私とパートナー4

「じっとしていて……」

 私に覆いかぶさる、パートナーの声。

「ここでじっとしているんだ……君だけは、必ず守るよ……」

 言われるまでもなく、私は一歩も動けなかった。怖かったからだ。不幸な世界でも曲がりなりにも希望を見いだせていた私にとっては、迷うことなく自死を選んだ二人の姿は恐ろしく衝撃的で、不気味で、悲しかった。

 それが、今感じている恐怖の半分。

 もう半分は、もっと原始的なもの。

 クロネコとセツという二匹の獣もどきが始めた戦いの、そのおぞましさと激しさだった。

「クロネコを殺せ!!」

「殺せっ!!」

「ぶち殺せ!!」

「我らが王、セツ様のために!!」

 石の悪魔たちの声が重なる。

「クロネコを囲め!!」

「射掛けよ!!」

「総掛かりで仕留めるのだ!!」

 狼たちががなる声も。

 死者の王セツに支配された、石の王と獣の王の部下たち。みな本来の姿よりもずっと痩せた不気味なゾンビの姿で、次々とクロネコに襲いかかる。

 あの日暗い森で見た死者の宴は、やっぱり夢でもなんでもなかったのだ。

 猫の鳴き声。

 危険な響き。

 爪が光る。

 カマイタチのような疾風が駆け抜けて、クロネコに群がっていた石の悪魔たちが一瞬でズタズタに切り刻まれた。肉と骨と石の欠片が銃弾のように飛散し、青い狼の血が景色をペイントアートみたいに真っ青に染め上げる。

 クロネコ。

 暴力が形になったみたいに真っ黒な猫だった。

「昔を思い出さないかね、クロネコ」

 セツの声。

「あの日もこうして、吾輩は君が殺した森の全ての命を使い、君を殺した。あの時確かに、君は死んだはずだった」

 猛獣の唸り声。

 白い角を持つ鹿の幻影が、戦場に散らばる死骸の一つに息を吹きかける。

「クロネコ……死すべし……全ては我らが王のため……」

 砂の山から、瓦礫を掻き分けて、巨大な影が立ち上がった。

 ホムラだった。

 光を失った目でクロネコを睨むその太った体から、肉と脂肪がボロボロと崩れ落ちる。肋骨が剥き出しになるほどに痩せた、ハイエナに食い荒らされたみたいな姿でクロネコに飛びかかる。

 ぶつかる両雄。

 一撃で、ホムラの体が地に叩きつけられる。

 叩きつけられ、首を踏まれ、腕が引きちぎられる。

 私は歯を食いしばって、それを見てる。

 クロネコは周囲を睨みつけ、千切り取ったホムラの腕を凄まじい力で鹿の幻影の一体へと投げつけた。幻は霧のように消え、投げられた腕は怒涛のような砂煙を縦に走らせながら階段にぶつかり、真っ青な血と共に弾け飛ぶ。

「……君には、吾輩の姿が見えていないね」クロネコが腕を投げた方向とは反対側で、セツが笑う。「しかし、吾輩が君を支配できないこともまた動かざる事実だ。クロネコ、吾輩は君が恐ろしい。なぜ君は、死してなお生きているのだ?」

「なあ……セツよ」

 クロネコの声。とても低く深い、紳士的な響き。

「お前、女を抱いてみたかね?」

 一瞬の静寂しじま

「女の体は、脆い」クロネコは続ける。「小さく、暖かく、柔らかな体だ。この世界で散々に戦ってきた男たちとは明らかに違う、儚げな肌だった。不思議だ。それだけの単純な事実が、どうしてああも私の体をうずかせるのだろうね」

「…………」

「本当に、素晴らしかった。あんな愛おしさが他にあるかね? 何度でも味わいたい、至福の香りだった。確信できるよ、私は子どもを生むためではなく、女とセックスをするために今日まで戦ってきたのだ」

 …………。

「何が言いたい、クロネコ」

「お前には……それが、わからなかったんだろう?」

「ああ、わからぬとも」

 セツの声に、怒気がにじむ。

「吾輩を哀れな死者とあざけるのか? そうとも、吾輩は貴様に殺された幾体もの亡者の一匹だ。吾輩の舌はもはやなんの味もせず、触れた肌の柔らかさも分厚い布越しと感じられるほどに不確かだ。しかし、だからこそ吾輩はあの女を愛せるのだ!!」

 ガサガサガサと、足音が重なる。遠くで、近くで、廃ビルの上からも狼たちが弓を構えて舞台を狙い定めている。

「吾輩はセツ、微睡みを破る者、冥府の森の王セツである!! 命は消えども、ホムラが不干渉に乗じ手抜かりなく布陣した陣は生きている。この地に伏す死は全て、我が臣下だ」

 咆哮をたぎらせながらホムラがまた立ち上がり、クロネコにのしかかる。

「……て」

 風を切る音。

 降り注ぐ獣たちの矢。

 同時に石の悪魔たちが一斉に翼を立て、鷹が蛇を狩るようにクロネコ目掛けて急降下する。

 空を覆い尽くす火矢の雨。

 グゥウゥ……と、クロネコが鳴いた。

 赤熱する矢がマチ針のように、ホムラもろともクロネコにズタズタと突き刺さった。

 すぐに、矢が砂丘を埋め尽くす。

 私たちの上にも。

 息を止める。

 ドドドドドと怒涛のような衝撃が、私を庇って伏せていたパートナーの背に降り注いだ。

「パートナー!?」

「……大丈夫だ、だい、じょう……ぶ……」とぎれとぎれな声。「わ……私に守れるのは君だけだ……私に任せてくれ……頼む……」

 パートナーは、私のことを命がけで守っている。

 だけど……。

「ねえ、パートナー?」

 私はささやくような声で聞いた。

「パートナーも、男なんだよね?」

「…………」

 私は庇われながら、自分のお腹に……股に手を当てる。

「……いつなの?」

 沈黙。

「もしかして、揺りかごで揺らしてくれてたとき?」

「私は……」

「怒らないから教えてよ……」声が、震えてる。「今、ここで死んだ二人は……知ってたから、覚悟ができてた。ねえ、私もそうなの? 知らないのは一番嫌だよ……」

「違う……違う」強い力で、抱きしめられる。「私は……ここにいる他の男とは違うんだ……私は……」

「…………」

 バチンと、ゴムが弾けるみたいな音。

 叫び。

 ぎょっとして視線を戻した先に、細長い棒きれのようなものが舞っている。

 片腕だ。

 セツの片腕が宙に舞い、その白い血が飛沫となってばら撒かれていた。

「バカな……」セツの、苦しそうな声。「クロネコ、貴様……」

「見つけたぞ、セツ……」火矢の針山から這い出したドロドロの黒い塊が、不気味な声を上げて笑っている。「私はクロネコ、流浪の凶兆……闇すら飲み込む黒き影……死が、お前だけの味方だと思うなよ」

「撃て!! 我輩ごと撃ち殺せ!!!」

 牙。

 悲鳴。

 また、火矢の雨。

 パートナーの体からボタボタと何かが滴り落ちてくる。

 赤い血だった。

「きゃあ!!?」

「……証明する」

 低く、濁った、パートナーの声。

「私は誰よりも……君の味方だ、チサトちゃん……」

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