第21話 大事なもん守れないお前が悪い




結局、真っ白な表紙の『ウロボロスの指切り』は、しっかりとシミがついてしまった。どうすることもできない。

親水性の紙なので、水で洗い流すことは出来なかった。


「シンシに謝ったらヒズミも許してくれんだろ」


と気軽に言う光さんは特に気にしていないようだった。もう少し罪悪感のようなものを持ってほしいと僕は内心毒づく。


「レイ、智春君に謝って」

「はぁ? なんで俺が謝んねぇといけねぇんだよ」

「はぁ…………智春君、ごめんね。本、さっき話してたのが完全にフラグだったみたい。汚しちゃったね。しかも……白い方」

「新しい本を買って弁償します……」

「殊勝な心掛けだね。でも、その本売ってないと思うよ。大昔に書かれた本だし。再出版にしても、かなりプレミアついてる」

「えっ……」


後ろの出版年数を確認すると、確かに723年と書かれている。


――今から約500年前の本!?


「そんな……貴重な本を……」


頭の中が真っ白になった。

どうしよう。そんな貴重な本を僕は汚してしまった。事の発端は光さんがハンバーガーを投げてきたことだけれど、確かに受け取れなかった僕にも落ち度がある。

いや、受け取れなかった僕が悪い。

ここが戦場だったら、このミスが自分の命を奪いかねない。

そう考えて僕はどんどん気持ち的に沈んでいった。


「あぁ? 中身が読めればいいだろ? それに表紙しか汚れてねぇんだったらカバーなんかとっちまえよ」

「本のカバーは本にとって大事な一部なの。そんな、とっちまえなんて簡単にはいかないものなんだよ。まして妃澄は本を大切にしてるんだから。大切にしてるから大昔の本もこうして残ってるんだからね?」

「そーゆーもんなのか? …………おい、クソガキ。さっさと読んで謝りに行け」

「…………いえ、読む前に妃澄さんのところへ謝りに行きます。その前に本屋さんで売っているかどうか確認して、もし新品同様のものがあれば買います」


僕が携帯端末で『ウロボロスの指切り』を検索するが、どこも“売り切れ”、“在庫切れ”、“取り扱いなし”だった。


「売ってないですね……」

「マイナーな本だしね」

「緋月様は読んだことがあるのですか?」

「あるよ。ていうか、持ってるし」


緋月様は本棚の立ち並ぶ壁際に歩いて行って、迷うことなく同じ本を持ってきてくれた。

妃澄さんの本の状態よりも良くはないが、かといって特別破れていたり、汚れていたりするわけではない。

年代物らしく、白い表紙は少し黄ばんでいる程度だった。


「緋月様、その本を僕に売ってください!」

「これ? いいけど……これの市場価値知ってるの?」

「解りませんが……じゅ……10万円くらいですか……?」

「10万円? はははははは、10万じゃ、5ページくらいしか買えないよ。」


1ページ、2万円換算として、203ページ。

単純計算で406万円だ。とても払える金額ではない。手に持っている本が、震える手と同じくして震える。

ますます僕は顔面蒼白になった。


「まぁ、ここでほこり被ってるよりは、君にあげた方がいいかな。あげるよ」


そう言って僕に本を差し出してくる。しかし、僕は受け取ることができない。


「そ、そんな高価なもの、いただくことはできません」

「別にいいよ。私の頭の中には入ってるし」

「そういう問題じゃねぇだろ……」

「市場価値はまぁ、そのくらい高価なものだけど本は本でしょ? ただの紙とインクだよ。いいからいいから」


ポン、と本を僕に渡してくれた。


「好きにしていいよ」

「…………やっぱり、謝ってきます」

「そう。ならまだ行けば妃澄はいるかもね」

「はい、行ってきます」


僕は汚れた本と緋月様がくれた『ウロボロスの指切り』を手に持ったまま、緋月様の部屋から出て、9区を目指した。




◆◆◆




列車から降りて9区の事務所に走るが、足取りが重くなってくる。息が上がっているのもあるが、どう謝ったらいいか考えていたからだ。

どう謝れば真摯な態度なのだろうか。

どう謝ったら妃澄さんに許してもらえるのだろうか。


考えがまとまらないまま、9区の事務所にたどり着いた。


「はぁ……はぁ……っ!」


走っている姿を周囲の赤紙の人に変な目で見られるが、僕は構わず妃澄さんの事務所の中へと入っていく。

部屋へつくと、僕は切らした息を何とか整え、うるさいほどに脈打っている心臓を鎮め、ノックする。


「妃澄さん、昼間にお邪魔した智春です。入ってもよろしいですか?」


なんとか普通を装って言ってはみるが、やはりまだ息が整っていない。


「入っていいぞ」


その言葉が聞こえ、僕は深呼吸をしてから「失礼します」と言って扉を開ける。

妃澄さんは刺々とげとげしい魔王の椅子に座って脚を組んでいた。緋月様と同じくして書類の整理に追われているようだ。


「どうした?」


妃澄さんはすぐに僕の手に持っている本に目を移す。


「ごめんなさいっ!」


深々と僕は頭を下げる。

その僕の謝罪に対し、妃澄さんは動じずにいるようだった。頭を下げていて見えないのに、冷ややかな視線を感じる。


「僕、借りたばかりなのに、本を汚してしまいました……」

「……それで?」


昼間の親切にしてくれた時の声とは違う、冷たい声だった。

冷や汗が出てくる。


「貴重な本だと知りませんでした。弁償しようと探しましたが見つからず……緋月様が持っていらっしゃったのを僕にくれました。その本と交換してもらえませんでしょうかっ」

「……緋月様から施しを受けて、それを俺にそのまま返そうとしているということか?」

「…………否定できません。汚してしまったのは僕です。必ず緋月様にお支払いします……」


言い訳はいくらでも出てきた。

光さんがハンバーガーを投げたせいだ。そう言ってしまいたい。けれど、光さんが尚更非難されてしまう。

これは僕の責任だ。


「見せてみろ」


そう言われ、僕は持っていた2冊の『ウロボロスの指切り』を妃澄さんに手渡した。


「…………何の汚れだ?」

「……ケチャップと油です……」

「フライドポテトでも食べながら読もうとしていたのか?」

「いえ……」

「じゃあなんでケチャップと油がつくんだ」

「…………ハンバーガーを落としてしまいました」


間抜けな言い訳だと、自分でも思っていたが僕は正直にそう言う。


「………………ふっ」


妃澄さんはしばらく黙って僕を見つめた後、笑った。

僕は妃澄さんが笑うとは思わず、何度も瞬きをして動揺をあらわにする。


「くくく……ハンバーガーとは……」


手で顔を隠す様にして、笑っていた。


「そうか。いいだろう。許してやる」

「……ごめんなさい。本当に……僕が落とさなかったら……」

「別に怒っていない。やってしまったことは仕方ないからな。やってしまった後、その後の態度が大切なんだ」

「…………」


寛大なその態度に、僕はますます申し訳なくなって肩身を狭くする。妃澄さんを直視できずにいた。


「それに、これは俺が仕組んだことだ」

「え……?」


唖然としていると、それがまたおかしかったのか、妃澄さんはまたもや笑い始める。


「光に、智春が持っている俺が貸した本を、どうにかして汚せと言ったんだ」

「ど……どうしてですか?」

「どういう態度をするかと思ってな。“光が悪い”と言い訳をしていたら、お前を緋月付きからなんとかして降ろそうと考えていた。お前は言い訳しなかったな」

「……ハンバーガーを投げられて、受け取れなかった僕も悪いですから……」

「はははははは、光に言っておけ。食べ物を投げるなと」

「それは……緋月様に言われていました」

「くくく……そうだろうな? お前が1回目で受け取っていたら、お前にコーヒーでもぶっかけるつもりだったろうよ……悪かったな。お前の素直なところが見られて俺は満足だ」


2つの本を僕に手渡してくる。「くれてやる」と。


「……こんな高価な本、いただいてしまっていいんですか?」

「あぁ。俺はもう読み終わった。それにそういうベタベタな恋愛小説というのは苦手だ」

「そう……ですか……」


緋月様の言っていた通り、妃澄さんは意地悪な人だと僕は思った。


「問題を先延ばしにせずに今日謝りに来たのもいいところだな。問題を隠蔽しようと細工をしないのも大切だ。赤紙で働いているなら、それが当たり前だからな」

「……他の人にも同じようにしているんですか……?」

「いや。お前のことは達美から聞いてな。そこそこ、渉には及ばないが頑張っているようだと言っていたから試してみたくなっただけだ」

「達美さんがですか……?」


前日にあれほど僕を叱責したにも関わらず、達美さんは僕をそのように評価しているということは意外だった。自然と眉間にしわが寄る。


「そう眉間にしわを寄せるな。あいつは俺と同じく厳しいが、努力している者を認めない奴ではない」

「そうですか……恐縮です」

「光も努力していると緋月様から聞いているが、いまいちどう努力しているのかとらえづらくてな。俺は許しても、達美はどうにも光のことが許容できないらしい」

「……光さんと、妃澄さんは仲が良いんですか……?」

「まぁ……良くはない。あいつは緋月以外には懐かない。とはいえ、扱いやすいやつだからな“お前は本一つ汚すことがそんなに難しいのか”と言ったら相当ご立腹だった」


――あおられてやったのか……


妃澄さんに煽られて、「やってやらぁ!」と言っている光さんの姿は容易に想像できた。


「まぁ、その本は貴重な本だが、所詮は紙とインクだ。大事なのは他人の価値ではなく、自分の信じる価値だ。緋月様がお前に対して価値を見出していても、俺がお前に価値を見出さなければ、お前は俺にとって緋月様のお付きとしては無価値だ」


指を脚を組み、妃澄さんは言葉を続ける。


「光は光で、緋月様が指導している間に大分マシになってきたな。初めは大反対だったが、本人なりに努力してるしな。まぁ……あの態度に区代表のほとんどが難色を示しているが。お付きとして精進するんだな。黒い本の方は黒旗で発行している本だ。そっちもくれてやる」


妃澄さんは立ち上がって襟を緩めた。

僕は自分の傷のある方の襟に触れてしまう。大丈夫だ。僕の傷跡は襟の内側に隠れている。

それを確認しながら、妃澄さんの方を見る。


「それから……くれてやった本の内容だが……読めばわかると思うが、罪人に対しての価値観が少し変わるかもしれない。覚悟して読むんだな。黒から白の順番で読むのが良いだろう。もう時間も遅い。俺は帰るからお前も帰れ。光によろしくな」


そう言って妃澄さんは出て行ってしまった。

事務所の施錠が必要ないとはいえ、僕はただ一人残された。それは妃澄さんが僕を信頼してくれた証だと言ってもいいのかもしれない。

信用していない人間に、自分の事務所を預けるわけがない。


――……信用がなかったからか……僕に監査をさせずに話し相手をさせたのは……


どこまでも抜け目のない人だと僕は思った。

そうまでしないと9区の管理は出来ないのかもしれない。

僕は2冊の本を持って、緋月様の部屋へと戻ることとした。




◆◆◆




緋月様の部屋へ戻ると、緋月様は相変わらず忙しそうに書類の整理をしている様だった。

隣にいる光さんはおとなしくまた本を読んでいる。


「あ、おかえり」


緋月様が僕に気づくと、そう声をかけてくる。


「妃澄は許してくれた?」

「はい……」

「ほらな? シンシに謝れば許してくれるって言ったろ?」


何の悪びれもない光さんに対して、さすがに僕も「ムッ」とする。


「光さん、酷いじゃないですか。妃澄さんから全部聞きましたよ」

「あぁん? 大事なもん守れないお前が悪いんだろうが」

「…………」


そう言われてしまうと、僕は反論する余地がない。

光さんの暴論に対して返す言葉を失ってしまうなんて、僕もまだまだ精進が足りない。

僕が黙ってしまうと、緋月様はその沈黙を破った。


「ね? 妃澄は意地悪でしょう?」

「……間違ったことを言っている訳じゃないと思います。ちょっと意地悪だなって思いましたけど……」

「ははははは、まぁ、妃澄も達美同様に君の真価を見極めたかったんだよ」


何もかもをお見通しのような様子で、緋月様は笑っている。


――もしかして、緋月様も仕掛け人……?


「緋月様もご存じだったんですか?」

「知ってたよ。まぁ、ヒントは出しすぎちゃったかな? 意地悪してごめんね。妃澄も自分で確かめないと認められない人間だからさ」

「そうだったんですか……」


では間違った選択をしたら、僕は妃澄さんからも、緋月様からも信用を失っていたのだろうか。


「俺はお前に怒られゾンだけどな」

「食べ物は投げちゃダメ」


そんなやり取りに、僕は気が抜けた。

緋月様が僕に渡してくれた方の本を、緋月様に僕は返す。


「これ……妃澄さんは僕にくれるって言ってくれたので、お返しします」

「そう? くれたんだ。じゃあこれはレイにあげようかな?」


そのまま『ウロボロスの指切り』を光さんに横流しする。


「はぁ? お前がいらねぇからって俺に押し付けんなよ」

「いらなくないよ。黒旗に関係ある本だし。こうなってたらいいなって私も思うし」

「何訳解んねぇこと言ってんだよ……」

「ちょっと……レイには内容的に難しいかも知れないけど」

「あぁ? 難しくねぇし」


乱暴に光さんは本を奪い取る。

「乱暴にしたらバラバラになっちゃうよ」と緋月様が慌てる様子で本を見た。

一度渡したその『ウロボロスの指切り』を緋月様はペラペラと見返す。


「妄想型統合失調症と、希死念慮が解らないとぜんっぜん解んないと思うけど」

「なんだって? モウソガタ? キシネンリョウ?」

「まだレイには早いって」

「ガキ扱いすんな!」

「ははははは。あぁ、智春君とレイ。明日は休みでしょ? ゆっくり休んで休み明けに黒旗の偵察よろしくね。私ももうこの辺にして明日にするからさ」


緋月様は書類を適当にまとめて立ち上がる。

そうだ。そのために僕はこの黒い本と白い本を妃澄さんから借りたのだ。

こんなに本を借りるのが大変なのだったら、僕はもう本を借りたくないと心に刻む。


「明日もお前仕事か?」

「ちょっと仕事して、また研究室に籠ろうかな」

「んだよ、お前またひきこもりかよ」

「そう。それじゃあね」

「俺も帰るぜ」


2人に連れ立って僕も緋月様の部屋から出る。


「じゃあね、智春君」

「おいクソガキ、そのヒズミにもらったっつー本をよく読んで黒旗の勉強しておけ」

「こら。休みなんだから仕事の話はしない」

「いつもうるせぇなお前は」

「それが仕事なの」

「もうオフなら説教はやめろ!」


その声が徐々に遠くなっていく中、2人の姿をしばらく見守っていた。


――明日は休みか……なんだか慣れないな……


仕事をしているうちは、仕事に必死だから考えなくて済むが、途端に考えることがなくなると昔のことを思い出して僕は落ち込む。

特に、まだ母さんが死んだことと、父さんが7区に行ったことの整理がつかないままでいた。

それに、緋月様の側近であることに対して、僕はやっぱりまだ自信がつかない。


――本を読んで休日を過ごせば……何も考えずに済むかもしれない……


黒い本と白い本を持って、僕は自分の部屋へと向かった。


いや……


黒い本と、赤い模様のついた白の本を持って。



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