私とパートナー3

 そこはひどく不気味な雰囲気をたたえた暗い森だった。青白く背の高い針葉樹のような木が並んでいて、赤黒い枯れ葉が絨毯のように平坦な地面を満たしている。背後に広がる荒涼とした砂漠と違ってじっとりと命が根付いている気配はするのだが、それがかえってこの世界に似つかわしくないような感じがして、背筋がざわざわと落ち着かなかった。とはいえこれ以上足跡の残る砂漠を歩くのも危険な気だろうし、パートナーの不思議な力だっていつまで続くかわからない。とにかく、奥まで分け入るのはよそうとだけ考えながら、私はゆっくりと暗い針葉樹林に足を踏み入れた。

 ザッザッと、葉を踏みしめる音。

 寒風。

 肩を抱きながら私は進む。なんというか……ものすごく、シンプルに怖かった。うっかりネットで怪談を読んでしまった夜の外みたいだ。不思議と息を潜めたくなる警戒心とか、無駄に足早に歩きたくなる焦燥感とか……でも、急いだところで今この世界に私が帰るべき安全な家はないのだ。そう思ったらますます怖くなってきた。

 ああ、吐きそう……。

 グラっと足元が揺れる心地がして、視界が暗くなる。やっぱり、そろそろ無理がたたってくる頃だろうか。普段インドアな私からしたら考えられないくらいもう動きっぱなしだ。そんな場合じゃないことくらい痛いほど知っているけれど、できればもう何も考えずに眠ってしまいたい……ねむい……。

 チリィンと、遥か遠くで不可思議な鈴の音。

 足を止める。

 あれ。

 私、どっちから森に入ったっけ?

 後ろを振り返る。

 森。

 おかしいな、森の中から何かが出てきたらすぐに逃げられるように外周沿いを歩いていたつもりなんだけど……。

 一瞬の困惑の後、私は私が入り込んでしまった森がどんな性質を持っていたのかを思い知る。

 やばい。

 冷や汗が背中を伝う。膝が震えてきた。まずい、怪談とか言ってる場合じゃなかった。どうしよう、どうやってここから出よう? というか、そもそも出られるのだろうか? 

 この森にもミョウジョウのような”男”がいるのだとしたら……。

 ザワザワっと、足元の枯れ葉が揺れる。

「……はじめよう」

 声がした。聞いたことのない、ひどくしゃがれた男の声。

 突然、止まない風が背後からびゅうびゅうと吹き始めた。森のどこか一点に向って空気や熱が吸い込まれて、枯れた葉が生き物みたいにズルズルと地面を這い回る。

 とっさに近くの木に背中を預けてへたり込んだ私は、恐ろしいものを見た。

 目の前に、鹿が一匹……角が白くて、体が透けている赤茶けた色の鹿が立っている。

 その鹿が、地面にキスをする。

 枯れ葉の下から、何かの腕がズルっと這い出した。肉がほとんど削げ落ちて骨ばかりになった4本指の手が何かを探るように葉を掴んでいる。

 足首を掴まれそうになって、慌てて引っ込める。

 手はしばらく虚空を彷徨っていたが、やがて地面に手のひらを置き、突如、眠りから覚めるように一息に立ち上がった。

 巻き上がる枯れ葉。

 羊かヤギのような頭骨を持ったスケルトンのグロテスクななり損ないが、土の下から蘇るように顔を出した。

 あっちで、向こうで、似たようなむくろたちがいくつも地面から這い出てくる。

 キイイイイっと、甲高い鳴き声。

 顔を上げる。

 ミョウジョウの部下、石の悪魔が私に向かって一直線に飛んできた。

 思わずぎょっと身構える。

 だけどそいつは紅の目を真っ赤に光らせながら、私の真横をかすめてすっ飛んでいってしまった。体からこぼれ落ちた石の欠片が足元を転がってくる。

「ハハハハ……」

 小さな笑い声。

 頭に枯れた花をつけた小さな妖精が駆け抜けていく。

 遠くには、肉が削げた狼たち。

 叫び声。

 鳴く音。

 讃える歌。

 リビングデッドの声が呪いの森の中をぐちゃぐちゃに満たしていく中に、私は確かに、誰かが泣いているのを聞いた。

 女の子の悲鳴だった。

 悪寒。

 突然、ドシンと地面が揺れた。

 枯れ葉の絨毯が盛り上がり、下から絶滅した巨大な哺乳類のようなゾンビが、周囲の木を根こそぎ倒しながら姿を現した。

「我らが、死の王……冥婚の時……」

 バタバタと、頭上から何かが降り注いで、私の首にぶつかり地面を転がった。

 死んだネズミだった。

 ウジが笑ってる。

 悲鳴を上げながら木陰から這い出した私は、見た。

 鹿の頭を持つひどく不気味な男が一人、死体をべて作られたかがり火に照らされて佇んでいるのを。

「愛しているよ……我が花嫁……」

 嗄れた声。

 また、悲鳴。

 かがり火の前には十字架のようにも見える不穏なカカシが突き立てられていて、痩せっぽちの裸の女がそこにはりつけにされている。

 あれは……。

 背筋が凍る。

 あれは、私?

 泣いている私が、群がる屍骸に食われるように嬲られていて……。

「なぜ、お前がここにいる?」

 突然、目の前に黒い化け物が出現した。夜より暗い羽根を持つ、大きなフクロウのような悪魔。

「お前はまだ……ここにはいないはずだ」

 頭痛。

 視界が歪み、悲鳴を上げる。

「見ちゃ、ダメだ」

 ブツンと意識が切れた。

 死者と灰の匂い。

 温もり。

 揺れ。

 私を運ぶ誰かの手。

 パー……トナー……?

 風。

 光。

 雨粒。

 ザアザアとノイズのように打ち付ける雨音を聞きながら、私は冷たい岩肌の上で目を覚ました。

 呼吸が浅い。

 心臓が痛い。

 命が枯れたって感じられるほど憔悴し切っている。

 今のは……。

 体を起こした私は、自分がたった一人で森の前に寝転んでいたことに気がついた。森の木々は風に揺れ、赤い枯れ葉を砂の世界に置き去りにしながらじっとしている。

 ……夢?

 そんな気がする。

 そんなわけない気もする。

 わからない。

 暗い空には相変わらず星のような光が幾つも瞬いているが、雨を降らせそうな雲がじわじわとその領土を広げている。

 立ち上がろうとして、そのまま倒れかけた私は何か、大事な何かを見逃したみたいな不安感を胸に抱えていた。

 今のはいったいなんだったんだろう。

 悪夢?

 それとも、この世界の不思議で不気味な魔法の一つ?

 何もわからないほど頭は混沌としていたけれど、恐怖と悪意だけは、べっとりと脳裏に焼き付いてしまっている。まるで身近な誰かが殺されたみたいな、とても大切なものが心臓から奪われてしまったみたいに嫌な気分だ。

「パートナー……?」

 不安のあまりにつぶやいた声も、どこかへ消えていく。

 ……ここにはいられない。

 いたくない。

 よろめく体でなんとか歩き出した私は、何となく、お母さんと二人でだけ歌ったことがある歌を口ずさんでいた。

 Sing a Song……Baby……

 いつかきっと……

 えっと。

 えっと……。

 あれ。

 なんだっけな。

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