世界にたった一人の私
小村ユキチ
プロローグ
プロローグ
始まりはきっと、なんでもない毎日の1ページの中だったんだろう。薄暗い部屋の中で天井を眺めていた、砂漠のように真っ平らで希薄な人生の1ページでしかなかったあの日のどこかで……。
あの頃の私は全てを諦めていた。
窓の外を見つめればいつだって外は曇っていて、見下ろした世界に好きなものはなかった。どこへも行きたくなかった。世界が怖かった。自分なんかなんの意味もない生き物であると確信していた。
だけど、そんな私でもあの頃はまだ若くて、幼くて、未来があっただろう。鉢植えで育てていたペンタスの花はちゃんと咲かせられたし、親がいない時間にこっそり歌を歌ったりもしていた。歌うのは好きだ。下手くそかもしれないけど、大好きだった。
生きている間に見つけられたささやかな「好き」の積み重ねが頼りなく私の心臓を動かし続けている、そんな夏だった。
Sing a Song my Baby
いつかきっと
あなたの歌を……
声が途切れる。
空から雨が落ち、水滴が頬を
黒い羽の残像。
寒い……ここはどこ?
凍える肩を抱きしめて、息を吐き、恐る恐る世界を見回す。
一面、平らに広がる灰色の砂漠だった。机も家も何もない。ザアザアと冷たい雨が灰色の砂を打ち付けて、染み込んだ水が蜘蛛の巣のように粘っこく大地を這っている。くぼみに点々と生まれた水たまりの中にはそれぞれ一つずつ真っ黒なバラが咲いていて、そのうちの一輪が膝下でじっと私を見上げていた。
おずおずと体を避けて、顔をこする。濡れている。冷たい。痛い。息は熱い。膝にはザラザラと砂の感触。子供の頃遊んだ砂場みたい。夢じゃない。
でも……現実とはとても思えない。
細く頼りない足で立ち上がり、顔を拭って周囲を見渡した。おどろおどろしいほどの寂しさが広がる冷たい砂漠の上に、テレビの砂嵐みたいな雨の
下を向いて歩いていたら、不意に暗い世界に影が差した。
顔を上げる。
翼を生やしたガーゴイルのような化け物の群れが、空から私を見下ろしていた。
「……女だ」
不気味な声。ノイズをかけてハチャメチャに歪ませたみたいに狂った声音。
「女だ! 女だ! 女だ!!」
「報告!! ミョウジョウ様に報告セヨ!!」
バチバチと羽ばたく音が重なり、奇怪なほどに丸い瞳が真っ赤な光を放つ。
「見つけたぞ!! 人間の女だ!!」
「我らの子を生ませるのだ!!」
「報告!! 捕獲!! 報告!! 捕獲!!」
「女を捕まえろ!!!」
私は、化け物たちに背を向けて一目散に走り出していた。疑問も迷いも選択肢もなく、ただ逃げた。心拍が今まで聞いたこともないような早鐘を刻んでいる。
ウソでしょ……!?
信じられない、なんでこんなことに? いやだ、どうしよう、私の脚で逃げられるわけなんて……。
耳を切り裂く風の音。
髪を捕まれ、肩に猛禽のように凶暴な爪が食い込む。
「いっ……!?」
内臓が痺れるような衝撃と共に水たまりに倒れ込んだ。みるみる間に悪魔が群がり、石のように硬い体で私を抑え込む。恐怖のあまり叫んだ金切り声ごと砂と水の中に押し込まれ、グリグリと全身に硬い爪が這い回った。
信じられないくらい痛かった。
「捕まえた!! 捕まえた!! 女捕まえた!!」
「柔らかい!!」
「女だ!! 子供を産めるぞ!!」
「どうやって生む!? どこで生む!?」
「探せ!!」
体が震える。怖い。痛い。痒い。冷たい。気持ち悪い。息ができない。
どうしよう。
どうしようって……。
どうしようもないよ。
絶望しながらやっとの思いで顔を上げた、目の前に黒いバラ。その向こうに、動物のような耳を生やした男のぼやけたシルエットが霞む。
疾風。
突然、体の上で何かが破裂した。雨水か血かもわからない濁流が弾け飛び、
衝撃。
震動。
咳。
にわかに体が軽くなった。でもまだ立ち上がれない。苦しいのか震えているのかわからないけれど、脚が夢の中みたいに全然言うことをきいてくれなかった。背中から滑り落ちた石の欠片がガラガラと膝下に転がってくる。鉤爪を生やした足の切れ端からドクドクと真っ赤な血が流れ落ちて、地を這う雨水を口紅のように赤く染める。
「…………っ!!」
前方で、片手に金具のようなものを持った男が何か大声を上げた。降りしきる豪雨の音に掻き消され、なんと言っているかは聞こえなかったけれど、たしかに私を手招きしながら何か叫んでいた。
背後にはまだまだ群れを成す石の鳥たちが羽ばたいていて、
「敵だ!!」
「誰だ!? セツか?」
「クロネコだ!!」
「女を奪いに来た!!」
「女を逃がすな!!」
「あいつを殺せッ!!」
と叫んでいる。
「…………ィッ!!!」
また、男の叫び声。手に持った何かを構え、野球のようなフォームで石の悪魔へとぶん投げる。
破裂音。
私には、彼を頼らぬ選択肢など存在していなかった。
必死に立ち上がろうとする私の足元で、黒いバラが、私に待ち受けているであろう最悪の未来のように真っ赤に
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