春と修羅
一人の女性が姿を現した。
私の部屋――いや、部屋と言うよりは空間と言った方が適当だ――に入ってきた彼女は、私を見て一瞬戸惑ったようだったが、すぐに静かな決意を湛えてこちらを見据え、小さなテーブルの対面へと腰を下ろした。
「はじめまして」
彼女は、自分でそう言っておきながら怪訝そうな顔をすると、その細い首を少しだけ左に傾げ、他人の秘密を知っているのが本人に知れてしまった時のように、どこか決まり悪そうな、苦笑いを浮かべる。
「……では、ないような気がします。今まで会ったことなんてないはずなのに、親しかった人に再会したみたいな、そんな気分です」
「そうなのかな。君が思うのなら、きっとそうなんだろう」
勿論、私も彼女に会った記憶などはない。
もしかしたら雑踏で擦れ違ったことくらいはあるかもしれないし、何かの拍子に目にする機会はあったかもしれないが、実際に話をするのは初めてなのだから「はじめまして」で何ら問題はないだろう。
そもそも、会ったことがあるというならば、いくら私でも忘れようがないはずだ。決して特徴的な容姿をしているというわけではないが、そんなことは問題にはならないほど、彼女には不可思議な印象が纏わり付いていた。
烏の濡れ羽色、とするには若干色素の足りない髪。
湖面のように落ち着いていて、透徹した色を持つ瞳。
顔立ちは整っているものの、それを考慮しても一見、何の変哲もないただの大学生のように見える。歳は二十に達しているだろうか。それ相応の薄化粧をしており、身長は百五十あまり、服装は華美でなく、また地味でもない――要するに、彼女の容姿に対して受ける印象はあくまで「普通」でしかなかった。
にも関わらず、どこか底の見えない危うい均衡の上に立っているような、今まさに何かの境界の上を歩んでいるかのような、不穏な感想を抱く。少し目を離した隙に、彼女の中の誰かがすり替わったとしても、「あぁ、やっぱりな」と納得してしまいかねない、そんな異質。
不思議な子だな――改めて思う。
「君は、どうしてここに?」
訊ねると、彼女は少し考えてから、
「さあ、分かりません。何というか、流れで来てしまったんだと思います」
「流れ」
「はい。憑かれたように調べ物をしていたら、いつの間にか。どうやってここへ来たとか、ここが一体何なのかとか、全然分からないんです。気付いたら辿り着いてた、みたいな感じで」
彼女は、照れたように笑った。「本当に、ここはどこなんでしょう? 真っ白で無機質で、まるで現実の世界じゃないみたい」
「どこでもないよ。どこでもね。……もしかしたら名前くらいはあるのかもしれないけれど、だとしても説明にはならないし、そんなに意味もなさそうだ」
「意味がない?」
「時間の無駄ってことかな。いや、時間なんて概念があるのかどうかすら怪しいか」
「不思議な場所、ってことですね」
予想外の返答に、不意を突かれる。
私も彼女も正確に把握できていない以上、それはある意味、的を射た解釈だ。現時点で私たちに許された最大限の認識とすら言える――思いがけず少し愉快になった。「そう思ってくれて差し支えはないよ」
改めて「部屋」を見渡してみる。
ここは私の空間ではあるが、私と彼女が座っている簡素な椅子とテーブルの他には家具はなく、自分で言うのも何だが殺風景で面白味がない。ドアがない代わりに申し訳程度の窓が二、三あるだけで、しかも肝心の壁がない上にそこから景色を見ることもできないので、最早ただの飾りに等しい。そのほかは彼女が口にした通り、白いばかりだ。
テーブルにしたって、今さっきまでここにあったかどうかすら曖昧だ。必要に応じて出てくるというのならば、もしかして、私が望めば観葉植物程度は出てくるのかも知れない。なら、どこに置くのが適当だろうか――そうやって空間に仮の設置箇所を見出そうとしていると、彼女が不意に静寂を破ったので、私の視線はそこで止まった。
「どうやってここに来たのかは分かりませんが、どうしてここに来たのかは分かります」
「…………」
「あたしは知りたいんです。彼らのことを」
「……。意味があるとは思えないけどね」
「それは、あたしが決めます」
その言葉に、私は彼女の顔へと視線を戻す。そこに浮かんでいたのは、彼女が姿を現した時と同じように、静かな決意にも似た何かだった。
「あなたなら、全部を知っているはずです。そうでなかったら、あたしがあなたの目の前にいるはずがありません」
「まあ、確かに」
必然とまでは言わないが、これは彼女の言う通り、流れなのかも知れない。
彼らについて知ることを欲している彼女が、それを知る私と対面し、言葉を交わし、剰え要求している――私が吝嗇するような時間はここでは曖昧で、断るべき理由もこれといって見当たらない。なら、意味があろうとなかろうと私には関係のないことだ。
席を立ち、試しに適当な方向へ向けて手を差し出してみる。すると、そうしたことでか思い描いたことでか、その場所には元々あったかのように観葉植物の鉢が出現した。……イメージが形になるというのなら、それを彼女に見せるのもさして難しいことではないはずだ。
「いいだろう」
彼女に向き直る。
「君が望むのなら見せようか。彼らの目にした一部始終、全ての切っ掛けとなったあの日々のことを」
view 1 鴻田佳奈子
融銅はまだ眩めかず
白いハロウも燃えたたず
地平線ばかり明るくなったり陰ったり
はんぶん溶けたり澱んだり
しきりにさつきからゆれてゐる
(宮沢賢治『心象スケッチ 春と修羅』、「真空溶媒」より)
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