。痛む頭を擦りながら自分の足で立ち上がり、辺りを見渡す。

 瓦礫の街のほとんどが、砂の海に埋もれて姿を消していた。

 ……砂?

 違う、雪だ。

 シャンシャンと、静かに雪が降り積もっている。空を見上げれば、白い粉雪が遥かな空から静かな流れ星のように幾つもまたたき落ちてくる。

 世界に冬が訪れていた。

 背後を振り返る。階段の舞台の中央にあった巨大な砂山は依然としてうず高く積もっていて、頂上付近ではセツとクロネコの争いが続いている気配がする。この廃墟が埋もれるほどに雪が積もったのなら、この砂山だってホントは低くなってるはずだと思うのだけれど、相変わらずいただきは雲を突くように高い。私たちが上っていったはずの階段も消えてしまったようだ。不思議だ、本当に不思議……でも、それぐらいの不思議がなんだっていうんだろう。そもそもこの世界なんて存在自体が異常でしかないんだし、そこに私以外の私がいるという事実と比べれば、これくらいの不思議は不思議でもなんでもない。

 血と肉を持った、私が6人。

 みんなこの世界に連れてこられるまでは同じ体験を分かち合っていた一つの魂で、そして別々の道を歩んできた6つの本物だ。

 2人はもう、死んでしまったけれど。

「君は死なないでくれ」

 また、セツの声が頭の奥に響く。

 ここにいるのは、みんな私だ。だったらもう、私がの命にしがみつく意味はないって、私たちみんなが思ったはず。

 でも、みんながみんな死んじゃうのは、もっと意味がない。

 だから私たちはみんな次の一歩を踏み出すのをためらって……ためらったお互いを見て、すぐに決断できたのが、あの二人。きっととても辛くて嫌な体験をしてきたんだと思う。

 なら……次はやっぱり、私かな。

 そう思いながら、さっきから私は自分の頭に銃口を押し当てている。

 だけど、引き金にかけた指をなぜかまるで動かせない。

 怖いから?

 そりゃ、怖いさ。死ぬほど怖い。

 でも、私はその怖さを踏み越えてしまえるってこと、私じゃない私がすでに証明してくれた。

「君は、死んではいけない」

 セツは私に、そう言った。

 じゃあきっと、そういうことなのだろう。

 セツのピンク色の瞳には魔法があって、彼の目に見つめられると私はいつも従うことしかできなかった。服を脱がされたときも、キスを求められたときも、セックスのときも……あの日迷い込んだ呪いの森で、セツとその眷属けんぞくたちに捧げられたあの時から、私はセツの”花嫁”だ。

 それでも……私に愛されようと藻掻いている死者の王の目には、確かの嘘偽りのない本当の私が映っているのも確かなのだった。

 ずるいヤツだよ……。

 私は銃をおろして首を振り、髪についた雪を払った。何はともあれ、私は誰にも殺されずに生きている。なら、私には確かめなきゃいけないことがあると思う。せっかく生かされているんだから、生きている私にしかできないことをやらなくちゃ……。

 ズウゥ……ンと、高いところから衝撃が響く。見上げた先で瓦礫が舞い、砂山が崩れた。

 ガラガラと、雪崩のように色んな破片が降ってくる。 

「ひっ……」

 頭をかばいながら必死で走り出した私の真横に、ズシンと2mくらいの巨大な石の塊が転がり落ちた。震動に足がもつれ、四つん這いになる私の周囲にさらに色々が降り注ぐ。ビルの破片、石の悪魔の半身、何かの腕、砂、砂、雪……。

 生まれたての子鹿のような足取りで、必死に逃げ惑う。衝撃に吹き飛ばされたのか自分から転がり込んだのか、雪面に突き刺さった巨大な看板の裏になんとか避難した私は、巻き上がる粉塵にむせて辛い咳をこぼした。

 同じような咳が、もう一つ。

 私と、誰か。

 とても近い。

 ゾクッとした。

 きっと、びっくりしてお互いに早く動きすぎたのだろう。互いを慌てさせながら反射的に構えた銃口の先にいたのは……、

 もちろん、反射的に銃を構えてしまったもう一人の私だった。

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