クロネコと私2

 少し狭いコロセウムみたいなミュージアムの真ん中に、崩れた天井から白い陽の光が差し込んでいる。私は現実から逃れるように、陽だまりに咲く場違いなほどキレイな新芽を一心に見つめていた。

 先からずっと、自分の鼓動の音しか聞こえない。呼吸が固体になって口から飛び出しそうだった。

 本当にバカバカしい。何がって、自分の認識の甘さだ。今ならなんでも受け入れられるなんて思っていた少し前の私が信じられない。最悪だ、なんでこんなことになってしまったんだ。いったい、どうして私が……お母さん……。

 無意味だ。

 悲観したって仕方がない。意味を問うても理由なんてない。

 でもやっぱり、私が今から犯されるなんて、意味がわからない。

「チサト」

 クロネコの声。全身が硬直する。

「君は先程、自分が人間であると宣言したね」

 クロネコは少し離れたところでガザゴソと何かを探しながら、よく響く大きな声で私にたずねた。

「チサト、人間とはなんだ? たとえば君にとって、私は人間かね?」

 泡立つ心をなんとか沈めて、クロネコを見つめる。

「……人間です」

「ほう」クロネコは偽物の口を三日月のようにくっきりと笑わせた。「意外だね。少なくとも私には、君と私はまるで違うように見える。だが確かにいくらかの共通点はあるだろう。無知な私に聞かせてほしい。人とは、なんだ? 五本の指か? 二足歩行で歩くことか? それとも、漠然と共通したこの頭身か?」

「人間は……」

 返事に窮する。人間とはなんなのか、はっきりとした説明なんて思い浮かばない。だけど、人間という言葉が本来意味するものは体の形ではなく、心の形を示してるのは確かな気がした。神話の中の神も竜も、物語の中で人間を憎む妖精エルフたちも子鬼ゴブリンも、みんなみんな間違いなく、ただの人間だ。だけど……。

「話したり迷ったりできるのは……人間だけです」結局私の口から出てきたのは、誰でも思いつくようなありふれた意味のない言葉だけだった。

「そうか」クロネコははじめから興味などなかったかのようにぶっきらぼうに返事をし、ズルズルと何かを引きずって私の前に立った。「ふむ、これで問題ないな」

 白いマットレスだった。汚くて硬そうで、大きい。上にバサッと薄いレース地の黒いドレスが広げられる。「着替えだ。同時に私と君との契約の証ともなる。この世界のルールだ」

 私は膝を抱えたまま、上目遣いにクロネコを見据えた。

「この世界には男しかいない。女の存在は我らにとっての悲願だ」クロネコは仰々しい仕草で、私の背後のステンドグラスを指差す。青いガラスを背景に、赤子を抱く女神の像が美しく描かれている。「君や君のような女が流れ着くよりはるか以前から、私たちはこの時を待ちわび、争い、殺し合い、そして淘汰されてきた。私はクロネコ、流浪の凶兆クロネコである。この地の女を巡る生存競争を己の力のみで生き抜き、勝ち抜き、そして幾度いくたびもの失敗の果てに今、ついに君を手に入れた。クロネコは、このドレスを持ってチサトに求愛する」

 ひざまずき、無遠慮に私の両手を握る。

 鳥肌が立つ。

 その声も、

 手の温度も、

 気持ちが悪い。

「どうか、私の子を生んでくれ」

 声の毒気にあてられながら、心臓が汗をかき始めるのを感じる。いつもだ……誰かに手を握られると、キューっと視界が暗くなって、普通に呼吸ができなくなる。昔、まだ私が幼稚園に通ってた頃、近所に住んでいた知らない男に手を掴まれたまま町の中を真夜中まで連れ回されたトラウマが今でもずっと残っているのだ。

 でも、この手を払いのける度胸すら私にはない。

 気がつけば、涙が頬を伝っていた。悲しいとか怒りとかじゃない。心や体が行き詰まると、いつも勝手に涙が出る。ひどいときは体育の長距離走でへとへとになっただけで泣いていたこともある。私が一番大嫌いな私のさがだった。

「む?」

 ぐっとクロネコが顔を寄せてきた。

「……泣いているのか?」

 泣いているのかと、問われるのは辛いことだ。なぜかはわからないけれど、それは泣いてる私にとって一番して欲しくないことだ。

「クロネコさん……」私はできるだけゆっくりとクロネコの手から自分の手を逃し、泣いてる私を無視してもらえるように、無理やり喉から声を絞り出した。

「ん?」

 深呼吸。

「私に……それ断ることって、できるんですか?」そこまで一気に、言い切った。

 シィーンと、クロネコの真っ黒な顔にノイズが走る。

「断る?」曇ったクロネコの声。

 私はもう何も言えなかった。泣いてるとき無理やり喋れるのは、いつも最初の一言だけ。

「つまり……私と子を作らないということか、ふむ」

 クロネコは私から手を放し、自分の顎をさすりながら私を見下ろした。「なぜかね?」

 なぜ?

 なぜって、そんなの……。

 つばを飲み込もうとした私の首に、突然、クロネコの太い手がかかる。

 息が止まり、心臓が跳ねた。

「ひっ……」

「なぜチサトはそんなことを言うのだ? 女は、そういう生き物ではないはずだ」

 ギュッと、胸が苦しくなる。

 ひどい言葉だ。

 最悪だ。

「君は私がこの世界で手に入れた女だ。君は今から5分以内には服を脱ぎ、30分後までには確実に私の種をはらに宿す。それだけは決して揺るがない」

 引っ張られ、マットレスに押し倒される。重たい体と筋肉の厚みが私を抑えつけた。

「やっ……め……」

「私は君のために出来得る限りの努力はしよう。寝床も食べ物も約束する。安全も保証しよう。私は君のことをとても大切に思っている」

 黄色い口から舌が伸びて、私の鼻を舐めた。

「お前は、私のものだ」

 弱々しく、体が抵抗する。それを絶望的な気持ちで上から眺めているような気分。怖すぎて、体が言うことを聞いてくれなかった。

「……チサトがセックスを拒むなら、やむを得ない。私は多少強引にでも君を組み伏せよう。痛いのが嫌ならば……そこで大人しくしているがいい」

 ……最悪だ。やっぱりだ。こんなことなら、クロネコに助けられる前に、あの化け物たちに殺されてしまうべきだったんだ。

 心が枯れていくのを感じる。私は、処女だ。当たり前だ。男を嫌いとか思ったことはないけれど、男と女っていう価値観のほとんどは大っ嫌いだ。意味がわからない。いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、こんなの嫌だ、無理やりなんて最低だ……。

 キュッと目を閉じて、私は拳を握りしめた。

 手のひらに銃の重さを感じる。

 この世界で私に与えられた、たった1つの選択肢。

 体を押さえつけられたまま、私はそれをゆっくりと持ち上げて、クロネコの頭に銃身を向けた。

 撃て。

 そう、頭が体に命令する。

 犯されるのが嫌なら、撃て。

 自由がほしいなら、撃て。

 撃て。

 撃て。

 撃って、そして……、

 バカバカしい。

 私が抵抗して、よしんばクロネコを殺したとして……それでいったいなんになるんだ。こんな世界で、私一人で生き残れと?

 無理だよ、そんなの。

 弱いし。

 私は結局、持ち上げた手を地面に投げ落としていた。私には撃てない。当たり前だ。無理やり服をめくり返され、背中に押し付けられる体温を感じても、私は抵抗も何もできないままカタカタと震えて時が過ぎるのを待つだけなのだ。

 ほんと、弱い。

「すまないね。私は頭でっかちで、理解が遅い」耳元で、クロネコの荒い吐息。「故に、まずはすべてを丸呑みすることにしている。君のその苦痛も拒絶も、君が語った人間の定義も、今の私にはわからない。だが言葉は覚えていよう……そうすれば、いずれは理解できるだろう」

 聞こえない。

 聞きたくない。

「ああ、いい。これは素晴らしい」

 耳をふさぎたくなる、低い声。

 死ね。

 死ね。

 今そこで、死んでしまえ。

「なんという柔らかさだ。女の体というのは素晴らしいものだな、チサト……」

 クロネコが呟いたその一瞬に、ジュバっと、何かが弾ける音が鳴った。

 硬直。

 震動。

 熱い液体が、私の顔に向けてドロリと降り掛かった。

 何が起きたのかわからずパニックになりながら、目を開ける。

 何者かに砕かれたクロネコの頭が、形をなくし、ドロドロと私に向けて溶け出していた。

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