第25話 君にとっての幸せって何?




家に帰って僕は憔悴しょうすいしきった身体をベッドに投げ出した。

考えることがありすぎて、僕の頭の中はグチャグチャにグルグルとしている。

例えようもない状態だ。


水鳥麗の「生まれたくなかった」という言葉と、聖也さんの「勝手に見下して、勝手に憐れんで」という言葉が互いに入り混じっていく。


――たった1回自殺未遂しただけ……か……


自分の首の傷に触れてみる。もう塞がっているが、首の部分には大きな傷跡が残っているため、凹凸ができている。


――聖也さんは何度もしてるのかな……他の人たちも……佳佑さんも……


傷つけてしまったのは僕の方なのに、僕は落ち込んでいた。

理沙さんや聖也さんを怒らせてしまい、聖ラファエル病院では患者を興奮させてしまい怪我をさせてしまった。

それに、あの現実を見てしまったら何か自分にできることをしたいという気持ちが先立つが、聖也さんの言っていた通り、僕は何ができるんだろうと考える。

いつも緋月様のめいで色々な人と出会って、子供区から出たばかりの僕にとっては新しいことばかりで、自分で考えて行動することなんてほとんどなかった。


暗い部分の現実なんて知らなかった。

子供区の学校で教えられるのは基本的なことだけだ。精神疾患者の実状を事細かく教えてくれるわけではない。

学校で教えてもらえる歴史は、まるで現実味がないものだ。

大昔は魔女がいたとか、天使がいたとか、悪魔がいたとか、地上がほとんど海に沈んだとか、悪魔を滅ぼすために地上は汚染されて住めなくなったとか。

僕には家族が世界のすべてだったのに。


――達美さんにも褒められて……妃澄さんにも褒めてもらって、僕が調子に乗っていたのかな……


緋月様に必要と言われてあんなに嬉しかったのに、その緋月様を疑うようなことを考えた僕は罪悪感に苛まれる。


――こんな気持ちのまま……黒旗の偵察なんていけない


そのままずっと考えていてもどうにもならないと、僕はケチャップの汚れが付いた白い本――『ウロボロスの指切り』を手に取った。

まだ『崇高なる理念』を読み終えていないけれど、フィクションで且つ緋月様と妃澄さんの2人が「こうなったらよかった」と言っていた本だ。


パラリと1ページ目を開くと、“私は、絶対に君を見捨てたりしない”と書かれていた。

序章では“指切り”というものの事の成り立ちが女性の視点で書かれていた。

そして次に進んでいくと、2つの視点で話が展開されていく。

木村冬眞の視点と、水鳥麗の視点だ。


そんなに分厚い本ではなく、僕は一気にその本を読み進めた。

2人がどのように出会ったのか、そして木村冬眞がどんな状態であったのか、死刑判決を巡って水鳥麗は現世のように200人以上を殺すのではなく、木村冬眞の孤独な過去を変えるように立ち回って行く……というような話の筋だ。

そして最後の結末まで読み終え、パタリと本を閉じた。

最後は誰も死なない終わり方をしている。

246人もの人間を死に導いた現実とは大間違いだ。


――恋って……相手を大切に思う気持ちって……命を賭けるほどの価値があるものなのだろうか


僕は恋をしたことがない。

女性には無頓着だった。かといって他に特別興味を示すものもない。

子供区にいたときに暗に鬱傾向と診断が下りていたように、今思い返せば“生きる”ということをただひたすらにしていたのかもしれない。

母さんの為に働くぞという気持ちが、母さんが死んでやり場がなくなった僕は、あっという間に脆く崩れ落ちてしまった。

冷静になって考えてみれば、母さんが僕の自殺なんて望むはずなんてない。

でも、僕は大切な人を失って何もかもを失った気持ちになった。


――水鳥麗も……最愛の木村冬眞を死刑にされて何もかもを失ったんだ……


だから彼女は何もかもを捨てた。

家族も。

友達も。

社会的地位も。

お金も。

安息も。


そして自分の命さえも何もかもを捨て、水鳥麗は木村冬眞を救った。


――僕には……真似できない……


僕に足りないのは、確固たる自分の信念なのかもしれない。

僕には自分というものが足りない。

なにものにも流されやすく、流動的で、その流れが穏やかな時は穏やかに過ごし、その流れが激流となれば僕もあっという間に流されて自分を見失ってしまう。

挙句の果てに落ちるところまで落ちていこうとしていた。


本を読んでいる間に、時間はもう夜になっていた。

明日は仕事で黒旗の潜入に向かわなければならない。

僕の1日の休みは、波乱万丈に幕を閉じた。




◆◆◆




死んだような顔をして、僕は次の日出勤した。

水鳥麗と木村冬眞のことを考えていると良く眠れなかった。夢の中にいるのか、現実にいるのかすら曖昧になってくる。

いつもよりも圧倒的に早い時間に、僕は緋月様の部屋で書類などに目を通して、黒旗の情報を得ようと考えていた。


緋月様の部屋につくと、もう緋月様は机に向かっていてアダムと一緒に何か食べながら書面の処理をしていた。


――まだ朝の6時なのに……本当に緋月様は眠らなくても平気なのだろうか……


僕が扉を開けた音で、緋月様も僕に気付く。


「智春君、早いんだね」

「なんか、眠れなくて早く来てしまいました……」

「そう……」


一度書類に目を向けて、そしてまた僕の方を見る。


「昨日、聖ラファエル病院に行ったんだって?」


けして責めるような言い方ではなかったが、いつものような明るい言い方でもなかった。

心臓がギュッと握られたような感覚がして、呼吸も一瞬忘れてしまう。

その質問に僕は答えられなかった。


「責めるつもりはないよ。理沙と聖也から連絡が来て、2人ともものすごく怒ってたけど、君に悪気がないのは解ってる」


アダムは緋月様が話していることに全く関心がないらしく、目の前の食べ物を夢中で食べてた。

緋月様も話の途中でパスタをクルクルとフォークにまきつけ、スプーンを使ってすくい取り、それを口に運んでいる。

食事をしながらの話題にしては重い話をし始めた。


「堅い話をするけど、理沙は殺人未遂だったわけだけど、理沙を咎める?」


そんなことを言われると思わなかった僕は戸惑った。


「……悪いのは僕です! 理沙さんを傷つけるようなことを言ってしまいました……」

「そう……まぁ、理沙を咎めようとしても、あの子は自制心がなかなか利かないし、心神耗弱ってところかな。君が咎めるって言うなら、少し厳格な処分を下そうと思ったけど、被害者の智春君が咎めないなら、しばらくの間謹慎処分とするよ」


謹慎処分を下される方が、ずっと僕にとってつらいことだった。

それを解ってか、それとも純粋な処分で緋月様がそう言ったのかはわからない。


「…………僕が悪かったんです……」


そう、主張するしかなくて。

ひたすらに自分を責める。

生きていることすら自責の念に咎められ始める。


「でも殺人未遂だ。そう許されることじゃない。智春君が何の訓練もしてない1区の善良な市民だったら、理沙に殺されていたよ」

「でも、僕が傷つけることを言ったからあんなに怒ったんだと思います。聖也さんにも酷いことを言ってしまいました」

「…………“可哀想”って?」

「……はい」


緋月様はパスタを食べるのを辞めて、前傾姿勢から、椅子にもたれるように後ろへ身体をあずける。


「“可哀想”なんて言われたくないって気持ちも解るよ。でも、私も口に出さないだけで“可哀想”って思ってしまう。自分の行動の制御はできても、感情はコントロールできないからね」


ポンポンと隣にいたアダムの身体を触る。

「ん?」とアダムは緋月様の方を向くが、すぐさま食べ物の方へ向き直り、食事を続けた。


「『崇高なる理念』を読んで、実際に精神病院に行って、患者を見て……優生思想に目覚めちゃった?」


言うべきかどうか悩んだが、ゆっくりと僕は口を開き、話し始める。


「……解らなく、なってしまいました。苦しんでる人たちを見て、でも治らないって言われて……認知すら正しくできていない人がいて……見ているものが全然違うんだなって思いました」

「そうだね。そういう人は沢山いるんだよ。普通の人が知らないだけでね」

「緋月様は……どうお考えなんですか?」

「私? 私は別に、ありのままでいいと思ってるよ。別に、いいじゃない。人それぞれ。自分は自分で、相手は相手なんだから。でも、区別はしないといけないけどね。みんなそれぞれ能力が違うから、能力が活かせる最良の策を考えるのは必要かな」


パスタがフォークに巻かれていく。

その絡めとられる運命にはパスタは抗えないだろう。


「……彼らは苦しんでるのに、どうにもできないなんて、悲しいです」


暫く緋月様は黙って、フォークを動かす手も止まった。


「……どうにもできないなら、彼らをいっそのこと殺してあげた方がいいと思ってる? 苦しまないように。あの『崇高なる理念』の水鳥麗が木村冬眞を殺したようにね」


「そんなことない」と、すぐさま僕は言えなかった。

すぐにそう言えないことに、歯がゆさや、もどかしさや、悔しさがにじむ。


「それは傲慢なんじゃない? 本人たちは本人たちでそれなりに幸せっていうものを感じている。私たちの感性では解りづらいかもしれないけど。それを第三者の私たちが殺すとか、生まれないようにするとかっていうのは、ちょっと乱暴だと思うけど?」

「……聖也さんもそう言ってました…………」

「そう……智春君、君にとっての幸せって何?」


そう言われて、僕は考えてしまう。

僕の幸せって何だろう。

そう考えた時に、真っ先に母さんと、弟と、まだ家にいたころの父の姿が思い浮かんだ。


――もう、戻らない……


バラバラにされたものは、簡単に元に戻ったりしない。

まして、“死”がそれをわかったのなら絶対に戻ってくるわけがない。


「僕は……五体満足で、普通に生活ができれば幸せです……」

「ふーん……それは何かと比べてそう言っているの?」


怒っているわけではないのに、緋月様の言葉の一つ一つが僕にとっては重いものだった。


「自分より不幸な人やものを見据えて、“それよりは自分は幸せ”なんて思うのは、私はどうかと思うけどね。別に、それがものすごく悪いとは言わないけど。そういうの“下方比較”って言うんだよ? 大昔に“最下層制度”っていうのがあってさ、要するに身分階級として一番下の人間を設けて、それよりはマシって思わせて頑張らせようっていう制度。ホント、酷いこと考えるよね」


再び緋月様はパスタを食べる。

僕に、そのパスタを食べている間は考える時間を与えてくれている様だった。

それでも僕は言葉が出てこない。


「智春君から見て、私は幸せそう? それとも不幸? 他の苦代表だちは? 智春君以外のすべての人間は幸せそう? 1枚のパンがあればみんな幸せ? 使い切らないほどのお金があれば全員幸せなのかな?」


僕は沈黙を守っていた。

自分の殻に閉じこもるように、その言葉の矛から身を護るように黙るしかなかった。

けして暴力的に矛を振り回している訳ではないのに、その言葉の矛は確かに鋭い痛みと共に僕の殻を壊していく。


「優生思想自体に、不満はないよ。そういう考えに至るのは、他者を想って、未来を考えるならある程度は普通のことだと思うから。でも、他の命にそういう思想で干渉し始めたら私は止めなければならないと思ってる。自分の尺度で他人をどうこうしようっていうのは、悪だから」


カチャリ……とフォークとスプーンを置いて、緋月様は口元を拭く。


「だから私も悪者ってこと」


食べ終わった皿を台車の上に置いて、別の料理を手に取る。

今度はパンケーキのようだった。

3枚重なったパンケーキが皿に上品に乗っている。


「私は私の独裁で何もかもを進めてる。私は自分が必ずしも正しいとは思ってない。でも、私以外のやり方は過去の歴史のとおり。今は私のやり方で進める。それが正義だとか、悪だとか、罪だとか、善だとかっていう感覚はもうない。“罪”っていうのは、時代によって形を変えるんだ。昔の民主主義よりも私は厳しい方法をとってるから、反発があって当然だよ」


メープルシロップを片手でめんどくさそうにかけながら、頬杖をついてそう言う。


「子供区が2区あるのは、私も少なからず優生思想を持っているからだよ。カエルの子はカエルって言うでしょう? 罪を犯した親から隔離して守る為なんて大義名分を言ってはいるけど、その実はただの優生思想だとしたら?」


緋月様はメープルシロップの次はチョコレートシロップをかけ始める。


「何が優れているか? それは、生き残ること。だとしたら、私や君は物凄くすぐれている。悪魔細胞に適合すれば、死を限りなく遠ざけることができる」


ようやくシロップをかけ終わったのか、緋月様はフォークとナイフでパンケーキを切りながら話を続ける。


「で、話は戻るけど……優れているということだけで、幸せかと言えるかという点において……必ずしもそうではないと思う。私は、いい仲間に囲まれて幸せだと思っているけど、智春君はどう?」

「僕は…………――――」


本当は……不幸だと思っていた。

母さんがいなくなって、世界そのものが壊れた気がした。

今も、その穴は簡単には埋まらない。

それでも、僕の状況よりもずっとひどい状況の人たちを見て、自分の身に降りかかった不幸を封じ込めてしまっていたのかもしれない。


「母さんが死んでから……なんだかがむしゃらになってそれを忘れようとしてた……いえ、してる気がします。家族があんなふうに壊れて……つらいです」

「そう。向き合う時間もないほど、働いてたもんね」

「…………」

「まだ一度も自宅に戻ってないんでしょ?」

「……はい」

「そう簡単には向き合えないよね。私もあるよ。いつになっても、向き合えないもんだよね」


パンケーキを切るのをやめて、緋月様はナイフとフォークを置いた。


「私も、色々……迷ったけど、それでも進まないといけないんだよね……時間は止まってくれないし」

「そうですね……」

「君の首の傷は塞がったみたいだけど、心の傷はまだ塞がってないんだよ。そう簡単に大切な人が亡くなった現実を受け入れられるわけがない。智春君は優しい子だから」

「……優しいというか……“自分”がないだけです」

「それでも、選択をし続けて、人間っていうものは選び取り続けてるもんだよ」


切り分けた皿をアダムに差し出すと、アダムは何も言わずにそれを一口で食べてしまった。切った意味がまるでない。


「昔、水鳥麗の裁判以降、ゲノム編集が活発に行われることになったのは知ってるよね? 100年くらいして弊害が明確に出始めて禁止になって、今も禁止にしてる。その弊害は今も残り続けてるし」


何らかの疾患者を作り出さないように遺伝子操作試行錯誤がされたが、それが逆効果だった。

かえって増やす結果になってしまって慌てて中止にしたという訳だ。


「950年頃に致死性の高いウイルスが蔓延したときも、総人口の半分が亡くなった。そのときは人々は人権を尊重するあまり、ウイルスキャリアの隔離ができないままウイルスを封じ込められなかった。だから私はウイルスキャリアを隔離するために区を分けたんだよね。今はヤバイのは流行ってないし、あらゆるウイルスに対してワクチン開発もかなり力を入れているから今はいいけど……こればかりはどうにもできないね。定期的に新型が出て、やっぱり後手の対応になっちゃう。今の技術じゃそれが限界」


大昔は目に見えないウイルスというものに対して、神の怒りと信じ込み、生贄をささげたりしていたらしい。

もちろん、生贄をささげようともウイルスが死滅するわけではない。

当初はそれが正しいと言われていた。

今も最善は尽くしているだろうが、それも何かの間違いなのかもしれない。何が最善なのかなんて僕にはわからない。


「それから……私が産まれた頃は、人類の大半を食い殺した悪魔たちを倒すのに、核兵器っていうものが使われた。放射能で、大地や海は汚染されて、今もまだ何も住めない。もうこの現世から隔離されているような国の中しか人類が生き残れる場所なんてない」


そう言い終わって緋月様はひと呼吸おいた。

ため息をつくように言葉を続ける。


「……もう二度と、過ちを犯すわけにはいかないんだ。1つでもミスをしたら今度こそ人類は滅びる。それは国の上の方の人間なら解ってるはず。私は国を預かる一員としてミスできないんだよ。優生思想にも走りたくなるさ」


緋月様の表情は、いつもと違って暗いものだ。

ふざけて笑っている緋月様とは全く違う影をそこに見る。


「まぁ、私が言ったら怒られちゃうけど、別に滅びてもいいけどね」


暗い影を残したまま、緋月様はそう言って笑う。


「ていうか、なんなら私が滅ぼしてもいいけどね」


その笑顔はどこか悲し気な笑顔だった。

それだけの力が彼女にはある。

不思議に思わない訳じゃない。緋月様がたまたまだっただけで、もし何もかもを破壊しつくすように力を使っていたら、今頃人類は滅びているのかもしれない。

アダムは食べ物がなくなったのと同時に満足したのか、緋月様の横で丸くなって眠ろうとし始めた。


「でもそれじゃ、虚しいだけだからさ……自分の価値観と合わないからって、徹底的に排除していくなんて、フィクションの中の“魔王”だってしないよ。多くのしもべを従えて、胡座をかいているから“魔王”なのであって、誰もいなくなったら、ただのちっぽけな命だ。動物と一緒」

「……『裸の王様』っていう訳ですね」


何も持たずにして、王座に座ることは出来ないということだ。


「そう。人間って言うのは助け合って、お互いに成長して、生活を豊かにして、全員が幸せになるっていう社会的目的がある。ただ食事をして排泄をして、子供を増やしていって環境に適応するだけじゃない。そこが、人間と動物の大きな違い」


緋月様がアダムの艶やかな紫色の肌を撫でる。

アダムはもう眠ってしまっている様だった。首についている数珠がゆらゆらと赤く光っているのが見える。


「私たちは……まぁ、虫を食べる人もいるけど、基本的に虫は食べないよね?」

「……食べないです」

「10区とか9区だと、いるんだよね。虫食べる人。美味しいのかな?」


食べるものがなくてそうしていると緋月様は解り切っているのに、とんでもない厭味だと僕は苦笑いする。


「搾取する側は、搾取しすぎたらいけないんだよ。結局自分の首を絞めることになる。いくら虫が好きでも、虫が絶滅するほど食べたらいけないんだよ。大変なことになるからね」


生態系というものが壊れてしまうと、一体どうなってしまうのだろうか。

歴史の本では稲を食べる鳥を片端から殺したら、その鳥が食べていた虫が大量発生してしまうという弊害があったらしい。


「ま、そういうこと。話が長くなっちゃったけど、この話の一番重要なところは“私は悪い奴”ってとこだよ。そんな私の下で働き続けられる?」


緋月様はいつもの、影のない笑い方をして僕に訪ねてくる。


「……僕は……今はまだ、はっきり“こうしていきたい”という方向性がないです……でも緋月様が正しいとか、黒旗の人が間違っているとかじゃないんだなって、緋月様の話を聞いていて改めて思いました」


それでも、緋月様が言った通り進み続けなければならない。


「でも、それを見つけるまで……緋月様のおそばに置いていただけませんでしょうか」


自信はないけれど、ここで手を離してしまったら何も掴めないままだ。

誰のことも、何のことも理解しないまま、何もわからないままではもういられない。

僕は何も知らない子供のままではない。


「そう。ま、私も君が必要だから。おあいこってことで」


緋月様はそう言って立ち上がる。


「まだデザートがあるんだけど、食べる? アダムには内緒ね」

「え……」


――まだ食べるのか……


そう思ったけれど、僕は空腹でいることに気が付いた。

思いつめていてずっと空腹なんて感じなかった。昨日の夜は何も食べていなかったことを思い出す。


「いただきます。デザートは何ですか?」


自分のお腹をさすりながらそう言うと、緋月様は僕の方を向いてニヤッと笑った。


「虫」

「…………」

「冗談だって。そんな嫌そうな顔しないでよ」


緋月様は笑っていたけれど、あまりにも笑えない冗談だったと僕は思う。



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