クロネコと私4
「すまないねチサト……私はいつだって油断がすぎる」
シャリシャリと不気味なノイズを伴いながら、クロネコだったものが喋る。クロネコの闇が剥がれた下から姿を表したのは、ウサギのような耳を生やしたカマキリのような生き物だった。殻は緑色だが、赤黒い毛が密集し太っているかのように連なるさまは蛾のようにも見える。口吻をモゾモゾと動かしながらヨダレを垂らすその姿は、虫や爬虫類が苦手な私にとって、致命的なまでに受け入れ難い悪魔の形相だった。
悲鳴を上げようとする。だけど酸素が足りない。息を吸うことすら難しいほど、恐ろしい。
「私は油断がすぎるし、君たちもまた無粋がすぎる」クロネコだった虫の声。「初めてというのはいつだって要領が悪いものだ。私も集中して周りが見えなくなる。君たちのような愚か者どもの襲撃にすら気がつけないとは全く不覚なことだ。やれやれ、お前たちは既に皆殺したと思っていたのだが……」
「クロネコだ!! 奴が起きたぞ!」
「なぜ生きている!?」
「殺した!! 俺が殺したはずだ!!」
「お前はもう死んでいるはずだ!!」
声が連なる。みな腹や脚を撃ち抜かれているが、まだ生きている。生かされてる。
「私は、死なない。それが私の力だ」クロネコだった虫が、食虫植物のように大きく口を開けて、笑う。「そしてこの秘密を知った男は一人を除き殺し尽くしてきた。さあ、ホムラの飼い犬ども、それは私の女だ。どいてもらおう」
虫の手が、私に覆いかぶさっていた狼の体を引き剥がし、頭上高くにまで持ち上げた。圧迫されていた胸が開放され、一気に酸素が体を駆け巡る。
クロネコだった虫は……持ち上げた獣の手足をおもちゃのようにぐしゃっと折りたたみ、そのまま迷うことなく丸呑みにした。
何かが無理に砕ける音。ジュージューと肉が溶ける嫌な音と匂いが充満し、呑まれた狼のくぐもった悲鳴が銃声のように辺りに響き渡った。
私もきっと、叫んでいた。
膨らんでいた虫の腹から水風船に穴を空けたみたいに黒い泥が吹き出す。その泥が粘糸のように虫の体を覆い、粘土工作のように黒い肉体を形作っていく。
虫は
やっぱり、地獄のような景色だった。
そのおぞましさから目をそらした時……私はようやく、自分がまだ生きていることに気がついた。肩がひどく痛む。ガクガクと震える脚で立ち上がろうとして、よろけてそのまま床にへたり込んだ。手が動かない。そういえば、腕を縛られたまんまだった。少しだけ藻掻いてみるけれど、とても私の力じゃ解けそうにない。
悲鳴は続く。
虫が狼を二体まとめて呑み込んで、そして作り出した泥が段々とクロネコのシルエットに変わっていくのを眺めながら、私はただ、絶望的な気持ちで笑っていた。泣いていた。
これが、この世界の男たちなんだ。
これが私の……運命。
ホント、どうしようもない気分だった。もうとっくに人生なんて諦めていたけれど、まさかここまでひどい未来が待ち受けているなんて思ってもみなかった。私はどうしたらいいんだろう。死ねばいいのか? あの荒野で野垂れ死んでいた誰かのように、私も野垂れ死ぬしかないのだろうか?
それが嫌なら、こんな砂ばかりの世界で、化け物の子を生むしか……。
耳の奥に赤ちゃんの
身を
女神の聖母像が描かれていたステンドグラスが割れて、外の景色が見えていた。おそらくはさっきの発砲劇の最中に砕けて粉々になったのだろう。雨露に濡れたエメラルド色の木々が誘うように甘く木の葉を揺らしていて、木陰には雪のように白い角を持った牡鹿が一匹、
また、涼む風。
膝で立ち上がり、振り返った。クロネコは狼たちを一度に呑み込みすぎたのか、ノロノロと腹を重たそうにしながら両腕で残りを一体ずつ押さえつけている。2、3、4……狼の悪魔はまだ5体は残っていて、クロネコから逃れようと這いずり藻掻いている。
ここにいる誰も、私のことを見ていない。
それに、ガラスが割れた窓枠は小さくて細長くて、きっと私以外では抜けられないだろう。
ツバを飲む。心臓がドキンドキンと早鐘を打っているのがわかった。
……そんなバカな。
今私が一人で逃げてなんになる? 私は一人じゃ何もできやしないって、ついさっき思い知らされたばかりだろう。私は弱い。弱いから、願いの全てなんて叶えるなんて諦めなきゃいけない。ただ与えられた最悪の選択肢の中から少しでもマシなものを選ぶだけ……それが運命。
だけど。
それでも。
よろめく脚で私は立ち上がった。
私は……私はやっぱり、こんな形で自分の子どもを生みたくなんてなかった。生むわけにはいかない。だって、それは私の運命じゃない。私がひどい目に遭うのは仕方がなくても、私は、私から生まれる命のはじまりをこんな場所に落としたくなかった。
わかってる。ほんとは私は、まだ何も諦めるべきじゃない。
割れたガラスを避けながら、歩き出す。
一歩。
二歩。
ああ……やっぱり、怖いな。何が待ってるかわからない世界に、一人で逃げるなんて恐ろしくないわけがない。どうせならここでクロネコに気付かれてしまえば……なんて、また負け犬じみた考えが頭をかすめている。歯向かう選択はできないけれど、辛い今から逃げる選択にならズルズルと引っ張られてしまう自分が間違っていること、誰よりも私が知っているはずなのに……。
別の世界に生まれ変わっても変われないダメな私を撫でるように、また、冷たい風が涙に濡れた頬を凪いだ。
Sing a Song my Baby
いつかきっと
あなたの歌を……
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