第26話 毒と薬は紙一重
僕がデザートのハニートーストを緋月様と食べていると、光さんと渉さんが出勤してきた。
先に光さんが出勤してきたことに対しては驚いた。
しかし、僕を見た光さんの方がずっと驚いていただろう。
食べ終わった大量の皿に囲まれている僕と緋月様を見た時は「さっさと緋月から離れろクソガキ!」と僕と緋月様の間に強引に入ってきて座った。
「俺の分は?」と聞かれたときに「ごめん、ない」と緋月様が言ったら光さんはますます怒って、僕のハニートーストを乱暴に横取りして、食べてしまった。
そこに渉さんが出勤してきて、手についたはちみつを舐めている光さんを見て呆れていた。
「さて……それじゃ、今日はみんなに何してもらおうかな」
「あぁ? 黒旗のセンニュウにいくんじゃなかったのか?」
「それは1週間くらいずらそう。
そう言った緋月様に僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
僕が水鳥麗のことでぐずぐずと言ったせいだ。
でも、僕のコンディションを考えてくれたことは嬉しかった。これを光さんに言ったら木刀か何かを持った光さんに追いかけ回されるかもしれないと思い、横目でチラッと彼の方を見る。
片側だけ長い金髪の方が少し伸びてきて頭頂部から黒い髪が生えているのが見えた。
「お前が行くほどのことなのか?」
「そうだよ」
光さんは緋月様と一緒に仕事ができないからか、不満そうにしていた。
――緋月様が行くにしても……顔は知られているし、どうするつもりなんだろう……
緋月様は自分自身を抱きしめるようにうずくまる。
すると、銀の髪が黒色になり、白い肌は小麦色となった。ボコボコと血管の位置すらも変わっていく。
――え……
顔も完全に別人の顔になっていた。
「あー………あーあー……あー……」
発声するたびに声すらも変わっていく。
骨格から皮膚の色、顔、声までもが全く異なる人間が出来上がってしまった。
唖然として僕はそれを見ていた。
「うーん、どうかな? じゃなくて……どうでしょうか?」
敬語で話している緋月様に違和感を覚える以上に、僕はその見た目に違和感を覚えていた。
「話し方まで変えるところが本当にキモイ」
光さんは気に入らなそうに毒づく。
「キモイかどうかではなくて、緋月だってばれないかどうかを聞いているんですけど?」
「ばれねぇって。そんなブスな顔にしなくてもいいのによ」
あえて僕と渉さんは言わないでいたのに、光さんははっきりとそう緋月様に言い放つ。
確かに普段の顔の方が整っていると言える。歳は若い印象を受けるが、けして美人とは言えない。
「いいですか? ちょっとブスの方が相手の話しかけやすさの
「お前……ひどいこと平気で言うよな」
「レイには言われたくないです」
ちょっとしぐさや、雰囲気、何もかもが変わっていた。
話し方も、いつものゆっくりとした聞き取り易い話し方よりも、若干早い口調となっていた。
これでは誰なのか、本当に解らない。
「では着替えて行ってきますので、智春君は、ラファエルの牡丹と一緒に
「は……はい」
浅葱とは、確か1区で傷害事件を起こした10歳の統合失調症の女の子だったはず。
思い出せるのは緋月様に抱えられて空を飛んだこと。
酷い栄養失調でガリガリに痩せていたこと。
髪の毛がめちゃくちゃに切られていたことなどだ。
牡丹さんとは軽く挨拶を交わした程度。昨日のことがあって、どうにもラファエルの人たちとは会いづらく感じる。
「牡丹なら、もうじきくると思います。ちょっと時間にルーズですから、それまで待っていてください」
「わかりました」
「俺は?」
「レイは7区で佳祐の様子を見てきてくれないですか?」
「んなもん、ラファエルの奴らにやらせたらいいだろ」
「残念ながら、全員出はらってるんですよね。佳祐が無理をしていたら、ちゃんと休ませてください。あとは7区の中をアダムと偵察してほしいです。わ子は各区の報告書を見て、怪しい事件を洗っておいてください」
「解りました」
「つーか、お前がケイゴ使ってるとマジでキモイ」
「はいはい、解りましたよ」
緋月様はいつもの調子でそう言って、窓からではなく扉から出て行った。
「ちっ……なんで俺が佳祐なんか」
「光、私の代わりに書類の洗い出ししますか?」
「冗談じゃねぇ。おいアダム、行こうぜ」
「……まだ……ねむい……」
光さんは丸くなっているアダムの身体に軽くパンチする。
その巨体はプヨンッと表面が波打った。
「俺も嫌がりながら行くんだから、お前も行くんだよ」
「……わかった……」
アダムは渋々と体を変形させ、紫色の蛇の姿になった。光さんの身体にまきついて、そのまま光さんと一緒に出て行く。
嫌がりながらもきちんと行くところが偉いなと僕は逆に感心した。
――光さんは……なんか意外なことが多いな……
残った僕と渉さんはそれぞれ自分の業務に当たることにする。
僕は牡丹さんを待っている間、渉さんと少しだけ立ち話をした。
「緋月様、本当に別人みたいになっちゃいましたね」
「そうですね。あれではもし緋月様に逃げられても見つけ出せそうにありません」
「緋月様は絶対に逃げ出さなそうじゃないですか」
「ふふ……まぁ、逃げるくらいなら、すべてを敵に回してでも戦いそうですね」
渉さんのその言葉で、僕は「私が人類を滅ぼしてもいい」と、ほんの少し前に言っていた言葉を思い出す。
「緋月様には勝てませんよ」
「そうですね。もし、緋月様が戦うと決めたら……勝てないです。普段は身内に甘いですけど、緋月様は法を守りますから。今まで処刑した仲間とも、仲間でしたからね……」
なんだか悲し気な表情をする渉さんに、僕はなんと言葉を返したらいいか解らなかった。
◆◆◆
結局、牡丹さんが来たのは午前9時くらいになってからだった。
なんだかつかみどころのない人で、特別変なところは見当たらない。
区代表や他のラファエルの理沙さんや聖也さんと比較してしまって悪いが、逆に個性的ではない人を見ると何とも言い表しがたい気持ちになる。
適当に挨拶をされ、そして1区の聖ラファエル病院に向かって車を走らせていた。昨日自分で電車で行くよりずっと早い気がする。
「昨日、聖ラファエル病院で大暴れだったらしいですね」
車に乗ってエンジンをかけている中、牡丹さんはそう口にする。
やはり、その話はもう聞いているらしい。
別にそのことに対して怒っているとか、僕に対して嫌悪感も友好感もなにもない態度で淡々と話している印象だ。
「……ごめんなさい」
「別に、私は気にしてませんよ。理沙が暴れるのなんて、珍しくもないですし」
「傷つけちゃいました……聖也さんにも叱責されちゃいましたし」
「あらかた聖也から聞いてますよ。優生思想を話したとかなんとかって」
僕の方をちらりとも彼女は見ようとしない。
ただ、淡々と運転し始める。
「やっぱり優生思想ってことになるんですかね……」
「理沙は初めから病的思考でしたから、尚更“優生思想”なんて話は嫌いでしょうね。自らの存在そのものを根底から否定されるような考え方ですから」
「…………」
尚更悪いことを言ってしまった。
時間を取ってきちんと謝っておこうと考えた。しかし、今度こそ殺されるかもしれない。
そんな不安を感じる。
「理沙も、薬で少し安定しているように見えますけど、少し薬を辞めるとたちまち病的になってしまします。緋月様を食べようとするんですよ」
「……え!?」
あまりにも普通な装いでそう言う牡丹さんの言葉に、僕は反応が遅れる。
――食べる……!? えっと……え? 食べる……!?
比喩的な意味なのかと僕は頭を切り替えようとするが、牡丹さんは混乱している僕をそのまま置いて、話を続けた。
「理沙は緋月様が好きで好きで仕方ないんです。誰にも渡したくないと思っている理沙は、緋月様を殺して食べようと思っています」
そう言えば、理沙さんに会ったとき、理沙さんが緋月様の首筋を舐めたことを思い出す。
――あれは……食指的な意味って……こと……?
風景が次々と過ぎていく中、僕は視線のやり場に困っていた。
牡丹さんをあまりまじまじと見つめるのも運転の阻害になってしまいそうで、でも、1区の過ぎている風景を見ていても、話しの方が気になって風景など僕の頭に入ってこない。
「……それって……水鳥麗と同じ……本当に食べるってことですか?」
「あぁ……黒旗の神の水鳥麗ですか? あれとは全然違いますよ。『崇高なる理念』を読んだことあるんですか?」
「ええ……最近、読みました。というか、昨日……」
「あぁ。そうなんですね。確かにあんなの読んじゃったら、そう思うのも無理ないと思います」
牡丹さんの運転は、やはり特記することがない。
乱暴なわけでもないし、かといってものすごく丁寧というわけでもない。ただ、法定速度を守って安全確認をして走行している。
「でも理沙と水鳥麗は全然違う。水鳥麗は愛していたからこそ、木村冬眞を殺して食べたんですよ。本当は殺したくなんてなかったんですけど、でも殺さなければずっと木村冬眞は再逮捕されて、死刑囚として死ぬその瞬間まで妄想と幻聴、幻覚に苦しみ続けたんです」
抑揚のない話し方で淡々とそう話を続けた。
「だから、本当はずっと一緒にいたかったけど、そうするしかなかったから殺した。理沙のはただ、緋月様を自分のものにしたいが為に殺したいと思っているし、食べたいんです」
「ずいぶん……水鳥麗について詳しいんですね。僕は知ったのすら……お恥ずかしながらもつい最近のことです」
「あの本は何十回も読みましたし。当初は黒旗に入ろうかとも考えてました」
「え……黒旗にですか?」
「はい。でも、黒旗は今や水鳥麗の思想とか、行動理念とは全く違う。ただ精神疾患者や緋月様を排除したいだけ。それは私のやりたいこととは違いますから」
僕と違ってやけにしっかりしているなと思った。
――やりたいことがはっきりあるんだな……
そこに僕は劣等感を感じてしまう。
「やりたいことって、なんですか?」
「もう他人の作為で悲しむ人が増えないようにすることです。その点において水鳥麗も、緋月様も同じ思想を持っていますね。過程とかやりかたは全然違いますけど」
「どちらも正しいようで、でも全然違うので、僕はいまだに混乱しています……」
「相反する考えが同時に起こると混乱するかもしれないですけど、水鳥麗のように一緒にいたいけど殺して食べたいっていう考えは、実在したし、してる。そういうの、両価性っていうらしいですけど、結局頭で理解していても気持ちがついて行かないっていう状態のことだと思うんです」
話をしている間に聖ラファエル病院についた。
駐車してエンジンを切って車を牡丹さんは降りる。僕もそれに続いて降りた。
並んで歩くが、相変わらず彼女は僕の方を一瞥すらしない。
「物の価値なんて人によって違うんですから。何が正しいなんて、ないですよ。自分の信念があるだけです。私は出てくる時に野暮用を押し付けられてしまったので、それを先に片付けます。あなたは浅葱の様子を見てきてください」
「……わかりました」
ポケットに手を入れて、けだるそうに牡丹さんは病院の中を颯爽と歩いて行ってしまった。
――なんというか……マイペースというか……
僕は受付の人に身分証を提示して、浅葱ちゃんの病室を調べてもらって、精神科病棟へと足を運ぶ。
病院の中はなんだか落ち着かない。
せわしなく歩いていく医師や看護師を見送りながら、時折赤紙の制服を着ている人も見かける。
事故や事件の被害者の聴取だろうか。
そんなことを考えながら僕は歩き続けた。
ほどなくして浅葱ちゃんの病室へとたどり着く。
勝手に入るとまた怒られてしまうと思ったので、僕はナースステーションの看護師に一言声をかけた。
「あの、緋月様から浅葱ちゃんの様子を見てくるように言われてきたんですが、今入っても大丈夫ですか?」
パソコンで何か記録をしていた看護師は、僕が声をかけるとすぐにこちらを向く。
「あぁ……浅葱ちゃんですか……いいですけど、あまり話せないと思いますよ」
「?」
どういう事か解らないでいると、それを察したのか看護師は質問を投げかけてきた。
「統合失調症の人と話すのは初めてですか?」
「え……はい。浅葱ちゃんとは前に少し会ったことはあります。事件当日ですけど」
「そうですか……妄想を肯定するようなことは言わないでくださいね。あと、妄想を否定することも言わない方がいいです。激高させてしまっては話などできませんから」
「……わかりました」
肯定も否定もできないで、どうやって話をすればいいのだろうと思ったが、看護師に病室へと案内され、そのまま僕は中へ入ることになった。
看護師は忙しかったのか扉を閉めて出て行ってしまい、僕は一人放り出される。
中は少し暗く、カーテンは閉め切られていて、ベッドに浅葱ちゃんが点滴に繋がれた状態で座っていた。
何をしている訳でもなく、ぼんやりとどこかを見つめている。
一瞬僕を見るが、再び興味をなくしたようにどこか虚空を見つめていた。
「…………」
「浅葱ちゃん……だよね」
「……はい」
短い返事が返ってくる。
「僕のこと覚えているかな」
「…………はい」
言葉が続いていかない。
「具合はどう……かな?」
「………………」
ついに返事さえも途絶えてしまう。
「悪い?」
「…………良くはないです」
やっとまとまった回答が返ってきて、僕は少しだけ安堵した。
「どこが具合悪いの?」
「……………」
また返事はない。
どう会話をして、様子をうかがったらいいか解らない。
どうしようかと僕は少し考えてしまったが、病室の扉が開かれて僕は意識をそちらに持っていかれる。
「おぉ、緋月様の使いお客さんが来ていると聞いてきてみたが、君かね?」
白衣を着た初老の男性がそう尋ねてくる。名札には『
「はい……智春といいます」
「私は見ればわかると思うが、医者だ。浅葱ちゃんの担当医、慎太だ。ちょっと廊下でいいかな?」
僕は言われるがまま、病室を出ることにした。
浅葱ちゃんの方を振り返ってみたが、やはり虚空を見つめていた。
――薬でぼんやりしてるのかな……
そんなことを考えながら慎太医師についていく。
彼は廊下に出てから僕に向き直り、少し気まずそうに話し出す。
「ちょっと、まだ面会は早いかな。陽性症状が落ち着いてはきたけどね、陰性症状が出てるから。幻聴が収まって、睡眠薬で最近はよく眠っているよ。徐々にだけどよくなってきてる。そう緋月様に伝えてほしい。書類が必要なら書くから。治療も早い段階でできたから、そんなに予後も悪くないと思う」
そう言いながら、慎太医師はゆっくり歩きだした。僕を時々見ながら身振り手振りで話をしてくれる。
それになんだかほっとした。
牡丹さんも浅葱ちゃんも僕の方を全然見てくれなかったから、視線を合わせてくれないと僕が何か悪いことをしてしまったかと不安になってくる。
「……治療が遅くなると、予後が悪くなるんですか?」
「そうだね。統計的には。だから症状が出てずっと放置されて時間が経ってからだと、なかなか
「かんかい?」
「えーと……完治とは言えないからね。
「そうですか……」
完治しないとしても、人を刺すようなあの激しさが落ち着いていたことに喜ぶべきかもしれない。
「急性期はなんとか過ぎたみたいだけど……まぁ……薬を飲んで、ちゃんと治療すればよくなるよ。勝手に薬を辞めちゃうと、
彼は矢継ぎ早に素人には難しい話をしている。
聞き返すのも悪い気がしたが、僕は恐る恐る慎太医師に尋ねた。
「……ごめんなさい。不勉強で。離脱症状ってなんですか?」
「あぁ、ごめんね。つまり……徐々に減薬しないといけない薬があって、それを急にやめちゃうと、前の症状よりも悪くなってしまうことがあるんだよ。色々あるけどね、動機息切れがしたり、尚更眠れなくなったり、手足が震えたり……」
「難しいですね……ごめんなさい、疎くて……」
「アカシジアとか、ジスキネジアとか、パーキンソン病と言って、抗精神薬には――――」
「疎くて」と言った矢先に、さも当然かのように専門用語が飛んでくる。
僕は動揺しながら相槌を打って聞いていたけれど、彼の言っていることの半分も解らなかった。
だが、やはり治療をするにしても色々な副作用があって、それを抑えるための薬がまた必要になったり、急に薬を辞めることもできないということだけは解った。
気が付くと僕らは日の当たる中庭に来ていた。
この病院は光を沢山取り込めるように中庭が多い。格子がついてる場所もあるが、ついていない場所ももちろんあった。
色とりどりの花が咲いていて、そこに光が入ってきて美しい。
「ところで……緋月様は相変わらず忙しそうなのかい?」
「ええ。毎日食事しながら仕事してますよ」
「そうか……」
慎太医師は中庭にいる患者を見ながら、言葉の続きを離し始める。
「緋月様には、私も助けられたよ」
「先生も?」
「あぁ……『ロボトミー手術』って知ってるかな?」
「いえ、ごめんなさい……」
無知すぎて僕は本当に恥ずかしく思う。
しかし、僕は「知っている」とは言えなかった。知らないことはたくさんある。これから勉強して、知って行けばいいだけのことだ。
そう自分を言いくるめる。
「『ロボトミー手術』は大昔に発明された手術でね、前頭葉を破壊して患者をおとなしくさせようという手術なんだが」
「……前頭葉って、脳の部位ですよね?」
「そう。額に近い部分というか、このあたり」
医師は自分の頭の前部分を指で、ぐるりと円を書くように僕に示す。
「そんなことをして、生きていられるんですか?」
「生きていられるよ。…………とは言っても、廃人になってしまうけどね。もう生きているとは言えない状態だと私は思う。今は当然禁止されてる。当時は患者がおとなしくなるからってもてはやされたらしいけど……古い本によるとね」
慎太医師はため息をつくように息を吐きだした。
僕はその消して明るくはない話題の続きを待った。しかし、なかなか医師は話を再開しない。
「…………その手術が、どうされたんですか?」
「……仕事熱心と言うか、なんというか……私の同僚に……それをやりたいという医者がいたんだ。勿論私は反対した。でも……その……同僚はやると言って聞かなかった」
彼は重い口調で、時折、なんと表現していいか迷っているような話し方で話を続けた。
「だから赤紙に密告したんだ。もうずいぶん前のことだけど……その時に緋月様が直々に来られて、その同僚は7区に移動になった」
「7区ですか? 結構重いですね……」
「そのとき……緋月様は言っていたよ。“精神疾患者を
中庭の患者を、優しいまなざしで彼は見つめる。
「ときおり穏やかに花を見て、ただ無邪気に笑っている彼を見るとね」
その視線の先に、大柄な男性が一人いた。
もう慎太医師と年頃も近い初老の男性だった。花を見て笑っている。
その笑顔は一点の曇りもないものだった。
子供のような無邪気な笑顔だ。
周りの患者には目もくれず、ただ花を見て笑っている。
「それで、君は何か問題を抱えているのかい? 緋月様の拾ってくる子はみんな問題児ばかりだからな」
視線を僕の方へ向け、優し気な表情で問う。
精神科医という立場の人間が相手だからか、場所が穏やかな場所だからなのか、僕は自然と自分の抱えている問題を口にできた。
「……自殺未遂で……緋月様に助けてもらいました」
「自殺未遂か……君も、私のところへ通ってみるかい? その首の傷、まだ新しいものだね」
「…………はい。最近のことです」
「話し相手くらいにはなってあげられるよ。必要なら薬も出すしね。まぁ、君は今は落ち着いているように見えるけど、まだ“要観察”ってところかな」
どうだろうかと自分に聞いてみる。
“死にたい”とは思わないけれど、落ち着いているかどうかで言うと少し怪しい。
「……落ち込むことはありますし、あまり精神的に安定してる訳ではないと思うんです。………でも、僕は大丈夫です」
少し、前よりも胸が晴れる気がした。
「緋月様が僕の……なんでしょう、薬……ですから」
医師の言葉を借りてそう言うと、慎太医師は「はっはっは」「そうかそうか」と笑う。ひとしきり笑った後、時計を確認した。
「そうか……でも、気をつけたまえ。毒と薬は紙一重だよ。それじゃ、私は診察があるからこれで」
ポン……と僕の肩を叩き、慎太医師は忙しそうに歩いて行ってしまった。
中庭では、まだ先ほどの大柄な男性は飽きもせず花を見ていた。
太陽の日差しよりも、彼の笑顔の方が眩しかった。
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