クロネコと私

クロネコと私1

 雨の上がった灰の砂漠の上に、濁った雨水が廃水のようにたくさん泥濘ぬかるんでいる。水って、流れたり降り落ちているあいだはどんなにキレイでも、どこかに留まって時間が経つと触りたくもないくらいに汚れを吸って黒く濁ってしまう。流れるのを止めた存在は、私のようによどむだけ。

「まずは、そうだな、ありがとうと言っておこう」

 二人並んで歩きながら、化け物たちから私を救ってくれた奇怪な男は隣の私をチラとも振り返らずに大げさな仕草で礼をした。彼の名はクロネコ。少なくとも私にはそう名乗った。

「つまりは、ふむ、私を信じてくれてありがとうということだ」クロネコは続ける。「ここいらの連中はみな頭が悪く遠慮がない。特に石の悪魔どもときたら……見たまえ」

 やや遠くの彼が手で示した先、石の残骸が散らばる真ん中にズタズタの袋のような何かがある。最初は赤黒く汚れた米俵のように見えたが、そこに長い黒髪がかつらのようにビタッと濡れて張り付いているのに私は気がついた。

「あれは前の女であり、私の失敗だ」彼は言う。「奪い合いのさなかに死なせてしまった。狂乱した石の悪魔たちが奪われまいと強引なことをしてね……助かる見込みがなかったのだ。それにしてもむごい有様だ。奴ら馬鹿だし女も見たことがなかったろうから、死んだ女の腹からは子が生まれないと気がつくまでに時間がかかったのかもしらん」

 私は、きっとそこに落ちているであろう誰かの亡骸なきがらをしっかりと見つめることはできなかった。自分の置かれた状況の最悪さや、突きつけられた惨たらしい世界観を受け入れたくなくても、もう全ては起きてしまったことなのだ。

 全てはもう……。

 お腹の中で何かが動く気配がして、立ち止まる。

「……ん、どうしたのかね?」

 クロネコの声。

 耐えかねた私は膝から崩れて、その場に吐き出した。

 人が、殺されてる……しかもきっと、それはもしかしたら、私だったかもしれない誰かだ。人間は誰だって精一杯に大きくなる。生まれて成長して、色々食べて風邪をひいて、笑ったり泣いたり思い出を作ったりして……。

 その結末が、これ?

 ふざけるな。

 ふざけるなって言いたいのに……。

 死か。

 私は、ずっとぼんやりとだけど、自分の人生の終わりを自殺だと想い続けていた。寿命まで人生を続ける気力なんてあるわけないし、生きたくもない。そんな私でも、死ぬのはまだ怖いのだろうか?

 わからない。

 わからないけど、こんなところでこんな死に方をするのはやっぱり嫌だ。最悪だ。

 とても……可哀想だ。

 げえげえと汚い声を上げて、胃の底の泥を吐き尽くす。ゲロは小さい頃から吐き慣れているけれど、そのたびに立ち上がるのも億劫なくらいに体力を消耗してしまう。弱い。本当に弱い。めまいを感じながら顔を上げたら、クロネコの丸く大きな目がそこあって、私の青い顔を真っ直ぐに覗き込んでいた。

「ご、ごめんなさい……」呟いたつもりの言葉は、きっと細すぎて彼の耳には届かなかっただろう。

 クロネコを名乗った彼には、人間の顔がなかった。人の頭があるべきところには漠然と大きな球体を形作る黒い闇があって、そこに猫ような短い耳が生えている。目と口はそれらしき裂け目の上に蛍光ペンで形を描いたみたいな偽物だった。着ている服は黒いタキシード。格好はいいのかもしれないが、この寂れた砂漠にはひどく不釣り合いである。

 ひとまずは異形の悪魔たちを薙ぎ払い、私を助けてくれた彼。しかし彼もまた、この世界で私のような雌を奪い合う雄の一匹なのだという。女を奪い合うなんて、そんな、響きだけでも耳をふさぎたくなるような不愉快な世界に私は放り込まれてしまったのだ。もう私に人権はないし、自由もない。生き永らえる自信や望みもあるわけがなかった。

「美しいね」不安と怖れから三度目のゲロを吐いた私に、彼は一言、そう言った。

「……え?」

「ん? おや違うか。では、ああ……可愛いね、かな」

「…………」

「むむむむ……ふむ、やはりわからないな、私には」クロネコはその奇妙な瞳をぐっと細めて、私の頬に手を添えた。「女は気分屋だと聞いている。容姿を褒めれば機嫌は治ると言う話だったのだが、駄目かね?」

 私はどんな顔をすればいいのかわからず、呆気にとられてクロネコの瞳をまじまじと見つめ返してしまった。同時に胸の奥のどこかに、懐かしい嫌悪感も思い出す。

 女。女か。

「私は……」言葉が喉につかえる。

「ふむ」

「私は……人間です」

 なんとかひねり出せた言葉は、それだけだった。

 クロネコは怪訝そうに私を見つめたのち、諦めたように肩をすくめて立ち上がりそっぽを向いてしまった。その、どこか幻滅したような態度にも少し傷ついた。気安く肌に触り、先入観を疑わず人に迫り、期待と違う答えが返ってくると理解より先に軽蔑する、悲しいほどにありふれた大人の姿。

 でも……同時に変な話だけど、ほんのりと気が楽になった。自分の今の立ち位置がわかったというか、どうでもよくなったというか。普段だったら脳みそに鉄が詰まったみたいに感じる偏見の目も、こんな状況なら全部受け入れる以外選択肢がない。

 ……否。

 本当はもう一つだけ選択肢がある。

 私は目を閉じて、右の拳をぐっと握りしめた。指先に、幻のようにかすかな金属の感触を覚える。

 これは、私の銃。

 念じれば手の中に現れる、この世界で私に与えられた一つっきりの確かな選択肢ギフト

 なぜこんなものを持たされているのかは、わからない。でもこれで自分の頭を撃ち抜けば、少なくとも、全部終わりにしてしまうことはできるようだ。

「ところで、まだ君の名を聞いていなかったな」クロネコは私を振り返らずに、辺りをしきりに警戒したままそう聞いた。

「……チサトです」答えながら、慌てて銃をしまう。しまうと言っても、念じれば勝手に消えてくれるだけなのだが。

「チ・サ・ト?」

「コヅカ・チサト……です」

「そうか。改めて私はクロネコだ。そう呼ばれている」

 私たちはほどなく砂漠を抜けて、白く濁ったガラスのような樹木の並ぶ森の中に分け入った。エメラルドのように美しい葉が雨露に濡れて薄っすらと神秘的に輝いているが、地面はまだずっと灰色の砂で、無命の静寂が森のとばりを虚しく埋めている。5分ほど進んだ先に、朽ちた美術館のような白い建物が見えてきた。半分しか残っていないアーチ型の門へ向けて白いレンガの道が続いて、左右には首の取れた猫か犬の石像が3つずつ、計6つ並んでいる。

「あそこで問題はないかな? チサト」出し抜けにクロネコがそういてきた。

「……え?」

「ダメかね? そうなると今度はかなり遠くまで行かねばならない。石の悪魔の縄張りは抜けたが、この先は呪いの森だ。迂回せねばなるまい」

「あの……」

「しかし森とは反対側に回ると今度はホムラが待ち構える獣の谷だ。また奴らと事を構えるのは骨が……いや待て、そうか、もしかすると、君にとっては私も奴らと同じで敵なのか? むむ、すると君が嘘をつくことも考えねばなるまい。君、今まで私に嘘をついたかね? 名前は本当にチサトか?」

「そんな、嘘なんか……」喉がつかえる。「あの、何を……おっしゃっているのかがよく……クロネコさんの住処すみかに向かっているんじゃないんですか?」なんとか丁寧な言葉を絞り出した。

 ぴたっと、クロネコは足を止めて振り返り、私をまっすぐに見下ろした。クロネコは背が高い。180cmなんか余裕で超えているようで、150あるかないかくらいの私とは随分と差がある。

「……ごめんなさい」口をついて、また謝罪してしまった。どうせその言葉も聞こえていなかっただろうけど。

「ふむ、あそこは私の家ではないが、寝床の一つではある」クロネコは語る。「私が訊いているのはつまり、君もあの場所で寝られるかということだ」

「寝る……」

「セックスとは、できるかぎり屋根の下で行うものなのだろう?」

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