ムラサキと私

ムラサキと私1

 降り止まない小雨の音がシトシトと耳をくすぐっている。私は草原の中に数本だけ生えた枯れ木の一本に寄りかかったまま、いつの間にか気絶してるみたい寝息を立てていた。手が縛られているせいで姿勢は苦しいが、恐怖に任せるままにこんな遠くまで歩き続けた憔悴の方がずっと大きかったのだろう。うつらうつらと見た夢の中で、黒い猫の魔人が異形の悪魔たちを皆殺しにする映像が何度もフラッシュバックしていた気がする。

 本当に、なんて恐ろしい世界。

 これから私はどうすればいいんだろう……。

 すっと目を開ける。本当はいつまでも寝ていたいけれど、こんな危険な世界で安眠なんて望むべくもないことくらいわかっていた。そもそもこんな野晒しで熟睡なんかしちゃったら、あとでひどい風邪をひくに決まっているのだ。

 血が巡らないままゆっくり立ち上がろうとしたら、草原のつたが足に絡んで軽く尻もちをついた。なんだか間抜けな感じがしてほんの少し気が楽になる。どこまで行っても私は変わらないな。蔦を解こうと無理やり足を引っ張ったが、解けない。それどころか不思議と余計に絡みつく。ぼんやりと更に身をよじろうとした時、首に何かの抵抗を感じた。あれ、なんだろう、なんでこんなところにまで蔦が……。

 突然、首に巻き付いていた蔦が吊り上がり、私の体を無理やりに引き釣り起こした。一瞬だけ喉をキツく絞められて、鈍い苦痛と痙攣が全身に走る。

 な……っ!?

 パニックになりかけた頭を、すぐに落ち着ける。

 ……当たり前だ。こんな何がいるかもわからない世界で居眠りなんかしちゃったんだから、どんな目に遭ったって不思議じゃない。

 首を絞められた余波でゼヒゼヒと咳き込みながら、涙のにじむ目を開ける。見下ろした草原の中から、頭に花の冠を載せた虫のような目の妖精たちが私を見上げてクスクスと笑っていた。

「見てみて、今度はアカが女を捕まえたよ」

 妖精の一体が甲高い声でキーキー叫ぶ。

「違うよ、アオが脚に絡んだんだよ!」冷たい何かが私の足の指を掴んだ。「うえっ、カサカサだ! 女なのに柔らかくない! これ偽物だよ!」

「偽物だ!」

「殺しちゃえ!!」

「うそおんな!!」

 首に巻き付いた蔦がまたにわかに引っ張られ、私の悲鳴を押しつぶす。

「がっ……!?」

 まっ……くるしいっ……ほんとに、死んじゃう……。

「落ち着けよリトルズ。これも女だ。ムラサキはちゃあんと知っている」

 高いけど、どこか低い響きを持った少年の声。同時に今までワーキャー騒いでいた妖精たちの声が一斉に静まり返り、首を締めていた蔦がするっと緩んだ。

 ゼーゼーと全身がすくみ上がるような咳に悶えながら目を見開いた私の前で、たんぽぽみたいな胞子がグルグルと渦を巻いていた。どこからか現れた淡い光を放つ緑の葉がゆらゆらと揺れて集まり、たばなり、白い人型を形作っていく。

「おはよう、桃色のお姉さん」

 また少年の声。

 微風。

 葉と光を束ねて私の目の前に現れたのは、妖しくもゾッとするほど美しい顔をした植物の少年だった。背丈は多分私と同じくらい。植物で編まれた服を着ているのか、それとも体が全部植物なのか見分けがつかない体なのは周りの小さな妖精たちの同じで、髪の毛が白い花弁でできているのもやっぱり一緒だった。

「僕はムラサキ。あはは、根を張る声のムラサキだよ」妖精は鐘のような笑い声を上げながら私に迫る。「ようこそ僕らの花園へ。不機嫌な顔のお姉さん、名前はなんていうのかな?」

 まだ咳を続けていた私の口に、するっとムラサキは細長い指を差し入れた。

 舌に苦い指が触れる。

 同時に、液体とも糸ともつかない何かが私の中に入り込んできた。

 ゾッと寒気がする。

 私は……私は、チサト……。

 コヅカ・チサト。

「チサトちゃんか。いい名前だね。よろしくね」

 ……え?

「ねえ、チサトちゃん。チサトちゃんは……」

 好きなものとか、ある?

 私は……歌うのが……。

 あれ?

 待って、なにこれ?

「さて、なんでしょう。なんだと思う?」

 とてつもないほどに、悪い予感。

 ムラムラと胸の奥から恐怖が沸き起こってきた。

「怖い? 怖いよね?」

 僕は、

「ムラサキ」

 根を張る声の、

「ムラサキさ」

 私は、悲鳴を上げていた。腕がちぎれたみたいな金切り声だった。

 自分の心の中で、違う誰かの声がする。誰かがいる。

 最悪だって思った。

「ハッハッハッハッ、そんなに嫌なの? 傷つくなあ」

 私の耳を掴み、中に細い糸を差し入れながら、ムラサキという妖精は信じられないくらい意地悪な笑顔を貼り付けて顔を寄せてくる。

「傷つくけど、でも、怯えたその顔は素敵だよ……」

 僕は、根を張る。

 こうやって頭をくすぐれば、思い出だって見えるんだ。へえ……狼とクロネコから逃げてきたんだ。虫が嫌いなの? ん、これはガッコウの思い出? 隣で手を繋いでるのが、もしかしておかあさん?

 やっ……。

「やめ……」

「ん?」

 やめて……お願い……。

「やめてほしい?」

 私は泣きながら、押さえつけられた首を必死で縦に振っていた。体中に小さな妖精リトルズたちの手が這い回り、クスクスと私をあざ笑っている。

「やめてほしいなら、もっと態度があると思うなあ?」

 でないとほら、もっと……。

「や……めて……ください」

「やだ」

 ぐっと、いじめられた時のような涙がこみ上げてきた。

「あっはっはっは!! 何その顔? ちょーかわいい!!」

 ねえ、そんなに嫌なの?

 そうだなあ、じゃあ……。

「じゃあ、かわりにこれから僕の言うこと、なんでも聞く?」

 …………。

 はい。

「オッケー!! じゃあこれで決まりだね」

 突然足の蔦が緩み、地面に投げ出される。首に繋がった蔦で無理やり上半身を起こされ、見下ろすムラサキを、見上げさせられる。

「じゃじゃーん、みんな喜べ! 今日から、チサトは」

 僕らの、

 玩具おんなだ。

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