私とパートナー
私とパートナー1
痺れるような痛みを予感していた私は、目を閉じて、何かを待っていて……。
いつの間にか、浮いている。
そう感じた。
温かな毛布に包まれているみたいにゆったりと風が流れていて、甘い香りがどこかから漂って……そして、揺れている。なんだか思考が定まらない。ここはどこだろう。石の悪魔は、ミョウジョウはどこに?
痛みも、ない。
薄っすらとまぶたを開けた私は、小さなゆりかごの中にいた。子どもの頃によく使っていた緑色の毛布に
「色合いが大人しいのは、お母さんの趣味かな」
どこかから声がする。
「子どものための毛布なら……普通はもう少し可愛らしい色を選ぶような気がするんだがね」
「そうかもしれない」緊張もなく、スラスラと言葉が喉から滑り落ちた。夢を見てるみたいだ。「でも私は、こういうのが好きだった」
「お母さんと同じでかい?」
「そう……お母さんと、一緒」
ふっと目を見開いた。見たこともないほどきれいな星空が、頭上で燦然と輝いている。上も横も、きっと下も、無限に星空が広がっているんだろう。
首を横に向ける。
私が寝ているゆりかごを揺らしているのは、白く痩せた小さな老人だった。
「あなたは、誰?」
「私は、パートナーだ」老人の口元が、痙攣するようにわずかに微笑んだ。「この危険な世界から、君を守るためにここにいる……」
「そうですか……」
目を閉じて、揺られるがままに身を任せる。本当に懐かしい気分だ。自分でも覚えていなかったくらい古くて、微笑ましくて、でも忘れてない。お母さんにおんぶか抱っこしてもらうか、あるいはこのゆりかごで揺らしてあげないと私は寝なかったって、お母さん笑ってた。
だから、こうして揺られていると思い出す。
かすかでも確かに、お母さんのことを……。
「……聞かせてくれないか」パートナーは苦しげに言葉を紡ぐ。「君のお母さんが、どういう人だったか」
「わからない」目を開けて答える。「もう、だいぶ前に死んじゃってるし」
「そうか……」
夜空に星が浮かび上がるように、たくさんの写真が私たちを囲い込んだ。私とお母さんの写真だ。白い産着に包まれた私を抱いているもの、肩車、幼稚園、入学式、そして全くなんでもない日常の1ページ……。
写真の一枚を、細く枯れた指がつまんだ。「……この写真は?」
目を細めて、くすっと笑う。「レゴブロックで遊んでるとこ。昔好きだったおもちゃ」
「これは?」
「自作のマイクで熱唱してる。そっちのは粘土で作った……なんの生き物だろうね、覚えてない」
「この犬は?」
「ああ、ビンゴ……私が生まれる前からお母さんが飼ってた子。私が4歳になるくらいまでは生きてたかな。あ、その写真……」
パートナーが持っていたのは、ブランコに乗っている私の後ろでお母さんが笑っているごく普通の写真だった。でも、二人の顔が一番きれいに映ってたから、今でもずっとリビングの見やすいところに飾られている。
「顔は、よく似ているね」パートナーは言う。
「うん」
「とても若いお母さんだ」
「若かった」
「キレイだ。君にそっくりでね」
「……似てないよ」
「そうかい?」
「だって、お母さんは私を生めたんだから」
笑うような、かすかな咳払い。私も笑う。
「……お父さんの写真がないね」低い声。
「お父さんは、いない」私は答える。
「いない?」
「私、レイプで生まれた子どもだから」
揺れが止まる。
一瞬だけ。
静寂が流れて。
「……そうか」
また、ゆっくりと揺れ始めた。
「ハッキリとは、知らないんだけどね」気まずくはなかったが、取り繕うように会話を繋ぐ。「お母さんからは、お父さんが誰か知らないってしか聞いてない」
「ああ……」
「でも、それくらいわかるよ」
「そうなんだろうね」
まどろみの中で、自分が生まれた理由を思う。最低な形で宿った命だったはずの私のこと、お母さんはどう思っていたんだろう。
愛していた?
本当に?
親は子どもを無条件に愛するもの?
本当に?
少なくとも、私にはそんな常識はまだイメージできないし、そもそも愛してるって言葉自体好きじゃなかった。なんだろう、本当は素晴らしい言葉なんだろうけど、それはとっくの昔に社会や政治に汚されてしまっていて、意味が変わってしまってる気がした。
こんな風にものごとを捉えるのも、きっと全部お母さんの影響だろうな。
愛してるじゃなくて、大好きって何度も言ってくれたお母さんの……。
「君は、お母さんが好きだった?」パートナーが、私に聞く。
「……うん」
「いいお母さんだったんだね」
「いいお母さんだった」
じわっと、涙がにじんできた。お母さんは私と同じで体が弱かったけど、私を生まなければきっともっと長く生きていられただろう。それでも、ソファの上で私の手を握ったまま眠るように息を引き取ったお母さんが最後に私に言った言葉は、ありがとうだった。
ああ、なんかホントに泣けてくる。
いいお母さんだったなぁ……。
しばらく、私は一人で泣いていた。嗚咽を漏らすような激しい涙じゃない。静かだけど止まらない、感情をとろかすロウソクのようにゆらゆらと溶けていく涙。深く熱い息を吐きながら泣いている私を、パートナーはずっとゆりかごを揺らして待っていた。
感情が落ち着き、少しずつ頭が冴えてくる。
「……私にも、わかるかな」呟いた。
「何をだい?」
「私も、子どもを生んだらお母さんの気持ちが……」
子どもを生む……この世界で。このどうしようもなく残酷な砂漠の上で、モンスターに怯えながら、命を授かる。
そうすれば、私にもわかる?
「諦めないで」
パートナーの優しい声。
「咲くために生まれる人もいれば、枯れるために生きる人もいる。君がこの世界にいるのは、諦めるためじゃない。信じて」
顔を上げる。
信じる?
何を?
「……チサトちゃんをだよ」
「え?」
プツッと体から何かが離れ、全身に重力を感じる。
「さあ、目を覚ます時だ。状況は少しもよくなっていないし、君を待ち受けるものは未だ過酷な体験ばかりだ。それでも私はできうる限りの力で君を助けよう……さあ。目を開けて」
冷たい風を感じ、私は目を開いた。
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