私とパートナー2
目を開いた私は、すぐに息を止めた。目の前にミョウジョウがいて、部下のガーゴイルの頭を今まさに打ち砕いたその現場だったからだ。
「消えただと……? ふざけるな、女にそんな力があるものか。この城まで連れてきておいて逃げられるわけがない」
「女が逃げた! 女がいない!!」
「女逃げた!!」
「ミョウジョウ様から逃げた!!」
「んなこたあわかってんだ砂利どもっ!!」
ミョウジョウの腕の一振りとともにまたガーゴイルが砕け、石の欠片が飛び散った。灰が舞い、残骸が転がる。
「……ジジイを起こせ。奴なら知恵がある」
「おお、コケイシ様!!」
「コケイシ様を呼ぶのだ!! 急げ!!!」
イライラしながら退出するミョウジョウに従って、石の悪魔たちもバラバラに散っていく。私は口に手を当てたまま背後の壁によりかかり、緊張でバクバクする心臓を押さえながらじっと固まってしまっていた。
私……バレてない?
「君の姿は今……奴らには見えていない」
背後から優しい声がした。パートナーの声だ。
「でも完全に隠れられているわけじゃない。できるだけ静かに、ここから抜け出して……」
できるだけ静かに……と、口の中で呟く。
「急いで」
小刻みに頷いた。
私は背中の壁に手を這わせ、スルスルとゆっくり、だけどできる限りの速さで横に歩き始めた。異常な緊張感だ。ドッキンドッキンと鳴る胸が思考を妨げて、とっさに正しいことをできる気が全くしない。だからこそ急ぎすぎず、でもこんな場所から抜け出したい一心で、扉が開けっ放しだった石の牢を抜けて暗い廊下を進んでいく。どこに出口があるのか、どこから抜けられるのかなんて全くわからないけれど、止まっているよりは自分の足で探したほうがマシだろう。途中で聞こえた「外を探せ!!」の声と、その後に慌ただしく目の前と飛び抜けていったガーゴイルたちの後をついて石の城を上っていく。
やがて、砂ぼこりの混じったざらつく風がかすかに肌を撫で始めた。雨上がりの路面のように冷たい香りが外を予感させる。階段を上っていったら、広い空間に出た。削られた鍾乳洞のように白くガタガタの壁面と、
嫌な予感を感じながら、誰もいない空間をおっかなびっくり進んでいって、恐る恐るふちに立って下を見る。
広大な砂漠。
切り立つ崖。
風雨に削られた荒々しい岩肌が目に入った。
後ずさる。
無理だ。全然無理。とても飛び下りられる高さじゃない。私を探して城の周りを哨戒している悪魔たちがまるで点のようだ。下まで何メートルなのかはわからないけど、観覧車のてっぺんから下を見下ろしたときの景色だってきっとこんな高さじゃなかっただろう。そりゃ空を飛ぶ化け物たちの通用口なんだから、人間にとってはただの身投げ台にしかならないのは当たり前か。でもどうしよう、他に出口なんてあるだろうか? 私がここに連れ込まれた時だって、最後は石の悪魔たちに担ぎ上げられて無理やり運ばれたし、地上を歩く生き物が出入りできる場所そのものがあるかどうか……。
宙吊りに運ばれたときの、今にも取りこぼされそうな恐怖感を思い出して背筋が凍る。やっぱり駄目だ、ここからは降りられない。別の道を、せめてもっと低い場所から……。
来た道を戻ろうと振り返ったら、カランと奥の方で石が鳴った。ドキッとして脚が止まる。
ミョウジョウの白い顔と赤い目が、私が上ってきたのとは違う階段の向こうに光っていた。
やばい。
「秘紋の中央に、お座り下され」しゃがれた老人の声。「石けらの命など軽いもの……女の行方を知るためなら、幾らでも儀に捧げましょうぞ……」
息を呑む。どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
「とんで」
背後で、声。
とぶ?
「時間がない。ここでは近すぎる。後ろにとぶんだ。早く!!」
突然、腰が抜けそうなくらいの恐怖が這い上がってきた。だけど目前ではミョウジョウが曼荼羅模様の真ん中に座禅を組んでいて、怪しげな呪文と共に空気がビリビリと振動している。
「……信じて」
私は息を止めて、転ぶように情けなく空へ向かって飛び出した。足場を失い、重力が風になって体を包み込む。
反転。
空。
高速で遠ざかる。
私がさっきまでいた巨大な穴から、水紋のように不安定な揺らぎが
目を閉じて、わけもわからず頭を庇って落ちていく。叫ぼうとしていたような気がするけれど、体に酸素が足りなくて、それがとても苦しかった。
風。
距離。
空。
音。
やがて死を予感したくらいで、私は何かにぶつかった。地面じゃない。もっと柔らかいゼリーのようなエネルギーが私を受け止めて、崩れながらも着実に私を受け止めていく。
プツン、プツンと、泡のはじけるように優しい音。
さっきまで見ていたあの夢のように淡い香り……。
沈んでいく。
私が目を開いて、頭上にずっと遠くなった空を見つけたのはきっと、完全に地面に静止してから1分くらいは経ってからのことだったろう。
「起きて」幾分弱々しく感じられる、パートナーの声。
私は恐る恐る体を起こす。震えているけれど、思ったよりもずっとちゃんと動けた。
「今、私にできることは……ここまでだ」小さな声に振り返る。そこには幽霊よりも淡い輪郭でうっすらと、あの老人のようなパートナーが座っていた。「でも、大丈夫……少し休めばまた……どうか、私を信じておくれ……」
「うん。ありがとう」立ち上がろうとして、クラクラしてまた一回だけ尻もちをついて、そして立ち上がった。「いたた……体中ゴワゴワだ」
砂をほろおうとした私は、このとき初めて、自分が見慣れない服を着ているのに気がついた。軽い素材の、あの毛布のように地味な緑色のワンピースだ。
「……この服も、あなたが?」
「ああ……」
「あなたは、誰なの?」
「弱い……男さ」今にも消え入りそうな、小さな声。「君を守ることしか、できない男だよ」
「そう……ねえ、パートナー?」また聞こうとしたときにはすでに、彼の姿はどこにも見えなくなっていた。
不思議なことだ。
なんでこのときの私は、彼を少しも疑わなかったのだろう。
頭上を飛ぶ石の悪魔たちは今も慌ただしく空を駆け回っているが、まだ私のことを見つけていない。つまり私の姿は見えないままってことでいいのだろうか。とにかくあたりを見回してみたら、左手の崖沿いずっと奥に木々が鬱蒼と生い茂っているのが見えた。砂漠をまっすぐ抜けるなんてゾッとしないし、ひとまずはあそこを目指してみようか……。
歩きながら夕日を受けて飛ぶ悪魔たちの影を眺めていたら、なんとなく、お母さんのお葬式のことを思い出していた。あの日もこんな夕焼けで、カラスがたくさん空を飛んでいていたのを覚えている。
私は、お葬式が嫌いだ。その時嫌いになった。そこで行われる何もかもが、死んだお母さんとあまりにも関係がないことばっかりで、心底うんざりしたのだ。意味を感じないお経、全然着たくない服、滑稽な作法、お別れの言葉……こんなものが弔いであるはずがないって、子どものくせに変に冷めてイライラしてしまっていたのを覚えている。だから私は悲しんでいるふりをして、何もかもできるかぎりやらずに済まそうとしてたっけ。
でもあの日……私は確かに、自分の力で生きようって思った。
思ったはずなのにな……。
「……チサトちゃん」
ふと、記憶の彼方から声が蘇る。遥か昔、お母さんの葬式の時に私をそう呼んだ誰かの声。あれは確か、もうボケちゃって目も耳も遠くなっていた
どうして今、そんなことを思い出したんだろう?
大事なことすら思い出せない不確かな精神状態のまま、私は暗い暗い森に向けて歩みを進めていた。
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