異世界線 三番ゲート


 ぺたん。

「……はいオーケーです。それでは良い旅を」

 俺が事務口調にそう言うと、人の良さそうな初老の紳士は小さく頭を下げた。ゲートを潜り抜けていく。今しがたスタンプの押されたパスポートを、後生大事に鞄へと仕舞い込みながら。

 ふう。

 溜息をつく――いやなに、業務が一段落ついたからという意味ではない。仕事は別段忙しいものではない。それどころか閑古鳥が鳴いている始末で、今の紳士が三時間ぶりの出国者だったほどである。

 また暇を持て余すことを考えると、溜息の一つでもつきたくなるというものだ。

「景気が悪いねぇ」

 と、コンコースの方からマキナさんの声が聞こえてきた。……あんたの仕事は出国審査の方だろうに、こんなところまで来てどうする。

「職務怠慢ですよ。上司がそんなことじゃ部下に示しがつきません」

「お堅いことを言うんじゃないよ。暇すぎて死にそうなんだ。それに、たまには可愛い部下と交流を深めるのも上司の務めってもんじゃない?」

「なるほど素晴らしい。なら後日、その素晴らしい意識を上に報告しなければ」

「それは困るな」

 笑いつつ、背中に隠し持っていたジュースをこちらに寄越してくる。まぁいい。今日のところは部下を労る姿勢に免じて見逃すことにしよう。

 数分前に俺がスタンプを押した台の上に、マキナさんはあろうことか「よいしょ」と弾みをつけて腰掛ける。制服越しとは言え、異性の目の前に尻を差し出すのはさすがにどうなのだろう。

「あちらさんの情勢がよろしくないようでねぇ、渡航者の数も激減で商売あがったりだよ。まぁ元々少なかったけど、それにしてもこのままじゃ仕事にならない」

「よろしくないのはそっちのマナーですよ……まぁ、言ってもパスポートの発行からして厳しめですからね、それをパスしてまであちらに行こうなんて思うのはただの変人です」

「そう? あたしは魅力的だと思うけどね、あっち」

「変人ですからね」

「あはは、上司に向かってなんて物言いだい。それに結構居るんだよ? それでもあっちの世界を体験してみたいって考える方々。悉く審査で弾いてるけど」

 言いつつ、マキナさんはゲートの真上に視線を向ける。そこに掲げられた案内板には、こんな文言が踊っている。


『異世界線搭乗ゲート』


 まるで国内線や国際線と何ら変わりない事務的な文体で、世界を隔てているという至極重要な情報が事務的に記載されている。そこからは「異世界なんてその程度だと思ってもらいたい」という消極的な意図と、「異世界が相手だろうと平常通り職務に励みます」という積極的なアピールが混在している、ように見えた。気のせいかも知れない。

「いるんだよ、そこそこ」

 自分のジュースを傾けながら、マキナさんは話し始める。

「あっちの非常識な常識だとか、異種族間の抗争だとか、そういうものに自分の身を晒してでも何かの体験をしたい、って思う人たちが。まぁ危険な生物とかを持ち込まれても困るから、審査自体はきっちりするけどね。で、皆帰ってきてからこう思うわけだ。『生きてるって素晴らしい、日常って素晴らしい』ってね」

「マキナさんもそのクチですか」

「まさかぁ。あたしは善良な一庶民だよ? 魅力的って言ったのはあちらさんの文化に関して。何しろこっちじゃお目にかかれないものばかりだからねぇ、娯楽一般に限っては惹かれることが多いんだ」

 ぶれないな、この人は。

 自分が楽しむことしか頭にないのか。

 と、俺の目の前でぴろぴろと間の抜けたメロディーが流れ始める。

 マキナさんの尻からだった。

「おっといけない、お仕事がきたようだ。……あーあ面倒臭い、不認定出して鬱憤晴らしてやろうかな」

 ぴょいんと台の上から飛び降りて、職務もへったくれもない上司は制服後ろポケットから端末を取り出す。

 暇だったんじゃないのか。

「それやったら本当に報告しますからね」

「冗談だよ。仕事はきちんとこなすさ」

 バイバイ、と後ろ手に手を振って、マキナさんはコンコースに戻っていく。

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