第18話 必要




浮かない顔で緋月様の部屋に戻る途中、渉さんは僕に何も言わなかった。

励ましの言葉も、辱めの言葉も、同乗の言葉も、卑下する言葉も何も言わなかった。

それが僕にとっては救いだ。

僕には、やっぱり首の傷を隠し続けなければならない自分の中の恥ずかしさがあった。


――自殺者は大昔は年間2万人以上いたと本で読んだことがある……


その当時は自殺なんて珍しくもなんともなかっただろう。

今も珍しくもなんともないとは言えない。

特に1区では。

他の区でも自殺という現象はかなり減ってきている。

事前に食い止められているという意味もあるが、そもそも自殺をしようという考えが廃れてきているのだ。

自殺を考える人はなにか、耐えられない苦痛に直面した人が多い。しかし、1区ではそういったことは少ない。赤紙によって家族を引き裂かれた人たちは、自分も追いかけて下の区に行くこともあるが、絶望に自ら命を絶とうとするケースは珍しいらしい。

1区の人が、3区へ行くようにするという話もある。

1区にいたときと生活は変わるだろうけれど、それでも家族や友人、恋人を追いかける人もたくさんいる。

そんなことをもやもやと考えているうちに、緋月様の部屋へたどり着く。


「おかえり。2人とも。もうすぐ監査も終わりかな?」

「終わったよね。蓮一も佳佑も真面目だから」


声が二度聞こえた。

緋月様は書類を書いたり、読んだり、時折隣に置いてある顕微鏡で何か覗き込んで書き留めたり、その合間に食事をしたり……

身体がいくつあっても足りない。

と、言いたいが緋月様は結合性双生児のように頭と腕を腰の辺りで二つに分けて仕事をしていた。

頭と頭の間に血の裁量のような管があり、そこで二つの脳を繋いでいる様だった。

いや、違う。

繋いでいるというよりは、身体を分裂させるにしても脳は分離しきれないのかもしれない。


「結合性双生児は見たことない?」

「最近はめっきり生まれなくなってるからね」


の緋月様のどちらを見たらいいか分からないでいると、緋月様の隣の袖机で何かの本を読んでいた光さんが緋月様の方を見る。


「おい緋月、それキモイからやめろって」

「こら。キモイとか言わないの」

「そうだよ。レイはたまたま健常者に生まれただけなんだから」

「二人で喋るな! 鬱陶しい!」


緋月様はゆっくりと結合し、一人になった。

何度か瞬きをしていつもの緋月様へと戻る。


「はいはい、これでいいでしょ?」

「そんなキモイ状態にならないと回らない仕事なら、もっと別の奴にやらせたらいいだろ?」

「あー……今は特に忙しいだけ。佳佑、どうだった?」


渉さんと僕を見て、緋月様は佳佑さんのことを訪ねてくる。

僕は咄嗟に目をそらしてしまった。無意識に自分の服の襟を正してしまう。


「あまり良くはなさそうでした」

「そう……お見舞いに行きたいんだけどさ、わ子に少しの間任せてもいい?」

「かしこまりました」

「書類の分別だけしておいてくれたらいいから」

「はい」


僕は、背中に黒い翼を生やす緋月様をただ見ていた。

何度か瞬きをする間、まさに瞬く間に緋月様は背中に黒いコウモリのような翼を身にまとった。

忙しいと解っているのに、どうしても聞かずにはいられない。


「緋月様……」

「ん? 君も空を飛びたい?」

「おい、こいつはこれから報告書だろ?」


光さんが読んでいた本をその辺に投げ出して緋月様に文句を言う。


「レイも飛びたい?」

「お前、バカか? そんなこと言ってねぇだろうが」

「光、緋月様はお忙しいのですから引き留めないでください。智春君も」

「ちっ……」

「ごめんね」


緋月様は謝ってから颯爽と窓から出て行ってしまった。

渉さんがその窓を閉める。


「智春君、報告書をお願いします」

「……解りました」


光さんは投げ出した本をそのままに部屋から出て行ってしまった。

相変わらず自由奔放だった。


「まったく……」


光さんが投げ出した本を僕は拾って机の上に置いた。表紙には「ゆめのくにのネコ」と書かれている。


「童書……?」


光さんはこんな子供が読むような本が好きなのだろうか。

そんなことをぼんやりと考えたが、僕は報告書に専念することにした。




◆◆◆




専念していたはずだったけれど、僕は何点か渉さんにミスを指摘された。

「しっかりしてください」と叱責され、更に僕は落ち込む。見かねた渉さんに「今日は休んでください」と言われ、部屋に戻った。

食べかけの味気ないパンに、質素なジャムを塗ってみるが何度も何度もバターナイフを行き来させてしまう。

ジャムを塗るのすらおざなりになって、口に運んでも美味しいと感じなかった。


「…………僕なんか……」


僕なんて全然、なにもできないのに。

その悪夢に一度とりつかれるとその考えから抜け出すことができない。

喉につかえるそのパンが何度か僕の胃に送り込まれた後、扉をノックする音が聞こえた。


「はい」


手を軽く払い、自分の服を確認し、自分の首元が見える服を着ていることに焦りを感じる。


「智春君、私」


緋月様の声だった。

僕は尚のこと焦る。


「今開けます」


首の傷を隠さなくてもいい相手だと解ったと同時に、忙しい緋月様の手を煩わせないようにという別の焦りが駆け巡る。

扉を開けるとまだ赤紙の制服を着ている緋月様がいた。何やらバスケットを持っている。


――もう22時なのに……まだ仕事されてるのか


「遅くにごめんね。起きてたみたいだね」

「はい。どうされましたか?」

「あぁ、まぁ……その……ここで立ち話もなんだし、ちょっと入ってもいいかな」

「えっ……はい。今用意いたしますので……」

「いいよいいよ、多少汚くても」


汚くはなかった。

しかし、僕の部屋は何もなかった。

必要最低限のものしかない。緋月様に用意してもらった家具がひとしきりあるだけで、何も飾り付けしていない。

私物らしいものは何もなかった。


「お邪魔します。あ、綺麗にしてるね」

「何もないだけですよ」

「食事中だった? パンにジャム……これだけ? 夕食」

「はい……食欲がなくて」

「育ち盛りなんだから、食べないと。実はサンドイッチを持ってるんだけど、智春君にあげるよ」


緋月様はバスケットの中から食べきれないほどの量のサンドイッチを出してくる。

ハムにツナ、ジャガイモ、レタス等の食材は様々なサンドイッチだ。どれも市販のもので包みがついている。


「食べきれないかな?」

「えっと……そうですね。そんなに沢山は」

「そう? じゃあ一種類ずつね」


別に、僕にサンドイッチを届ける為だけに緋月様がきたわけではないことだけは解っていた。

忙しい緋月様がわざわざそんなことをするわけがない。


「座っていいかな?」

「はい、もちろんです」


互いに席に着く。

緋月様は僕の方をまっすぐに見つめてきた。


「それで? 私に何か言いかけてたでしょ? その話を聞きに来たんだけど」


ドキリと僕は心臓が跳ねる。

心の準備をしていないまま、そう問いかけられて言葉につまる。それに、そんなことを聞くために緋月様は僕の部屋へ来たのだろうか。


「えっと……すみません。あのときお忙しそうだったのに呼び止めてしまって」


咄嗟に出てきた言葉はそれだ。

緋月様の赤い瞳を僕は直視できなかった。指をせわしなく動かし、視線はテーブルに置かれたサンドイッチを追いかける。


「いいよ。私には無限の時間があるからね。そう焦らなくていい」

「…………」


僕が焦っているのはお見通しのようだった。

何とも言えない気まずさに、僕は尚更言いづらくなってしまう。


「…………今日、佳佑さんに会って、ものすごく努力されてるって解りました」

「そうだね、佳佑は頑張り屋さんだから」

「他の区代表の方もそうです。ものすごく努力されてるんだなって思いました」

「うん。みんな頑張ってくれてるよ。ありがたいことにね」


ギュッと自分のズボンを掴んだ。


「僕……緋月様の近くにいることに、やっぱり自信が持てなくて」

「そう? 智春君も頑張ってくれてると思うけど」

「佳佑さんは緋月様のお付きになりたがってました……」

「知ってる。そう言う人は多くいるよ」

「僕は試験もしていないですし……全然ふさわしくないって思うんです」

「ふーん? じゃあ、それってさ、私の側近辞めたいってこと?」

「それは……!」


――違う


僕は緋月様に恩返しがしたい。役に立ちたいと思ってる。

心の底から。


「それは違います。こんな僕でも緋月様にできることがあるなら――――」

「智春君」


矢継ぎ早に僕が弁解しているところを緋月様はとめた。


「落ち着いて。いいね?」

「……はい」

「君は薫に会った? 今の3区の区代表」

「いえ……」

「そっか。わかるかな? SG《すいみんガス》の使用の会議の場で盛大に拍手していた人だよ。顔に星の刺青をしてる……髪の毛を銀色に染めている……」

「解ります。目立っていましたし……というか、いつも目立っていますし」

「そう。薫はね、私のことを神のように信仰してる。私の言うことが絶対って思ってるし、なんというか……自分の意思がないというか……私の為なら命だって簡単に投げ出してしまうような感じ」

「………………」

「智春君も、私に対してそうしてほしくない。というか、誰にもそんなことしてほしくないよ。薫にもね。ラファエルの子たちも程度は違えどそういう傾向が強い」

「そんなつもりは……」

「ないって? 私にはそう見えたけど? 恩義を感じて働いてくれるならいいけど、恩義を感じて私の為に破滅されたら困るんだ。私には君が必要なんだ。佳佑も必要だし、他の子も必要。私は上に立つものとして、適切かどうかを見極めてるつもりだよ」


『必要』と言われ、僕は今までに感じた事のないような感覚を覚える。


「…………ありがとうございます」

「“どうして自分が?”って、思う?」

「……何度も思いました。今も、思っています」

「君には、君にしかできないことがある。私にとっては重要なことだよ」


自分の不安が溶けていくのが解った。

居場所のない僕を必要としている緋月様の言葉は暖かかった。それが嘘だとも思えない。

いつも緋月様はまっすぐに答えてくれる。


「他に、吐き出しておきたいことはある?」

「……いえ」

「佳佑のことは大丈夫だから。今日話をして、また数日後に復帰できるようになったら復帰するから。さて、じゃああんまりお邪魔していると悪いから私はおいとまするよ」


緋月様はそう言うと、立ち上がった。僕も立ち上がり、緋月様の方を見送ろうと大した距離でもない距離を歩く。


「レイはね」


扉を開けて、緋月様は振り向きざまに言う。


「私に相応しくなろうって努力してるよ。見えないかもしれないけどね」


そう言って、銀の長い髪を揺らしながら、月明かりの明るい廊下に消えていってしまった。

パタリと扉を閉めると、ただ緋月様の置いていったサンドイッチだけが残る。


「…………しっかりしないと……僕も……」


僕はサンドイッチを開けて食べてみた。ハムの挟まっているサンドイッチだ。


ちゃんと美味しいと思えた。



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